KINGS

五味千里

プロローグ

 潤った裸婦は幼いガロの無垢に言い知れない畏怖を誘った。峰さえ望めぬ山々による渓谷は天から放射された日光を搾り、小川に佇むこの女へ静寂に零す。柔肌に吸い付く水滴が輝いて雲のように白い身体の輪郭はおぼつかない。小麦色の長髪も凛と張った乳房もその形骸より膨張し、それ故にガロは女と己との間に明らかに深刻な一線を引かれた気さえした。

 渓谷はあまりにも尊大だった。小川は澄み渡り、囲む山々には悠久によって培われた深緑が生い茂った。かと思えば山の深緑は途端に姿を消し、代わりに剛力な山肌をもみせる。自然特有の純粋さがあらゆる形式をもって渓谷を象っていた。そして女はかの空間によく馴染み、あたかもこの渓谷の核が己であるかのようにその存在を主張していた。


 いま一度、女は足元の小川を両手で掬い肩から落とした。川の断片が少女を斜めに断ち切るよう滑り、そして方々へ別れ、肩から胸、胸から腹、腹から小川へと紡いだ。沈着な潤いは女を一層輝かせる。宝石が俗悪と卑下されるほどの生粋な眩さが散った。……女体は再び小川となった。


 暫く、小川と木々と小鳥の囁きばかりがあった。種々の小さな音の連なりは苔の群生する山肌や岩々に反響した。さあざあと山は歌い、主旋律を嘴が担った。反響に従い小世界は微かに揺れた。

 女も、小世界とともに揺れた。小川と一体となるあの所作を繰り返すのである。ガロの目にはそれが舞のように映った。しかしガロの見たどの舞よりも女のそれは違った。讃美歌のような清浄の舞。だが清浄とは途方もなく強靭な腕力すら想起させる。ガロは無数の腕が心臓をゆっくり握る瞬間を垣間見た。


 ガロは内から溢るる畏怖がある類の屈辱のように感じてしまう。それは彼に流れる血脈の、人為的な自尊心の震えと云っていい。彼には尊大な小世界と接吻するこの人間の振る舞いが、どうしても赦せ得ない。

 ガロは、齢十にもならぬ少年である。仄暗い黒髪と遠きを見据える眼差しが相まって、人々は彼を美少年として持ち上げた。いや、真を言えば黒髪も眼差しも、彼を奉るには不要であるだろう。ガロには血がある。それも王家の子息という神格な血が。血はガロに神権を与え、またガロも神権に伴った精神を培った。なぜ僕がこんな女なぞに屈せねばならない!


 ガロが敬意を潰した目を向け続けると、突然に、女はその向きをガロのほうへ翻り、微笑んだ。深海色の左目も、草原色の右目も開いたまま、口許を緩めた。無毛の肉体の全貌が露わになり、完成された存在の圧迫がガロを襲った。彼はこれを挑戦と受け取った。

 

 ガロと女との距離は大股十歩ほどである。そしてガロは身も隠さず川のほとりに直立している。その様は堂々たるもので、御忍びのために町商人の倅の格好に扮してはいるが王家の血はわざと薄汚れた絹布の塊に特有の権威をもたせた。

 ガロは決意を強めるためにその血をもって恍惚とした。


『そうだ……僕があの女に触れさえすればいい。僕が触れれば、この傲慢な女はたちまちたじろぎ、恥じ入るだろう。父上も仰った。〈血は、全てを超える〉。僕の高潔な血は管を超えて、肉や骨や肌を構成している。一度触れればあの女もこの血に平伏すはずだ……』


 ガロは小川に足を踏み入れた。熊が到来したかのような激しい水音が鳴った。次にもう一方の足を上げ、より強く川へぶつけた。それを何度か繰り返すのちにガロは女に手が届く位置まで近づいた。

 女はたじろぐどころか身動きひとつしなかった。色の違う両目ははっきりとガロを見つめるはずなのに、どこか遠い。ガロの感情はいよいよ激し、血の濁流する右手を女へと向けた。

 

 妙なことが起こった。小川の流れが急遽に速まり、怒涛の勢いでガロの両足を押し捕まえたのだ。ガロは背後の方向へ体勢を崩し、伸ばした右手を再び身体の横へ戻して平衡を保った。水流は際限なく加速する。

 ガロは左手で付近の岩に手をかけた。そして己が転ばぬことを把握すると、もう一度先の手を伸ばした。しかし今度はどこからともなく雀が数匹現れ、彼の視界を遮った。ガロは右手を振り回し追い払うと、思わずその目を疑った。


 眼前に枝の壁ができていた。女のあるはずの場所に無数の枝が伸ばされ絡んでいる。壁は横に広く、谷底を両断した。枝の根元を見れば二山の半ばに群生する老樹らがあった。

 ガロの抱える畏怖は無秩序に膨らんだ。だが彼の血も畏怖に抑えつけられるほど生温いものではなく、貪欲な王子は壁のなかで最も枯れた枝を掴み、それを折った。するとその枝の先からまた別の枝の層が現れ、何度も枝を折らなければならなかった。しかし彼は執拗に枝を折り掻き分けることを繰り返し、とうとう拳ひとつ分の穴ができた。

 ガロは中腰になり、穴に右目をあてた。あの白く眩い肌がその先にはあった。ガロは顔を壁から離し、穿った部分に手を突っ込み、肩まで入れた。しかしその手に感触はない。

 

『なるほど、彼奴は恐れている! 僕が肉体に触れれば彼奴の自尊心が崩れ去ることをこの女は確信しているのだ! だから穴から手が現れたとき、とっさに後退ってしまったのだろう。けれども〈血は、全てを超える〉! 壁ぐらい、超えられないわけがない』


 ガロは腕ひとつで一杯の穴にもう片方の腕を無理矢理に入れ、引き裂くように左右に開こうとした。少年の力は逞しかった。穴は拡がり、壁が割れた。そしてちょうど彼と同じ背丈まで裂け目が生じると、落胆と安堵と誇りとがガロを覆った。女は消えていた。


 ……これは、ガロにおける最も古い記憶である。不遜な少年はこのとき世界のふたつの根幹に出逢った。ひとつは女神の如き振る舞いの女、もうひとつは「魔法」である。

 時は経ち、世界は変わった。「魔術」が普及し、民は富み、アルミーン王家は堕落した。民衆はもはや王の血を欲しない。それどころか暴徒と化したパン屋や漁師や商人や近衛兵がその血の片鱗を窺わせるあらゆる建築物に火を投げ入れた。かつての神聖な王族は宮廷を別に移し、政を手放し、民主主義という名に頭を垂れた。ガロの父は、もうあの言葉を口にしない。

 ヴェーリー歴八年四月十日、アルミーン=ガロは二十四度目の春を迎える。

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