第8話 忠告
ピピピッという目覚ましの音で目を覚ます。
布団から出たくないという欲求に抗いながら、冷気漂う空間へと身を投げる。
「さむっ」
冬の休日なんて本音を言えばずっと布団に包まっていたいものだが、俺は受験生。今日も今日とて予備校に通って勉強だ。
自室を出て、ダイニングに向かうと、母さんが朝ごはんの準備をしてくれている。
「おはよう」
「あ、ハルちゃん。おはよう〜」
笑顔の花を咲かせた母さんは、作業を中断して俺の元に駆け寄り、そのまま抱きしめてくる。この歳で親とハグなんて恥ずかしいのだが、母さんがこうしたい気持ちもわかるし、何より俺も悪い気はしない。
洗面台に向かって顔を洗い、軽く口をすすぐ。居間に戻ると、既にテーブルには朝ご飯が並べられていた。俺は席につき、いただきますして朝食を摂り始める。しばらくすると、母さんも自分の分を用意して席につき、朝食を摂り始めた。
「そういえば、ハルちゃん。志望校は決めたの?」
「うーん、まだはっきりとは。一応、地元の国立を考えてるけど」
「そっか〜。ハルちゃんの行きたいところに行けたらいいね! お母さん、全力でサポートするから! もし遠くの大学目指すってなっても、お母さん頑張るから!」
「うん、ありがとう」
今のところ、地元以外は考えていない。それはこれ以上母さんに迷惑をかけたくないというのもあるし、何より行く理由がない。地元の国立も良い大学だ。妥協して入れるようなところではない。それなら、そこでいいじゃないか。
朝食を終えた俺は、支度をして、母さんの車に乗り込む。昨日と同じコースで、奈遊の家に向かい、奈遊を拾って予備校へ向かう。道中、車の窓から外を眺めると、どこの店もクリスマス仕様になっていた。
昨日は気づかなかったが、意識して見ると気づくものだな。問題文も読み落とさないようにしなきゃなと胸の内で自嘲する。
予備校に到着して、母さんにお礼を言って別れて、昨日と同じ講義を受け続けた。
期待は裏切られ、昨日のレベルが特別だったわけではないと知った奈遊は絶望した表情を浮かべていた。俺も少し苦い顔になったが、昨日で腹を括れていたのでダメージは小さい。むしろやるしかないんだいう気持ちが強くなる。
共通テスト対策の講義を終え、今日も奈遊は自習室へ向かう。と思ったのだが、次の教室へ向かう俺からくっついて離れない。
「奈遊? 自習室行かないの?」
「行くよー。ハルを次の戦地まで送ってからね!」
「戦地……言い得て妙だな」
心配して教室までついて来てくれるんだと分かり、奈遊の行動に納得する。でも昨日は大丈夫だったから、別にいいのにと思ったが、それを言うのは無粋だろう。
教室に入ると、既に席に座っているの二神の姿が見えた。俺も席に座るために、近くに行き、挨拶をする。
「おつかれ、二神」
「二神さん! おつかれ!」
「二人とも、お疲れ様。神田くん、下校時だけじゃ飽き足りず、今日は授業前も彼女を付き添わせているのかい?」
「相変わらず嫌なやつだなあ」
「む。君に配慮して先に来てあげた私を、嫌なやつとは心外だよ」
「言い方のことを言ったんだ!」
まあ最初から分かっていたみたいで、二神は「ぷふふ」と笑っている。
「も、もう。二神さん、だから私たちはまだ恋人じゃないってー」
「それにしては、君たちいつも一緒じゃないか」
「それはもう! ハルは私のことをめちゃくちゃ頼りにしてるからね! 一肌二肌脱いでやりますよ!」
「人皮も脱ごうとするな」
二肌脱がれたら軽くどころじゃないホラーだ。
「それじゃ、私は自習室で待ってるね! 頑張ってねハル!」
「あぁ、ありがとな」
「ヘヘっ! 気にしないで!」
手を振りながら教室を去っていく奈遊に、俺も手を振り返しながらその姿を見送る。
さて、授業前にもう一度予習しようかなと思ったが、二神に声をかけられる。
「高瀬さんとは基本一緒にいるのかい?」
「ん? まあ外ではそうだな。守ってくれてるというか」
「守る……なるほどね。それにしても、彼女と君はちょっと近くないかい? あれかい、君は高瀬さんとなら触れても大丈夫なのかい?」
「……いや、奈遊に触れられてもダメだよ。俺が触れて大丈夫な女性は母さんくらいだ」
「なるほど、マザコンってことね」
「おい言葉が過ぎるぞ」
正直、どうして奈遊はダメで母さんなら大丈夫なのかは分からない。俺の体であって、俺の体じゃない感じだから。そもそも感覚なんて判断基準は曖昧だ。
「軽い冗談さ。……ごめんね?」
こちらを伺うような上目遣いで謝ってくる二神に、一瞬可愛いと思ってしまい、俺が咄嗟に顔を逸らすと、またもや「ぷすす」と声が聞こえた。揶揄われたのだと分かり、さらに恥ずかしくなる。
「しかし、どうして触れることができない高瀬さんが君を守る役を買って出ているんだい?」
「……まあ、色々あってな」
「それは、私には言えないこと?」
誰彼構わず話していい話題ではないとは思っている。しかし、あの事件の話はどこか他人事で、実感があるのはこの体だけ。俺自身は理解できてない。
それに、二神のこの目。ただの好奇心で聞いてきてるのではないと分かる。
俺は、周りには聞こえないよう小声で、この身に起きたことについて掻い摘んで話した。痴漢のこと。襲われかけたこと。奈遊が助けてくれたこと。日記のこと。そして、自殺のこと。
話を終えると、二神は深刻そうな顔で思案に耽る。授業前に話すことじゃなかったなと自嘲し、「忘れてくれ」と言って俺は予習に取り掛かることにする。
「ねえ」
しかし、それを妨げるような声が聞こえる。「何?」と返すと、少し緊張した様子で二神は言う。
「今晩も通話かけていい?」
困惑しながらも、俺は承諾した。その瞬間、始業のチャイムが鳴ったので、そのまま俺たちの会話は終了した。
* * * * *
今日は予備校の帰りにどこか寄ることなく、家で母さんのお手製ご飯を食べた。働いてくれている上に家事までしてもらって、頭が上がらない。
自室に戻り、そういえば二神から通話をする予定があったなあとスマフォを眺めていると、スマフォの画面の表示が変わった。どうやら丁度かかってきたみたいだ。
「はい、もしもし」
『こんばんは、神田くん。いま大丈夫?』
「自室だから大丈夫だよ」
『いえ、自室でもダメなタイミングがあるものよ。例えば、自家発電中とか』
「あぁ、さっき美味しいご飯食べて人間火力発電所になっていたところだ」
『……君って、下ネタって平気みたいだよね。男の子って下ネタ嫌いって聞くのに』
「別に平気かなあ。どうやら俺のレア度に磨きがかかったみたいだな。SSSRぐらいはありそうだ」
『少しは自重を覚えたほうがいいよ』
「二神がそれを言うか? しかし、大半の男子は下ネタ苦手って知っておいて、二神は最初から俺にぶっ飛ばしてたよな」
『大丈夫な人かどうかは見抜いているつもりさ。まあ、同年代の男子と話したのは君が初めてだけどね』
「ほぼ勘じゃねえか」
『私の勘はよく当たるって、君もよく知ってるだろ?』
たしかに、彼女は俺が女性に触れられるのがダメなことを初見で見抜いていた。その理由を彼女は女の勘だと言っていた。前例があるし、そう言うことにしておこう。
「それで、この通話は何の用?」
『あれ、用がないと通話したらダメなのかい?』
「ダメじゃないけど、何かあるんだろ?」
『……まあ、そうだけど。何で分かるのよ』
「そりゃまあ、あの話の流れ的に」
二神は俺の身に起きたことを聞いた後に、今晩通話をしていいかどうか聞いてきた。つまり、あれに関する話をしたいんだと推測していた。
『そうだね。君の思っている通り、その件について話そうと思ったんだ。申し訳ないんだけど、その日記の写真を送ってくれないか? 嫌だったら構わないし、最後の方だけでいい』
「あぁ、別にいいよ。ちょっと待ってて」
俺はスマフォのカメラ機能を起動し、日記の最後の数ページを撮り、二神とのチャットルームに送りつけた。
日記を読んでいるのだろう。しばらく沈黙が流れた後、深呼吸を一つ入れ、二神は言い放った。
『高瀬奈遊。彼女には気をつけたほうがいい』
真っ直ぐな声。それは俺を揶揄っている時とは全く違う、真剣そのもの。冗談で言っているのではない。そう言えば、母さんも同じようなことを言っていたのを思い出し、俺は固唾を飲み込んだ。
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