第2話 痴漢されました

 翌朝、俺は普段通りの時間に目を覚まし、慣れない洗面台で顔を洗う。


 昨晩、奈遊と電話で会話をした母さんだったが、どうやら日記に書かれていたことを事実で、俺を襲ったとされる女子生徒三名は、未遂ということや俺が被害届を出さないと言ったらしく、学校側にも伝えなかったために何の処分も下っていないらしい。


 母さんから昨晩俺がしたことを聞いた奈遊はかなり動揺していたらしい。


 そして、心配だということで、今までは駅で集合していたところを、家まで迎えにきてくれるらしい。元の世界では家は隣同士だったのだが、俺は今マンションに住んでいるためか、少し離れているらしい。それに関わらず迎えにきてくれるとは、こっちの奈遊も優しいみたいだ。


「ハルちゃん、本当に大丈夫? お母さんは学校休んでもいいと思うよ? あともう少しで自由登校に切り替わるし、それぐらい休んでも卒業できるよ」

「ありがとう、母さん。でも奈遊もいるし、行ってくるよ」

「……そっか。ハルちゃんは強いね。今度何かあったら、すぐにお母さんに言ってね?」

「うん」


 結局、俺ではない、前までここにいた遥は母さんに相談しなかったことで、ああいった結末を迎えようとしていた。だからこそ、母さんは相談してほしいんだと思う。


 そういえば、学校の荷物に書かれている名前を見て気づいたのだが、苗字が違っていた。神田かんだ遥になっていた。神田はたしか母さんの旧姓だ。ということは、母さんは結婚していないのか? やっぱり父さんはいないのか? なら、どうやって俺は産まれてきたんだろう。


 母さんが用意してくれたパンを齧りながら考えていると、インターホンの音が鳴った。母さんがドアホン越しに応答すると、聞き馴染みのある声が聞こえた。奈遊だ。どうやら、既にマンションのエントランスに到着したらしい。


 俺は急いでパンを口の中にぶち込み、牛乳で流し込んだ。歯磨きをして、学校指定のカバンを手にして玄関へ向かう。


「ハルちゃん」


 玄関で待ち構えていた母さんが、優しく俺を抱きしめる。その体は少し震えていた。


「お母さんはハルちゃんの味方だからね。それだけは絶対に忘れないで」

「うん。ありがとう、母さん。行ってくるね!」


 俺は心配させまいと、少し明るく振る舞い、家を出る。


 ボタンを押して、エレベーターを待っていると、17階と表示されたところ目の前のドアが開かれた。なかなか高層階だが、こっちの母さんは一体どんな仕事して高収入を得ているのだろうか。


 そういえば、俺はこのマンションの位置を知らないため、駅までの道のりがわからない。最悪スマフォを使えばいいが、奈遊が一緒に行ってくれるのは助かる。


 エレベーターが一階に到着し、エントランスに出ると、そこには見慣れた少女の姿あった。


 癖っ毛のあるふんわりとした赤茶色のミディアムヘア。クリッとした大きい青い目。色白の肌がスカートから伸びていて、制服を着こなしている。俺の幼馴染、高瀬奈遊だ。


 奈遊は俺に気づくと、一瞬パッと花を咲かせたが、次第に真剣な表情に変わっていく。


「ハル。稀衣まいさんから聞いたよ。大丈夫?」


 稀衣は俺の母さんの名前だ。


 眉根を寄せたその不安顔は、元の世界で見てきた快活な彼女の様子とはかけ離れていたものだったが、状況が彼女をそうさせているのだとすぐに理解できた。


「大丈夫だよ。ほら、声もいつも通りだし、気分も悪くない」

「ホント? 無理しないでね。何かあったらすぐに私を頼ってね!」

「あぁ。頼りにしてる」


 家の外だと、俺が知っているのは今のところ奈遊だけだ。父さんのように男友達がこの世から消えている可能性がある。俺は女友達が少ないため、そうなってしまうと奈遊しか知り合いがいないのだ。


 それに、日記を読んだ感じ、こっちの俺も奈遊も頼りにしていたみたいだしな。


 奈遊は嬉しそうな表情を浮かべ、「えへえへ」とにやけている。


「私に任せてよ! ハルはいっっっぱい私に頼ってね。ね? 絶対だよ。なんならずっと一緒にいよ? そしたらいつでも頼れるよ? そうだ、手繋いで行く?」

「えっと……」


 元の世界の俺と奈遊の距離感は、仲の良い幼馴染程度だったし、流石に中学生あたりからスキンシップは控えていた。だから、手を繋ぐのはちょっと恥ずかしく、俺が目の前に差し出された手を取らずにいると、奈遊は「あはは」と苦笑いしながら手を引いていく。


「ごめんね。今ハルは、女の子に触れられるの、怖いよね? 私、気が回らなくてごめんね」

「あ、いや……うん、ちょっとね」


 否定することもできたが、したら手を繋ぐことになりそうだったので、ここはそういうことにすることにした。


「うーん、おかしいなぁ。そろそろいけると思ったんだけど……」

「ん? どうした?」

「う、ううん。なんでもないよ。さっ、行こうか!」


 こうして、俺たちは手を繋がずに、横並びで学校へ向かうのであった。




 * * * * *




 最寄り駅に着くまで、俺は驚きの連続だった。


 まず、男性とすれ違わないのだ。出会うのはとにかく女性、女性、女性である。


 そして、その女性たちの視線がやたら俺に向けられるのを感じた。すれ違ったすべての女性、漏れなくだ。その視線も色んな感情が混じったもので、あまり心地いいものではない。


 あと時間帯もあると思うが、スーツ姿の女性が多かった。元の世界でこんなに見ることはなかった。もしかしたら、キャリアウーマンなんて言葉はこちらの世界にはないのかもしれない。


 電車が到着すると、予想はついていたのだが、中は女性でいっぱいだった。視線を感じながら、俺は電車に乗り込んだ。


 最寄り駅から通っている高校まで五駅なので、すぐに到着する。席は埋まっていることもあり、俺たちはドアの近くに立つ。


 最寄り駅を出てから二駅くらいだろうか。お尻のあたりに何かが当たっている感触があった。カバンか何かだろうかと思っていたが、それは細かい触り方になってきた。触れているのは明らかに手である。痴漢だ。


 日記にもあったが、本当に痴漢されるんだと世界の違いに感心しながら、俺はどうするべきかを考えていた。とりあえず、隣にいる奈遊に助けを求めることにする。


「奈遊、奈遊」

「…………」

「おーい、奈遊ってば。聞こえてないのか?」

「…………」


 真っ直ぐ前を向き、窓の外を眺めている奈遊は、ボリュームを落としてはいるが、俺の声が聞こえていないのか一切の反応を見せない。その間も、俺のお尻は弄られている。


 俺自身で対処するしかないのか。そんな結論に至った俺は、意を決して自分の身体を触っている手を掴んだ。


「ヒェッ」


 後ろから小さな悲鳴が聞こえた。おそらく手の主だろう。ゆっくりと振り返ると、スーツ姿のメガネをかけた女性が、涙目で俺を見つめてくる。こんな人でも痴漢なんてするんだと思ってしまった。


 俺は彼女の耳元に口を近づけ、「もうこんなことしないでください」と囁いて離れると、彼女はうんうんと激しく首を振る。それを見て俺は手を離し、前を向き直した。


 あまり大事にはしたくなかったのと、特段不快感はなかったため、この場では許すことにした。


「……ん?」


 その時、俺の手汗が尋常ではないことになっていることに気づいた。もしかして俺、緊張していたのか?


 どうやら、前の俺の経験がこの身体に染み着いているらしく、メンタル部分である俺以外のところは反応してしまっているらしい。


「あれ? どうしたのハル? 大丈夫?」


 今更になって俺の異変に気づいた奈遊が、こちらを向いて心配そうな表情を浮かべて首を傾げている。


 俺は「なんでもないよ」と誤魔化しながら、手汗をズボンで拭いた。

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