エソラリンネ
イナノヒリョウ
第一章 教室(1)
「『洞窟の比喩』というお話を知っていますか?」
細身で長身、眼鏡をかけ、ひどい癖毛、そして顔の左半分に大きな赤い痣のある、異様な雰囲気を持った男だった。40歳前後ぐらいだろうか。
「かつて……ずっとずーっと昔のギリシアにね、偉い学者さんがいたんです」
「その人が書いた本の一節なんですがね…」
男はいかにも高級そうなスーツの袖を捲り、黒板に『プラトン 「洞窟の比喩」』と雑な字で書いて、満足そうなため息をついた。すると、何かに気付いたように急にこちらを振り向いた。
「おっと、自己紹介がまだでしたね」
「私の名前はマキムラ」と男はわざとらしくネクタイを締め直して言った。
「この学校の校長先生です」
「先生は何者ですか?」と隣の席に座るカイが言った。
「先生ですか?」
「はい」
「先生は先生です」
「そうじゃなくて…」とカイは少し苛立ちながら答えた。
「ああ!」
マキムラは自分の顔を指差した。
「先生はマキムラ先生です」
カイはため息をつく。
「おじさんから言われたんだ。学校の人間を信用するなって」と私は言った。
「どうしてです?」
「学校は戦争が始まってからずっと政府の傀儡だって」
「あら~、六歳で傀儡なんて言葉を理解しているんですかー。優秀ですねー、素晴らしい!」とマキムラは拍手しながら言った。
「まあね」と私は自慢気に答えた。ほんとはよく分かってないんだけど…
「まあいい、それで?」とカイは言った。
「それで?とは?」
「さっきの話の続き」
ああ、そうでしたそうでしたと言いながらマキムラは黒板を指差した。
「『洞窟の比喩』」「これはプラトンという大昔の偉い学者さんの考えた思考実験でしてね…」
「しこうじっけん?」と私は言った。
「思考実験とは、色々な理由で現実では不可能な実験を頭の中だけで行っちゃおう、というものです」
「めちゃくちゃ簡単に言ってしまうと、例え話ですね」
「ほう…」ほう…
「まず、地下深くにある洞窟を思い描いてください」
「地下だから真っ暗です。怖いですね~」
私は目をつぶり地下の洞窟を想像する。
「そこにはたくさんの囚人たちが住んでいます」
「しかも彼ら、生まれたときからずっと、首や手足が縛られていて身動きひとつとれません。見えるのは目の前の壁だけ。そして彼らの…」
「囚人って、悪いことをした人のことでしょ?」と私は目を開き、話を遮るように言った。マキムラは少し驚いたようだったが、話を止め、しっかりと私の目を見て私の話を聞いていた。ように見えた…
「ええ」
「生まれたときから悪い人なんていないよ」
「……確かに…なにも知らずに産まれて、ただ生きているだけで罪だなんてひどい話ですね」
「でもね、私たちが生きるこの世界は、どうしようもなく理不尽で、そして…やっぱり地獄なんです…」
マキムラは窓の奥を眺めていた。夕日に照らされた校内を、窓の奥に見える奴等の姿を。奴等の一人と目が合い、私は目を伏せた。
「まあこれは、あくまで喩え話ですから。
そういう設定の作り話ですから、そこまで感情移入する必要はありませんよ」とマキムラは信じられないくらい穏やかな顔で言った。先程までの異様な雰囲気が嘘のようだ。
「そ、そう…」私はその表情に一瞬面食らってしまった。い、いかんいかん、こいつは信用ならない人間だ。
「では続きを話しますよ」
「彼らの後ろのずっと上の方には火が燃えていて、彼らと、その先にある洞窟の壁を照らしています」
「さらにこの火と彼らとの間には一本の道があって、その道に沿って低い壁がずらーっとたてられています。ちょうど人形使いがその壁の上から操り人形を出して、人形劇を行えるような具合にね」
「そしてその壁の上に人間や動物の像、他の様々な物や道具を差し上げながら、それらを人々が運んでいきます。運んでいく人の中には、当然声を出すものもいれば黙っているものもいます」とマキムラは言いながら、教卓の下に隠れ、両手をその上に差し上げ、人差し指と中指を足のように動かした。
「コンニチハ ボクマキムラ」
「ボクガ マキムラダゾ」
「ワーーー」
二人のマキムラは揉みくちゃになって、二人とも倒れてしまった。
「まさに人形劇です」とマキムラは机の上に顔半分だけを出して言った。
「変わった設定の囚人たちの話だな」とカイは言った。
「私たち自身によく似た囚人たちのね」とマキムラは言った。
「さて、彼らには何が見えているのでしょうか?」
「人形?」と私は言った。
「いえ、人形は見えません。彼らは後ろを振り向けないのだから。彼らの目の前には壁があって、彼らの後ろでは人形劇が、そしてそのまた後ろには燃え盛る火が…」
「…影」
「カイくん?今なんと?」
「影だ。その人形劇の影が見える」
マキムラはパチンッと指をならした。
「その通り!影です!」
「火の光で投影された影が、壁に写り、通り過ぎていくその影だけが、彼らの知ることのできる“この世界の全て”なんです」
この世界の全て…そんなものが…“世界の全て”…」
「そしてもし、彼らがお互いに話し合うことができたとしたら?彼らは自分達の口にする事物の名前が、自分達の目の前を通り過ぎていくものの名前であると、信じざるを得ないでしょう」
「人形劇を行う人々の声はどうでしょう?囚人たちにとって目の前の影だけが世界の全てなのだから、その声を出しているのも、やはりその影以外だと考えることは決してないでしょう」
「よって、彼らはあらゆる面において、ただただ、様々な事物の影だけを真実のものだと、そう考えることになるのです」
「まあ、そうなるだろうな」とカイは言った。
「あるとき彼らの内の一人が、その縛めから解放され自由になり、火の光を見るように強制されます。彼は見たこともない輝きに目がくらみ、何がなんだか分からず混乱してしまうでしょう。当然です、以前までは影だけを見ていて、それが世界の全てだと考えていたのだから」
「そのとき、ある人が彼に向って『お前が見ていたものは真実の影でしかなかったのだ。しかもその真実とは、人形たちが演じる”まやかしの真実”だ』と説明したとしたら?」
ガタッと音を鳴らしながらカイが急に立ち上がった。マキムラはカイの顔をじっと覗き込んでいた。
「おっとカイくんどうしました?私は喩え話をしているだけですよ。幾万幾億もある可能性の話をね」
その時のマキムラの顔は、さっきまでの胡散臭さをそのまま顔に張り付けたような笑顔から、何か確信めいた表情へと変わっていた。ああ、なるほど…
「そんなに漏れそうだったのかぁ…?それならそうと早く言えよな」と私はカイに憐れみを込めて言った。気の毒になあ…恥ずかしくて言えなかったんだな…「もういい歳だもんな…ってイテッ」
はたかれた…。カイはそのまま教室を出ていった。やれやれ…
「やはり…予定調和……えない?いや……あえて………?」とマキムラは何やらボソボソと独り言を言っている。
「マキムラこうちょー、一人で何言ってんの?」
「ん?ああ、こちらの話ですよ」とマキムラは眼鏡を指で押し上げながら言った。
「あの…」と私は言った。
「何ですか?」
「その…クイッてやつ、本当にやるんだね」と私はマキムラの顔を指差して言った。
「はい?」とマキムラは眼鏡を指差した。「ああ、もちろんやりますよー。なにしろ眼鏡をかけているんですから。眼鏡をかけているんですからー!」
「……」
「だーはっはっはっはっ!」
私たちは二人して笑った。
マキムラは、ゴホンと咳払いをし、また話し出した。
「カイくんのこと、少し調べさせてもらったんですけどねぇ…彼、勘が良いでしょ?」
「ああ、まあね」と私は自慢気に答えた。
「良すぎるんですよね…」
「え?」
教室の扉がゆっくりと開いた。
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