第二章 夕闇
「ここもか…」
手押しポンプの井戸はこの世界からきれいさっぱり姿を消した。まるでそんなもの初めから存在していなかったかのように。昨日までこの空き地の井戸を毎日のように使っていたのだが、これからどうしようか。そんなことを思いながら、ちょうど井戸のあった辺りに持ってきた桶を置いて、パントマイムのように手押しポンプのレバーを押し引きしてみる。ある意味ラッキーじゃないか。もうこれ以上、井戸の水汲みなんていう前時代的で面倒なだけのつまらない作業から解放されるのだから。そうだそうだ。
「ツミキ」
後ろから声が聞こえた。
誰だ私の名前を呼ぶのは。
声のする方へ振り向くと、訝しげな表情をした少年が自転車に跨がって立っていた。
「おお、カイか」と私は言った。
「お前なにやってるんだ?」
「ちょうどここに井戸があったんだよ」と私はレバーを上下させる動きを繰り返した。
「またお前は妙なことを言って…。おまえ、おれ以外の前ではそういう話するなよ」
「変な奴だと思われるぞ」
やれやれ。私はしゃがみこむ。よしいくぞ、せーのっ!
「ばしゃあっ!!」
桶に溜まった水をかけてやった。
「うわっ!」
カイは驚いてバッと顔を覆うように両手を上げた。だがもちろん水はかからない。桶に水など溜まっていないのだから。
「あはははは」
私は指を指して笑う。
「びっくりしてやんのー」
「お、お前なあーっ」
カイは私の幼馴染みだ。私たちは小さい頃からずっと一緒だった。こんな田舎だ。遊びなんて山を散策したり、川で泳ぐくらいしかない。たいした娯楽もなく、田んぼや畑しかないこんな村でも、それなりに楽しく過ごせてきたのはきっと、カイがいたおかげだろう。
「…まったく」とカイは少し微笑んだ。
「ふふ」と私も笑った。
それからしばらくの間私たちはなにも言わずに、ただぼんやりと夕日に照らされた私たちの村を眺めていた。
村には田んぼや畑が一面に広がり、その隙隙にポツリ、ポツリと昔ながらの日本家屋が並んでいる。村の真ん中には川が流れていて、その上には、古いがよくできた造りの石橋がかかっている。そしてどの家の縁側にも赤く光る提灯が吊らされている。夏になると村全体があの光に包まれるのだ。全ての家に赤い光が灯され、村は仄かに赤みがかる。だから、夏、私たちの村に夜はやってこない。いつまでも続く夕闇が夜を支配する。その間、村の人間はほとんど外に出ないし、動物や虫でさえも、示し合わせたようにひっそりと物陰に隠れている。そんな何者もいない、物音ひとつしない、世界から忘れ去られてしまったみたいな夕闇の中で、外からやってきた夏の風だけが村の中を通りすぎていく。時が止まったみたいに静かだ、村も私たちも。
「…いくか」
カイが意を決したように言った。
「なに?どうしたの」
「…今日だろ」
「ん?」
カイは無言のまま空き地の外へと歩きだした。
「あぁ、そうだった」
私は今日15歳になったのだ。
私はカイの後についていく。そう、今日、今日だった。
「よいしょっと」
私はカイの乗る自転車の荷台に乗り込んだ。
「おっ、おい」とカイはビックリしたように言う。
「どうしたの?」
「い、いや…、お前の自転車、あっちにあるだろ。そっちに乗ってけよ」
「いいじゃん別に」もう別に、自転車は必要ないだろ。
そして私は自転車をガタガタと揺らしながら、ずっと遠くの方を指差して言った。
「さあっ、しゅっぱーつ、しんこーーー!」
うん、結構元気あるみたいだ。カイと目が合う。カイは少しだけ悲しい顔をしたように見えた。だけどすぐ前を向いてしまったので、どんな表情をしていたのかよく分からなかった。カイは大きく息を吸う。
「よおし、しゅっぱーつ、しんこーー!」
ひたすらにまっすぐ夕日に照らされた道を走る。あの場所まで走る。道の先にはゾッとするほど黒く禍々しい丘が見えた。そうだ、私はあそこに行かなくてはならない。そう決まっているんだ。地面は赤黒く、さっきまで田畑が一面に広がっていたその場所には、無数の赤い花が咲き誇っていた。私たちは走り続ける。なにかが…、遠くからなにかがこちらを見ている。毛におおわれ、三メートルを越えるような巨体をもった、獣のような、人のような、およそこの世のものとは思えないおぞましい姿の化物がこちらを見ている。恐ろしく静かな目で。やつは私を殺す気なのだ。
ーーー私たちは走り続ける。止まることは、できない。
「あぁぁっ、ああああああっっ!!」
「おい!」「おい!」とカイが大声で叫ぶ。「大丈夫か!?」
目を閉じて、大きく深呼吸をする。
大丈夫だ…大丈夫……
ゆっくりと目を開ける。見慣れた田舎道、田んぼ、どこまでも、いつまでたっても変わらない風景。飽きるほど見てきた、つまらない景色だ。
「はぁ…はぁ…。大丈夫、もう大丈夫」
私はカイの身体に手を回しぎゅっとしがみつく。その瞬間カイの身体に力が入ったのが分かった。
「心配するな、俺がついてる。絶対に手を離すなよ」
「うん」
さっきよりも強くカイに抱きついた。
私たちはずいぶん長くこの道を走り続けた。進み始めてから二時間は経っただろうか。この道はどこまでも続く。行き着く先は無人の駅だ。
この道を進んでいき村から一定以上離れると、周りの景色は、村を囲む山々と手つかずで荒れ果てたたくさんの田んぼや畑があるだけになり、他には何もなくなる。ここには村の者は誰も寄り付かない。そういうふうに決められているのだ。静かで、なにもかもが静止していて、動くことはない。まるで世界の終わりみたいだ。この世界には私たち二人しかいなくて、いつまでもいつまでも永遠に続く道を進み続ける。世界の果てを目指して。そんな世界もなんだか悪くないかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと幼い頃、カイと自転車でここを走ったことを思い出した。確か私が十歳くらいの時、おじさんとおばさんにひどく怒られて、私は家を飛び出したんだ。どこかずっと遠くに行こうとして、私はこの道をひたすらに歩き続けた。それだけが外の世界に繋がるただひとつの方法だと私は知っていたから。
それから何時間も経って、空が真っ暗になった。私はもう歩く気力をなくし、その場に座り込んでいた。足が鉛をつけてるみたいに重くて。ここにはなにものも存在しない。ただひたすらに同じ景色がどこまでも続いている。世界には私一人で、どれだけ先に進んでもどこにも辿り着かない。行き止まりの袋小路。どこまで行っても開き続け、閉じ続ける。
そんな私の世界にカイがやって来たんだ。一度閉じると外から入ることはできないはずだ。そう思いながら、不思議に思ってカイを見上げていると、なぜだか涙があふれてきて止まらなくなった。それから2人で自転車に乗って、ずっと遠くまで走っていったんだ。あれ?そういえばあの後どうなったんだっけ…
「ねえカイ、小さい頃の話なんだけど…」
私があの時のことを聞こうとしたところで、私たちの乗った自転車は、高さ二十メートルを越える巨大な鳥居のある山の麓にたどり着いた。
鳥居の奥には登りの石段がある。幅は十メートルはあるだろう。そして石段は山の奥の真っ暗な闇の方へどこまでもどこまでも続き、その両側には石でできた灯篭が約十メートル毎に等間隔で並ぶ。周りにはたくさんの木々がびっしりと隙間なく生えていて、黄昏時にあっても山の中は暗くどんよりとしていた。ここは何も変わらないな。
「お待ちしていおりました。ツミキ様」
鳥居の奥の方から若い男の声が響いた。
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