夏に鳴くなきがら 2

 帰宅し、ふと玄関の下に茶色っぽい何かが落ちているのを見つけた。

 セミだ。何となくアブラゼミかな、くらいの名前の記憶が浮かぶも、そのセミを踏まないように、足で軽くどかせようとした。するとセミは鳴きながら羽をばたつかせて、地を這うように飛び回った。そしてそのまま暗闇の中へと消えていった。

 子供の頃は手掴みできたっけな、と頭の片隅で思いながら、玄関の扉を開けて中に入る。

 熱のこもった部屋に、生ゴミか何かの臭いが混ざっている。明かりを点け、エアコンのスイッチを入れ、徒歩での帰路、汗だくでひっついたティーシャツとズボンを身体から剥がしてハンガーにかけた。

 手洗いとうがいをして、コンビニで買った弁当を食べていると、フローリングの床の木目が立体的で、そこだけ色が濃くなっているのを見つけた。

 二本の長い触覚を伸ばした招かれざる客――。

 賢人は、その正体に内心悶絶しつつ、弁当を卓上に置き、手近にあったテレビのリモコンで潰した。

 原形をとどめない虫の骸が出来上がった。

 夕食を咀嚼しながら、ひしゃげて動かなくなった物体をティッシュ数枚で包み、ゴミ箱に捨てた。

 昼間のほうれい線の怒号が、そんな一連の動きをしていてなぜか蘇った。

「おせーんだよ、デブ!」

 何年か前に買ったノートパソコンがテレビの下の棚に置かれている。

 弁当の横に置いたスマートフォンを手にし、小説投稿サイトを開く。

 今まで少しずつ書き溜めた作品群。閲覧数や、作品の評価を示す星の数など、どれも指で数えるほどしかない。

 メールには顔も知らない、作品も読み合わせたこともない他の素人作家からの更新通知が届いていた。

「PV数一万人突破!」「フォロワー数五千人! ありがとうございます!」等、明らかな差を見せつけられ、疲れとともに嘆息をつき、スマホを置く。

 クーラーを入れても部屋の中は暑い。食事にありつけても、またあの女にどやされるかと思うと、賢人の頭の中は紙くずのようなくしゃくしゃで、溢れ出しそうになった。


 翌日は休日で、この日も太陽は絶好調だった。

 熱線を降り注ぐ陽光は、歩いてコンビニまで行こうとする賢人の肌を焼いた。イートインスペースでアイスコーヒーを堪能するのが、賢人の細やかな楽しみだった。

 街路樹を歩いていきながら、その脇を大小様々な車が過ぎっていく。前後からは、子供を乗せて自転車をこぐ二十代位の女性や荷物を押してゆっくり歩く老婆の姿を見かける。

 小さな町の片隅で、賢人は自分の見える範囲の世界を感じていた。

 自動車や自転車、歩行者などの往来。白いワイシャツを着たサラリーマン風の男が、先端が尖った靴を履き、硬い靴音を立てて歩く。そんなたいした個性もないことに、世界はこの街よりさらに大きく大勢の人がいるのだろうと想像する。

 色んな町の風景は見慣れたものでも、一人一人が何か目的を持ち、自宅から町へ町へと巡っていく当たり前のことが、社会という人間仕掛けの乗り物を動かしているように思えた。

 俯いた場所には踏みしだかれたセミの死骸らしきものが、地べたにへばりついていた。

「ったく使えねえよ!」

 あの時の中年女性の罵声が、賢人の脳裏を過ぎった。

 人間仕掛けの社会では、人もこの遺骸のように町のどこかで踏み潰され、誰に知られることもなく、その魂は虚空へ消えていくのだろうか……。

 ほんの一瞬、そのセミの潰れた姿を見た賢人の思考は、すぐに一杯の冷たいブラックへと向いた。


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