第6話

 互いに向かい合ってベッドに入った俺たちは、それぞれ対照的な表情をしているんじゃないかと思う。

 氷岬は薄く微笑み、俺をじっと見つめてくる。俺はと言えば緊張で顔を真っ赤にしているに違いなかった。どうして向かい合ってベッドに入ってしまったのか。最大の失敗だ。


「ねえ、顔、赤いわよ」


 長いまつ毛、艶めく唇が蠱惑的に動く様は、俺の視線を釘付けにするには十分だった。


「うっせ。お前こそこんなに簡単に男のベッドに潜り込むとか、もっと貞操を大事にしろよ」

「私が操を捧げるのは拓海くん、あなたって決めたの」

「よくもまあそんな恥ずかしいこと平気で言えるな。恥じらいをどこかへ捨てちまったんじゃないか」

「そうね。私は恥じらいを捨ててしまったのかもしれないわね」


 くすくすと笑う氷岬。俺たちは親父に聞こえないように声を潜めて会話する。

 こうしている間はなんだか秘め事っぽくて、妙な楽しさを孕んでいた。氷岬が手を握ってくる。


「……寂しいから、手を握っていてほしいわ」


 震える声でそう言う氷岬からは、いつもの余裕は感じられなかった。俺はその手を握り返すと氷岬の顔から目をそむける。


「そんなこと言って、俺と手を繋ぎたいだけじゃないのか」

「そうかしら。そうね。あなたと手を繋ぎたかったのよ。それぐらい察しなさい」

「こうしてると本当に夫婦みたいだな」

「あら、私を嫁にすること、前向きに考える気になった?」

「違えよ。ただ信じられないことになったなと思っただけだ。現実感があんまりないというか」


 先日までこうして誰かと枕を同じくするなんて考えられなかったんだ。それが公園で氷岬を見つけ、拾い、こうして一緒に生活している。不思議なこともあるもんだ。


「それはあなたが優しかったからよ」

「そんなことはないよ。あんな雨の中ずぶ濡れになっている女子を見かけたら、誰だって風呂ぐらい貸すって」

「そうかもしれないわね。でも、その後も家に置いてくれたのは間違いなくあなたが優しかったから。私はその優しさに救われたの。すべてを失った私はね」


 俺の行動が氷岬を救えていたのだとしたら、あの時行動して本当に良かったと思う。


「なら良かったよ。いいからもう寝ろ。手は繋いでおいてやるから」

「ふふ、やっぱり優しいわね」


 氷岬はそう言うと目を閉じた。俺も目を閉じて眠ろうとするが、なかなか寝付けそうにないなと早くも危険信号が灯っていた。




 結論を言おう。一睡もできなかった。当たり前じゃん。だって女子との同衾だよ。嫌でもあんなところやこんなところに視線が引き寄せられてしまうというか。とにかく眠れなかった。氷岬はマジで一晩中手を握ったままだったし、逃げることはおろかトイレにすら行けなかったぐらいだ。


「おはよう、拓海くん」

「おはよう、氷岬」


 俺の顔は死んでいたことだろう。氷岬は顔色が凄く良く、よく眠れたようだ。よく眠れたのなら良かった。

 顔を洗い、リビングに赴くと氷岬が既に調理を始めていた。俺は大欠伸をしながら席につくとテレビをつける。朝の天気予報を見ると午後から雨になるらしい。傘を忘れないようにしないとな。


「お待たせ」


 テレビで暇を潰していると氷岬が配膳してくれる。ごはん、味噌汁、納豆という日本の朝食の定番メニューだ。氷岬が来るまではトースト派だったが俺は人に作ってもらった飯は文句を言わずに食べるという当たり前の信条があるので、感謝しながらいただいている。好き嫌いは特にないのは自分の長所だと思っている。


 親父はもう家を出たらしい。またしばらく帰ってこないのだろうか。氷岬と向かい合って朝食を取る。これから毎日、こんな風景が当たり前になっていくのだろうか。それは本当に夫婦と言っても差し支えないのではないだろうか。というか、他人に言わせれば間違いなく夫婦と言われるだろう。

 それでいいのか。俺は汐見が好きだ。汐見にこのまま勘違いされたままでいいのか。いいわけがないだろう。だったら事情を説明するか。だがこの件はおいそれと他人に話していい内容ではない。

 氷岬に相談するしかないか。


「なあ、氷岬。相談があるんだが」

「なにかしら」

「近しい人間にだけ、俺たちの関係のこと話しちゃダメか?」


 氷岬の家の事情が絡む。親が夜逃げしたなんて他人に知られたくはないだろう。それでも俺は汐見にだけは勘違いされたくない。

 俺の真剣な眼差しを受けて、氷岬は淡々と答えた。


「いいんじゃないの。あちこちに言いふらしたりしなければ、私は別に構わないわ」

「いいのか。俺の家にいる理由も話すことになるかもしれないんだぞ」

「いいわよ。どうせその近しい人間って汐見さんのことでしょう。居候させてもらってる身であなたを困らせる真似はしたくはないし、基本的にはあなたの意向に従うわ」

「そ、そうか」


 近しい人間っていうのが汐見だと一発で見抜かれたのは恥ずかしいが、氷岬の許可が下りたのは良かった。いくら氷岬がいいと言っても軽々しく言いふらしていい内容でないのは確かだし、俺もそんなことはしたくない。

 あくまで汐見にだけ、汐見にだけだ。

 朝食を終えた俺たちは無駄な対策だろうがとりあえずは別々に家を出た。




 学校に着き教室に入ると、クラス中の視線を感じながら俺は席に着く。すると真っ先に俺に寄ってきたのは駿だった。


「おいおい拓海―。どういうことだよ。なんかお前と氷岬さんが付き合ってるって噂になってるぞ」


 駿は驚いた様子で興奮気味に前のめりで話してくる。

 俺はそれを手で制しながら、声を潜めて言う。


「これは内緒にしてほしいんだが、氷岬と付き合いだしたのは本当だ」

「マジかよ。だってお前には汐見さんが」

「これにはちょっと事情があるんだ。まあだから見逃してくれ」

「拓海がそう言うならわかったよ。静観することにするぜ」


 駿は眼鏡をくいっと持ち上げながら氷岬を見る。


「しかしお前と氷岬さんがねえー。天と地がひっくり返ってもないと思ってたわ」

「そうだよな。人生何があるかわからん」


 駿への説明はこれで十分だろう。氷岬はああ言ってはいたが、駿は野次馬根性もなければ出歯亀でもない。これぐらいの説明で納得してくれるいい親友だ。


「お、おはよう藤本くん」


 汐見が教室に入ってきて声を掛けてくる。教室内では俺の一挙手一投足に注目が集まっているようだが、俺は気にせずいつものように汐見に挨拶する。


「ああ、おはよう汐見」


 きっと今頃俺と氷岬が付き合っているという噂が校内を駆け巡っているのだろう。

昨日俺たちを目撃したのは汐見だろうが、彼女が噂を広めたわけではないはずだ。汐見はそんなことをする子じゃないし、むしろ秘密にしてくれる子だろう。だから昨日の俺たちの様子を見ていた誰かが噂を流しての現状ということだ。元々氷岬は注目度が高い。その氷岬に男の影があれば噂になるのは時間の問題だった。俺が迂闊だっただけだ。


「あー汐見、話があるんだけど今日の放課後あいてるか」

「うん、もしかして昨日話そうとしていたことかな」


 昨日伝えようとしていたのは俺の君への想いだが、都合がいいし訂正する必要はないだろう。


「ああ、昨日はちょっとタイミングが合わなかったからさ」

「うん、いいよ。じゃあ放課後教室で」


 汐見はそう言うと席に着いた。

 アポイントは取れた。あとは汐見に氷岬とのことを説明するだけ。その行動でもしかしたら俺の気持ちが汐見に伝わってしまうかもしれないが、それ以上に汐見に勘違いされたままっていうのが嫌だ。

 だから俺は、汐見に釈明する。

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