第45話

 その日は虫の音が響く涼しい夜で、夕食を食べてお腹が満たされたネリネは母親の膝にもたれかかり先ほどから小さな寝息を立てていた。毛玉はすっかり定位置となったカゴの中から顔を持ち上げそちらを見やる。ケホケホと空咳をした母親は、哀し気な目でこちらを見ながら言った。


「悪魔さん、わたしと取引してくれないかね」


 正体を看破されていたことに驚きはなかった。思い起こせばこの母親は常にこちらとは一定の距離を置いているように見えた。子供にも『別れが辛くなるから名前を付けるな』と警告していたのは、無意識とはいえ悪魔を名前で縛りつけることを……そしてその弊害を恐れていたからだろう。

 そんな聡明な彼女がなぜ。返事はせずじっと見つめていると、母は膝の上ですぅすぅと眠る愛娘を撫でながら言った。


「五年……とか、十年後、もしかしたら、この子は望まない運命に巻き込まれるかもしれない。その時、わたしに代わってこの子を守ってやって欲しいのさ」


 その運命がどういった物なのかは分からない。だが彼女の口ぶりからするに、それは避けられない事態のようだった。


「せめて、あと一日早く産んでやれれば良かったんだけどね……。お願いだよ、この子が一番つらい時、わたしはたぶん傍にいてやれない。ネリネを一人ぼっちにしたくないんだ」


 優秀な薬師である彼女は、自分の生い先が長くないことを自覚していたようだ。しかし、寄りによって悪魔じぶんに頼ろうとは……。


 ――元気になってよかったねぇ


 ふと、自分を抱きしめ、心底嬉しそうに笑うネリネの顔がよみがえる。そして母親にもたれる寝顔を見た瞬間、悪魔は心に決めた。最も縁遠いはずの神に誓った。己の神に誓って彼女を一生涯守り抜こうと。

 立ち上がった悪魔はカゴから出てソファへと飛び移った。ネリネの母の指に軽く噛みつくと契約の血を舐めとる。舌先に触れた魂はとても甘美な味がした。


「……ありがとう、頼んだよ」


 健やかに眠るネリネの上で、密約は交わされた。ぱちりと、暖炉の火が爆ぜる。そちらを見つめる母親の横顔は、とても憂えた物だった。


「できれば、そんな日が来ないことが一番なんだけどね……」


 ***


 やがて完治した悪魔は野生に還された。見送りの場面はよく覚えている。泣きじゃくるネリネの肩を母親が優しく叩いていた。


「ほら、笑顔で見送っておやり。あの子はこうするのが一番なんだ」

「うっ、うぇぇん、わがっだぁぁ」


 涙でぐちゃぐちゃのネリネは無理に笑う。最後に一度大きく手を振った光景が目に焼き付いている。


「ばいばい、元気でね!」


 ……。


 それからの歳月は、悪魔基準でもあっという間だった。魔界に戻り様々な『ケジメ』を付け、契約を理由に人間界に舞い戻った時にはすでに十年が経過していた。

 あの森の中の家にも行ってみたが既に朽ち果てており、契約を交わした母親も村の墓地で眠りについた後のようだった。

 そしてネリネ。調べたところ、どうやら彼女は聖女の後釜として貴族家に引き取られたらしい。なんともはや、悪魔とはだいぶ縁遠い存在になりつつあるようだ。


(ならば自分もそこに近付けばいい)


 大胆不敵にも悪魔は聖職者の道を志すことにした。どこかの道端で行き倒れていた男性の姿と名前を借り、彼の遺体は証拠が残らないよう煉獄の炎で灰にする。魂には手を付けなかったので勝手に天国にでも行くだろう。そして何食わぬ顔で教会本部の門を叩き――



「やぁ、おはよう」


 ついに再会を果たした時、ネリネはあの時の天真爛漫さが嘘のように打ちひしがれた表情をしていた。他人の視線を避けて縮こまり、自分の腕を不安げにさすっている。無理もない、ありもしない罪を着せられ追い出された直後だと聞く。


「どうしてわたしを引き受けて下さったんですか?」


 彼女に尋ねられても、まだ契約の事を明かす気はなかった。母親の寿命を削ったことで嫌われたくは無かったし、傷ついた今の状態で打ち明ける話でもないと判断したからだ。打算的と言うなかれ、タイミングの問題である。


(さて、どう答えたものか……)


 逡巡する悪魔は、ふと思い立ち『神父クラウス』として正直な振る舞いをすることにした。


(信頼を勝ち得るには自分の正体も包み隠さず明かした方がいいだろう。嘘はよくないからな、うん)


 どうしたら彼女を元気づけられるだろう? 悪魔の心にはそれしかなかった。きっと憎い相手がたくさんいるはずだ。自分は破滅の悪魔、報復をするというのなら喜んで手を貸すつもりだった。ならば正体を明かした方が手っ取り早い。


 それが結果的に、彼女にとんでもない心労を与えるとも知らず、悪魔は心の中でほくそ笑んだ。擬態をほんの少しだけ解き、本来の姿を表面化させる。赤い塵が教会の中に舞い上がり始めた。


「ネリネ、私は君を幸せにするために来たんだよ」


 人の身ならば、ずっと触れたいと思っていたその柔らかな灰色の髪を撫でることも許されるだろうか。悪魔は大きく見開かれた目を見つめ返し、そんなことを考えていた。



おわり


--------------


ここまでお読み頂きありがとうございました。

さて、この後ですが終わると見せかけてもう少しだけ続きます。

後日談となりますが、二人がもう少しだけお互いの気持ちに踏み込むことに…?

投稿ペースは変わらないので、よろしければ引き続きご覧ください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る