第5話
「私にはもう家族がいないの。でも、新しく家族を作ることはできるわ」
氷岬はそっと俺の手に手を重ねた。その手の温度は俺よりも低く、ひんやりとしている。
「……悪かったよ。無神経なこと言ったな」
「かまわないわ。あなたが汐見さんのことを好きなのはわかっていたもの。でも、私が必ず振り向かせてあげるわ。きっとあなたにプロポーズさせてみせる」
頬杖を付いて微笑む氷岬は、俺の頬を人差し指で突いてくる。どうやら氷岬は本気らしい。本気で俺の嫁になるつもりのようだ。
「お前みたいなヤンデレな嫁、勘弁なんだが」
「あら、私と結婚したら汐見さんを愛人にすることも認めてあげるわよ」
「できるか、そんなこと!」
俺は親父がいるのも忘れて大声を上げてしまった。まったく、氷岬がいると心臓に悪い。
「風呂あがったぞー。お前らも早く入ってしまえ」
親父が風呂から上がったので、氷岬に声を掛ける。
「おい氷岬、先に入っていいぞ」
「これは私が出た後のお湯をおいしくいただくのね」
「なぜそうなる。そんなこと言うなら俺が先に入るよ」
俺はそう言って脱衣所に駆け込んだ。服を脱ぎ棄て、生まれたままの姿になって風呂場へ。お湯に浸かって深い息を吐く。
さっき氷岬が見せた表情はとても儚げで頭から離れない。そうだよな。すました顔をしてはいるが、氷岬は両親に捨てられたんだ。その心が平穏であるはずがないよな。俺はそんなことも察せず無神経なことを。今は氷岬のやりたいようにさせてやるのがいいのかもな。
「って言っても、嫁は勘弁してほしいけど」
脱衣所に人の気配がした。親父が何か忘れ物でもしたのだろうか。そんな風に油断していた次の瞬間、勢いよく風呂場のドアが開いた。
「……っ⁉」
「しーっ。声を出したらダメよ。拓海くん」
バスタオルを巻いた氷岬がなんと風呂場に入ってきたではないか。俺は悲鳴を上げそうになったのをなんとか堪え、反射的に前を隠した。
「立派な物を持っているのね」
「見てんじゃねー!」
俺は声を潜めて抗議する。どうして氷岬が風呂場へ入ってくる。咄嗟のことで思考が完全にフリーズしていた。
豊かに膨らんだ胸元は谷間が作られており、視線が釘付けになる。同じ人間とは思えないほどの艶のある白い肌が男の情欲をそそってくる。
「拾ってくれたお礼に、背中を流しに来たのよ」
氷岬は悪戯っぽく微笑むと、椅子を手で叩いた。どうやら座れということらしい。
「目瞑ってろよ」
頷く氷岬。もう一度見られているので変わりないだろうが気持ちの問題だ。俺は氷岬が目を閉じたのを確認すると湯船から上がった。
股間をタオルで隠し、氷岬に背中を差し出した。
「もう目開けてもいいぞ」
「それじゃあ、背中、洗うわね」
そう言うと、氷岬はタオルを石鹸で泡立てて俺の背中に指を這わせた。
「うっ」
敏感な俺はつい反応してしまうが、氷岬は気にした様子はない。泡立ったタオルを背中に密着させると、優しい手つきで背中を洗い始める。
「お前どういうつもりだよ。こんなリスクのある真似しやがって」
背中越しに避難がましい声をぶつけると、氷岬は飄々とした様子で返してくる。
「だから拾ってくれたお礼よ。男の子はこういうの嬉しいんでしょ。それにお父さんにバレても私たちは恋人同士。これぐらいのことをしてたって不思議じゃないわ」
「そんなことあるか。普通に俺の立つ瀬がないわ」
そんなやり取りをしている間にも背中は洗われ、綺麗になっていく。正直、こうして背中を誰かに洗ってもらうのは心地よかった。普段、背中を洗うのは一苦労だし、こうして楽ができる。ただ、女子とこうして風呂に一緒という状況はとても心が落ち着かない。これでも大事なところが反応しないようにできるだけ意識の外にしているのだが、それでも氷岬のきめの細かい手の感触は、とても気持ち良かった。
「洗い終わったから流すわね」
そう言うと氷岬は立ち上がり、シャワーを手に取った。蛇口を捻り、お湯を適温にするまで様子見し、俺の背中を流し始めた。
石鹸が洗い流され、さっぱりとした心持ちになる。
「背中を流し終えたら出て行けよ、氷岬」
「わかってるわよ。あとは一人の時間を楽しんだらいいわ」
意味深に口の端を上げると氷岬は風呂場を出て行った。言われなくても頭から離れそうにないよ、お前の肢体は。
結局俺は風呂場で妄想が止まらず、のぼせる一歩手前まで入ってしまった。風呂から上がると氷岬が勝ち誇ったように笑ってきたので、睨み返しておいた。
「それじゃお風呂いただいてきます」
氷岬はそう言うと、脱衣所へ消えていく。あの野郎、俺が何もできないヘタレだからって舐めた真似しやがって。いっそのこと今から風呂場へ突撃してやろうか。勿論冗談だが。仮に俺がヘタレじゃなかったとしても今は親父がいるからそんなことはできやしない。
氷岬が風呂から上がると湯上りの様子に再び見惚れた俺は、顔を逸らしながら自室へとこもった。
すると、部屋のドアがノックされ、親父が入ってくる。
「氷岬さんって俺の部屋使ってもらってたらしいな」
「ああ、そうだけど」
「悪いんだが今日はお前の部屋で二人で寝てくれ。氷岬さんもこんな親父より恋人と一緒の方が安心できるだろうし」
「はあっ⁉ 何言って、そんなのできるわけが」
「それともお前は何か。親父と氷岬さんが一緒に寝ても気にならねえっていうのか」
それは確かに俺の立場では反論できない。俺は氷岬の恋人なのだから。他の男と寝ることを許すはずがないのだ。
「ソファとかで寝てもらうことってできないの」
「馬鹿言うな。女の子をソファで寝させらえるわけないだろ」
だったら俺がソファで寝るよと言いたいところだが、親父は訝しんでいる。これ以上拒み続けることはできそうもない。
「わかったよ。今晩は一緒に寝る」
「別に普段から一緒に寝てくれてかまわないんだぞ。子どもができるような真似さえしなければ」
その危険があるから嫌だというのがわからんのかこの親父は。同じ男なら性欲がコントロールしづらいものであることはわかりそうなものなのに。
「というわけで、よろしくね、拓海くん」
氷岬が枕を持って現れる。パジャマ姿の氷岬も相変わらずよく似合っている。そもそも女子のパジャマ姿を見ることができるのがレアケースだろう。お団子でまとめた銀髪、少し火照った体。その体から滲み出る色香は、確実に俺を危険な道へ引きずり込むだろう。果たして俺は耐えられるのだろうか、この一晩を。
部屋に入ってきた氷岬は俺のベッドに腰掛けた。どうやら図太いながらベッドで寝るつもりらしい。以前にも書いたがこの部屋のベッドはシングルなので二人寝るにはやや狭い。一緒に眠ろうと思ったらどうしても体が密着気味になってしまう。
というわけで、普通に考えるならば、どちらかが床に寝るのが広々としていいのだろう。だが、氷岬はそれを許そうとはしなさそうだ。ベッドの横をポンポンと叩いて俺を誘ってくる。
「どうしたの、拓海くん。早くこっちにおいでよ」
からかうようなその口調に、俺は何とも言えず呆然と立ち尽くす。そうこうしているうちにしびれを切らした氷岬が俺の手を取り、ベッドまで引いていく。なぜだが上手く力が入らない。されるがままにベッドに誘われた俺は、額に汗が浮かぶのを感じながら生唾を呑んだ。
これが俗にいう据え膳というやつなのだろうか。こうなれば男は性欲の獣になるから困る。俺は氷岬に触れないように気を付けながらベッドに入った。
「ふふ、こうして拓海くんと寝るのは二回目だね」
吐息と吐息が掛かる距離。心音が相手に伝わってしまうのではないかと感じる距離。俺は昂る心音に意識を奪われながら、長い夜の戦いの堰を切った。
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