第1話
ガロは廊下から響く軽やかな鈴の音で無二の盟友の訪問を悟った。
「ガロ様、既に御起床なさいましたか。おはようございます、重ねて二十四度目の生誕日心よりお祝い申し上げます。国民共々、この日が訪れたことを心より祝福なさるでしょう」
入室した途端、侍従のダンテは流れるようにそう述べ、丁重に一礼した。すると腰に提げた鈴が揺れ、再び爽やかな音色を奏でた。幼年からの忠臣であり親友であるこの男はただ一人ガロの自室にノックを要さず入ることを許されている。けれどもこの男の信頼に足るところは、その許可に驕ることなくわざと鈴を腰に引っ提げガロの安寧を妨げないよう努めることだった。ガロはいつもこの爽やかな高音を聞くと微笑ましい心地になる。
ガロは読んでいた書籍から目を離し、皮肉に笑った。
「つまらない冗談を言うな、ダンテ。俺の生誕を誰が祝福するというのだ。アルミーン王家を憎らしく思うほうがこの国では健全的思考だとというのに。なにせ我々は国民を差し置いて『魔術』を独占した一族なのだからな。……それと、俺とお前との仲に『お祝い申し上げる』などという言葉は不要だ」
「ガロ様、悲しいことを仰らないでください。貴方様を祝うために多くの国民、領民がこの新宮廷にやって来ます。皆、貴方様の一層精悍になられた御尊顔を一度拝める所以ですよ。つまらない批判家なぞより王家を慕う者のほうが多くありましょう。無論、私もその一人です」
「……まあ、いいさ。最後の一言のために俺は今日をこなすとするよ」
ダンテは栗色の短髪の下に鈴音と似た清涼な笑みを見せ、手のひら先でガロの手元を指した。
「『象徴としての王国』、ですね。如何でしたか。そのご様子だと熱中して拝読なされたのでは?」
ガロは右手で顎を支え、考える素振りで返した。
「……そうだな、面白いことには面白い。愛国をアイデンティティの一要素として注目しながら世界的連邦政府を打ち出そうとする理論は目新しい。しかし重要な国家間利害調整と樹立方法が何分夢物語染みている。そして仮に夢物語として捉えるにしても内から込み上げるものはない。もっとこう、全身を痺れさせるものが良いのだが……」
「『燃え上がる宿命』のような?」
「ああ! あの書物のようなものがまた読みたいのだ! ダンテ、お前は読んだか?」
「ええ、勿論です。一度のみですが」
「一度? 一度では駄目だ。少なくとも三度は読まなければならない。あのひとつひとつの言葉には人間の生命が宿っている。あれは……いや、長くなるな。今日はそれどころではない。今度酒でも飲んでゆっくり語ろう」
「ええ、お供させて頂きます」
「……ところで、頼んでいたものは済ませてくれたか」
ガロがそう言うとダンテの表情が僅かに強張り、ガロの広い自室を一瞥した。部屋には色とりどりの造花やパールを供えたアンティーク、三本の象牙などがあったが、人の話を見聞きできるのは二人の青年のみだった。
「……はい、ガロ様。ドゥーチェ一族に招待状を送りました。きっと、御出席なさるでしょう……しかしガロ様、これは危ない橋です。家長のドゥーチェ=レフリは先の内乱の首謀者との噂がたった男です。アルミーン王家との関係を疑われると……」
「関係もなにも奴は王国の宰相だったわけだから、呼ばないほうが返って疑われるさ。いや、そもそも王家が国民の風聞を気にするなど……。しかしお前が気になるのなら、部屋を別にするとか良い具合にやってくれ。俺が用があるのはその一人息子のほうだから」
「私としては、そちらの方のほうが後々のガロ様の将来として……」
ダンテは発言の途中で急に押し黙った。着替えのための使用人が来たのを察したのだ。少しすると両開きの扉の乾いた打音が聞こえた。
入れ、という命に応じてダンテは扉を開いた。十八ほどの若い娘がぎくしゃくとお辞儀をし、この豪勢な部屋に一歩目を刻んだ。ガロの胸中に微かな苛立ちが湧いた。娘の首元に結ばれたリボンの左右のバランスが明らかに狂っていた。
娘がガロの寝衣に恐る恐る手をかける間、ダンテは手元の文書を読み上げた。
「本日のご予定を伝え申し上げます……これから三十分後に朝食があり、そのさらに一時間後に貴族省の官僚と誕生祭の最終確認が行われます。よって仔細はその時にご相談頂ければ……また出席される官僚はバンツ局長及びアイル事務次官です……。さらに終わり次第軽食を摂って頂き、およそ午前十時からパレードの準備に取り掛かります。パレードは十一時から一時間かけてヴィクトルネを一周し、再びこの宮廷に戻った際、ガロ様のお声を国民にお聞かせ願えれば。……原稿は一昨日渡したものから変更はありません。また一時からミューリー首相と会食及び国立劇団のミュージカル鑑賞です。演目は『愛と平和』。ご疲労によっては私があらましをまとめますが」
「いや、結構だ。『愛と平和』は何度も見た。退屈な作品だが、空でも台詞のいくつかは言えるさ。にしても連中、困ったらアルベルトの作品に頼るようだ」
「民主化以降の唯一偉大な劇作家ですから。王国時代の作品は民主政府のプライドが邪魔するのでしょう……。また、六時にはご来賓を招いた立食会がございます。来賓には同盟国の王族様方のいらっしゃいますので、お分かりであろうと思いますが、軽率な振る舞いは何卒……」
着替えが終わり、ガロは全見鏡で格好を整えた。案の定、首を括った蝶ネクタイがずれている。
「大丈夫さ。なんだかんだ、そういう場となったときの振る舞いには自信がある。余計なことは言えない口になってるさ」
「流石にございます。王家の血といったところでしょうか」
「ああ、そうだ。血だ。俺に流れるアルミーンの血がそうさせるのさ」
ダンテは深い一礼をもって讃辞を示し、娘とともに去った。
ガロは思った。
『……ふん、血か。あれだけダンテに説教したくせに、俺はこの血を生かす手段がないとは何と情けないことだろう。商人には利潤を求める血が流れ、商いによってそれを為す。俺に流れた血は王の血だ。迷える民を導く血。しかし今の王家には手足がない。権力もなく権威もない。政府の使い駒なんぞ、どうしてこの血が求めよう。……だが俺はこの血の最後の道を知っている。俺は死をもって民を導こう……』
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