第10話 さよなら

 時が流れるのは早いもので、いくら時間よ止まってくれと願っても止まってくれなんかしなくて、そう言った動画の九割は偽物だなんて言われてて、現実は非情なもので。


 ついに俺たちは、共通テスト試験日当日を迎えてしまった。


「ハルちゃんなら大丈夫。頑張ってきたの、お母さん知ってるからね。ファイト!」


 朝、母さんのそんな激励で見送ってもらい、俺は試験会場に到着した。


 うちの高校じゃない制服を着た高校生が多くいる。見知らぬ多くの同世代と競わないといけないのだという実感が湧いてきて、それが俺を押し潰そうとする。


「は、ハル、私、やばい、緊張が止まらないよぉ」


 隣に俺以上に緊張している奴がいた。それを見ていると、なんだか自分の中から緊張が消えていく。


「俺たちは頑張ってきたんだ。今日は特別頑張る必要はない、いつも通りにやろう」

「そのいつも通りが難しいんだよぉ……でも、私やってやるんだから! 輝かしいキャンパスライフが私を待ってる!」


 おそらく、そのキャンパスライフには俺もいるのだろう。だが、それを俺は口にしない。


「おっと、試験までにトイレを済ませとかないとな。ちょっと俺行ってくるよ」

「大丈夫? ついていこうか?」

「いやいや、いいよ。この会場にそんなことする人いないでしょ。それに、学校の先生もたくさんいるんだから」

「……そっか。でも、気をつけね?」

「あぁ。ありがとう」


 奈遊と別れて、俺は男子トイレを目指す。男子トイレは少ないため、少し遠い場所に設置されていた。少し不便だ。


 無事、トイレを済ませて、奈遊のもとへ戻る道すがら、俺はスマフォを取り出す。すると、メッセージを送ろうとした相手から、既にメッセージが届いていた。珍しい。


ミナミ:がんばろう


 それだけの短いメッセージ。それでも、俺の心は嬉しいと感じるし、相手の気持ちが分かってしまう。


 返事を返すとすぐに既読がついたことから、やっぱりなと吹き出してしまう。


ハルカ:お互い緊張しないようにしないとな

ミナミ:私は緊張していないがや

ミナミ:いないがな

ハルカ:指ブルブルですよ、神

ミナミ:震えてない!

ミナミ:なんなんだ君は、こんな時にまで私を揶揄って

ハルカ:緊張しないよう、普段通りにしようと思って

ミナミ:ふっ、それはいい案だ

ミナミ:ならば、これから君をとことん揶揄おうじゃないか!

ハルカ:ちょっと今から復習するんで

ミナミ:神を置いていかないでくれ!


 俺は歩む足を止めて、しばらく二神とメッセージのやり取りをする。そうしていると、お互いに緊張が解れてきたのがメッセージから分かる。


ハルカ:それじゃあ、本当に復習に入るから

ハルカ:またな

ミナミ:あぁ

ミナミ:互いの健闘を祈る


 これで二神との会話は終了だ。俺はスマフォをしまい、改めて奈遊のもとへ向かおうとしたその時、震えないはずのスマフォが通知を知らせた。


ミナミ:私は


 通知欄で確認したメッセージは、それだけだった。この後に続くのかとしばらく待ったが、来る気配がなかったため、ラインを開いて返事を返そうとしたその瞬間、先ほどまであった通知が消えた。どうやら送信を取り消しされたらしい。


 なんだったんだろうと不思議に思ったが、今度こそ会話は終了したみたいだったので、復習もしたいため急いで奈遊のところへ戻ることにした。




 * * * * *




 会場に着いた時、あれほど緊張していたはずだったのが嘘みたいに、平常心で本番を迎えることができた俺は、1日目、2日目ともに好成績を収めることができた。


 自己採点の結果、ほとんどの大学に出願できる点数が出てきて驚愕した。何度も採点し直したが変わらない。自己記録を大幅に超える結果に終わった。


 奈遊も、上振れを引いた俺の点数ほどではなかったが、なかなか良い点数を叩き出していた。地元の国立大学は余裕でA判定だろう。


 二神は医学部志望だから、俺たちよりプレッシャーがあっただろう。しかし、二日目の夜に送られてきた『余裕』とだけメッセージが送られてきたため、どうやら成功に終わったらしい。


 試験日明けの月曜日である今日、俺たちは学校に登校していた。自己採点結果と一緒に志望大学を学校に提出し、それを予備校等に学校が提出することで判定が出るらしく、それを行うために集められたのだ。


 俺は地元の国立大と一緒に上位の大学群も混ぜて提出した。地元の国立大はA判定が出るだろうから、残りの枠を埋めるには難関大を入れるしかなかったのだ。


「ねえねえ、ハル。テストの結果を受けて、志望校どこにするか決めた? 私さ、できたらハルと一緒の大学通いたいなーって思うんだよね!」


 奈遊が俺の席のところまでわざわざ来て、そんなことを聞いてくる。今までも何度か同じ質問をされてきて、俺は答えを濁してきた。しかし、今回初めて同じ大学に通いたい旨を伝えてきた。ついに痺れを切らしたのだろうか。


「とりあえず、判定待ちかなあ。良い判定が出た大学の中で選ぼうと思ってるよ」

「……そっか! それじゃあ、決まったら教えてね!」


 それに対して俺は返事をせず、代わりにニコッと笑顔を返す。


 今日の用事はこれで終了し、俺たちは帰路に着くことになる。明日から自由登校なので、もう卒業式まで学校に来ない人もいるだろう。


 いつも迎えに来てくれる母さんも、流石にこの時間に抜け出すことはできないため、俺たちは久しぶりに電車と歩きで帰ることになっている。


 流石に昼時は乗車している客の数は少なかった。と言っても、やはりある程度はいるもので、席に座れず立ったまま電車に揺れる。


 家の最寄り駅の一つ手前の駅に到着すると、一気に人が増えてしまった。ちょっと苦しくなってきたなと思っていると、太ももの部分に何かが当たる感触がした。


 車内はこんな状態なのだ、少し体が接触することぐらいはあるだろう。しかし、その感触は消えることなく、次第にエスカレートしていく。さっきまでチョンチョンと触れる程度だったのが、揉むような動きに変わってきた。痴漢だと確信する。


 俺は隣にいる奈遊に目を向ける。やはり奈遊は正面をずっと見ており、気づいていない様子を見せている。


「奈遊。奈遊!」


 声をかけてみるが、反応がない。だから俺は——奈遊の腕を掴まえた。


「え、な、なに? どうしたのハル?」


 奈遊は目を丸くして驚いた様子を見せる。一瞬、俺の体を触る手の動きが止まり、これ以上は危険だと判断したのか離れていく。


 俺は奈遊の質問に答えず、そのまま駅に着くまで無言を貫く。そして駅に到着した瞬間、俺は奈遊の腕を引っ張るようにして降車した。


「本当にどうしたの? なんか変だよ?」


 奈遊の言うことは聞き流し、改札を出て、そのまま駅を離れる。しばらく歩いていると公園を見つけたので、そこに入って足を止める。


 掴んでいた腕を離し、奈遊と対面する。奈遊は掴まれていた腕の部分をさすりながら、「ちょっと痛かったよ?」と苦笑を浮かべる。


 今から俺がすることは間違っているかもしれない。でも、確かめなきゃいけない。俺のためにも、奈遊のためにも。


「さっき、電車内で痴漢にあってた」


 俺がそう言うと、奈遊はワンテンポ遅れて「えっ!?」と驚いた様子を見せる。


「ど、どうしてその時教えてくれなかったの?」

「言ったよ。声をかけた。でも、奈遊は気づいてくれなかったよね」

「そ、それは聞こえてなかったから……もっと気づくまで声をかけてくれたり、私の体に触れ……」


 奈遊の言葉が途中で止まってしまう。さっきまで奈遊の体に触れていた俺の体が震えているのが、見て分かるからだ。


「そう。俺は女性に触れない。だから声をかけて助けを求めるしかできないんだ」

「じ、じゃあもっと大きな声で伝えてよ。私も気付けないと助けようが——」

「奈遊」


 一瞬の沈黙の後、俺は間違っていてほしいと願いながらそれを口にする。


「わざとなんだろ。俺が痴漢やナンパにあっている時、わざとそれを見逃してるんだろ。それで、危ないところになったら助けに入る。何度か経験があるんだ。この前の初詣の時もそうだ」

「そ、そんなことしてない! 酷いよハル。さっきも本当に気づいてなかったし、初詣の時もなかなかハルの姿を見つけられなくて……」

「一瞬、目が合ったよね? なのに見つけられてなかったの?」


 俺の更なる追求に、奈遊はついに閉口し、唇を噛み締める。そして観念したのか、ハイライトを失った目で話し始める。


「……だって、仕方ないじゃん。ハルのためなんだよ? ハルにこの世は危険なんだってことを教えてあげようとしてたの。だから私の側から離れちゃダメだって、教えてあげないといけないの。ねえ、ハル。わかってくれるよね?」


 嘘であって欲しかった。俺の勘違いであって欲しかった。しかし、当の本人が認めてしまった。現実は非情だ。


「たしかに、痴漢もナンパも奈遊がしでかしたことではないから、奈遊が悪いとは言い切れない」

「そうだよ。私、ハルに酷いことなんてしてないよ? だからさ、そんな怖い顔しないでさ、一緒に帰ろ? お外寒いから、このままだと風邪ひいちゃ——」

「けど、信じてくれている人を裏切るようなことは、しちゃダメなんだ。それが一番人を傷つける行為なんだ」

「っ…………」


 おそらく、元々こっちの世界にいた俺は、このことに気づいてしまった。あの暴行未遂の際に奈遊が駆けつけた件も、あまりにもタイミングが良すぎる。それに疑問を抱き、意識して見て、奈遊の不審な行動に気づいてしまったのだろう。


 だから日記の最終日、奈遊の名前がなかった。『もう何も信じられない』。これは奈遊に裏切られたと感じた俺の悲鳴だ。


「今までありがとう、奈遊。奈遊がしてきたことは、あまり許されることではないと思うけど……それ以外では、気遣ってくれてるのは伝わってた。奈遊は本来心優しい子なんだ。俺が知ってる奈遊は、そんな子だ。だから、生まれ変われるはずだ」


 そう、俺みたいに。


「でも、俺がいると奈遊はおかしくなっちゃうみたいだからさ。恋人同士でもないのにこの表現を使うのは変かもしれないけど……俺たち、距離を置こう」

「嫌だ!! ねえ、私を捨てないでよハル。お願い、今までのこと全部謝るから。もうあんなことしてないから」


 縋るような目でそう謝ってくる奈遊からは、反省の色が見えてこない。本当に悪いとはまだ思えてないみたいだ。先に俺を見捨てたのは奈遊だ。


 でも奈遊が悪いわけじゃない。こっちの俺が言ってた通り、この世界は怖い。この世界が悪いのだ。だから、奈遊自身は生まれ変われるはず。


「バイバイ、奈遊。今までありがとな」

「嫌だ……私を捨てないでよハル……」


 涙声で嘆願する奈遊を背にして、俺はその場から逃げるように立ち去った。


 俺は非力だ。今まで彼女を頼りにしていて、いざって時に彼女を救うことはできずに逃げている。


 そんな自分が嫌になる。そんな環境を作り上げたこの世界が嫌になる。この世界から逃げ出したくなる。


 こちらの俺の気持ちというやつを、今初めてわかった気がした。


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