第44話

 毛玉は差し出された指を反射的に噛んでいた。ぶつりと牙が入り、ぴっと小さな悲鳴が降ってくる。ガジガジと喰い千切る勢いで噛みつくのだが、牙はそれ以上入って行かなかった。

 それでも諦めず顎に力を込めようとした瞬間、いきなり身体の側面に小さな手を添わされる。そしてそのまま抵抗する間もなく持ち上げられ、ペタンと座り込んだ幼女の膝に乗せられてしまった。驚いて噛んだまま見上げると、女の子は青ざめながら引きつった笑顔を浮かべていた。


「だ、だいじょうぶ、だよ、だいじょうぶ、痛くない、いたくないから」


 痛みを必死にこらえているのだろう、涙をポロポロとこぼしながら沿わせた手をぎこちなく動かしている。しかし『撫でられる』という行為を知らない毛玉はその動きすら攻撃の一種だと捉え縮みあがった。

 だが悲しいかな。それ以上抵抗する体力はもうどこにも残されていなかった。毛玉は急激に力が抜けていき視界が暗転していく。そしてそのまま果てない絶望感を味わいながら、小さな手に抱えられ運ばれていくのを意識の外側で感じていた。


 ***


 次に目が覚めた毛玉は、起きて数秒で口の中に突っ込まれた液体を盛大に噴き出していた。ゲロゲロと吐き出していると頭上から声が降ってくる。


「おや、目が覚めたのかい? 嚥下しな嚥下。魔女さんのありがたいクスリを吐き出すんじゃないよ」


 ビクつきながら顔を上げると、灰色の髪を一つ結びにした女性がこちらを見下ろしていた。理知的な緑のまなざしも相まって嫌に見覚えのある色だ。


「なんだいその目は、助けて貰ったってのにずいぶんと反抗的じゃないか」


 言葉は、分かる。人間の言語などどれだけ朦朧とした頭でも理解できる。だが、分からないのはその内容だった。助けた? 自分を?

 そこで毛玉はようやく己の状態を確認した。切り傷だらけだった短い手足には包帯が巻かれ、焼け焦げた皮膚にはベタベタする薬らしきものが塗りこまれている。

 辺りを見回せば、そこはどうやら小さな小屋の中らしかった。自分はパチパチと爆ぜる暖炉の脇に置かれたカゴに入れられているようだ。体の下に敷かれた可愛らしい黄色の布を見てようやく毛玉は気づく。もしかしたら自分は、無害な小動物――黒い子猫あたりにでも誤認されているのでは?


「ネリネに見つけて貰わなかったら鳥のエサにでもなっていただろうね、あの子に感謝しな」

「おかあさん、ヨモギ、ヨモギあった」


 タイミングよく扉が開き、カゴを抱えた幼女が嬉しそうな顔で駆けこんでくる。立ち上がって出迎えた母親は荷の中身を点検しながらうんうんと頷いた。


「よしよし合ってるね、この素材の使用法は?」

「えっと、よく揉んで、やけどした患部に貼りつけます。体を温める効能があり、リラックス効果にもきたいできます」

「せいかーい! さっすがわたしの娘!」

「きゃー」


 満面の笑みで抱き合う親子を見て毛玉は何とも言えない気持ちになった。何を見せられているのだろう。


「ほら、あんたの患者が目を覚ましたよ」

「あぁっ」


 輝く視線を向けられて毛玉はビクリと反応する。駆け寄ってきた幼女はキラキラとした瞳で語り掛けてきた。


「大丈夫? 気分は悪くない? 痛いところは?」


 答えることもできたが、返事を期待して問いかけたわけではないだろう。毛玉は黙り込んだまま状況に身を任せることにした。母親が腕を組みながら娘に言う。


「拾ってきたからには、あんたが責任もって診るんだよ」

「うんっ」


 どうやら敵意はないらしい。それを判断した毛玉はなんだか拍子抜けして、肩の力を久方ぶりに――それこそ十数年単位で抜いた。もぞりと丸くなり再び睡魔に襲われる。


 ***


 その日から、ネリネと言うらしいその娘は実に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。己の十分の一も生きていないであろう子供から下の面倒まで見て貰うというのは、なんともむずがゆい気分ではあったが、どうせこの世界に知り合いは居ないのだと思うと吹っ切る事ができた。

 食事を手ずから食べさせ、日に一度彼女の母親が作った薬を丁寧に塗りこんで包帯を巻いてくれる。正直、魔界の生き物である自分に人間の薬が効いたとは思えなかったが、襲われる心配もなくゆっくり休めるのはありがたかった。なにせ今の弱った身体では野生動物にすら太刀打ちできなかっただろうから。


 毛玉は持ち前の生命力もあり、半月も経つ頃にはゆっくりとではあるが歩けるまでに回復していた。そんなある日の午後、森の中を共に散歩しているとネリネがひょいとこちらを持ち上げる。


「知ってる? 手当てってね、こうして治したいところに手を当てるだけでも効果があるんだって。おかあさん言ってたよ」


 小さな手が頭を撫でるのを堪能しながら目を細める。今ではそれが愛情からくる行為だということを毛玉もきちんと理解していた。こちらからも彼女を撫でられないのを彼は少しだけ残念に思った。本来の姿で撫でようものなら、間違いなく彼女をぺしゃんこにしてしまうだろうから。

 せめて子猫のふりをして小さな手にスリと頬を押し付ける。するとネリネは木洩れ日を背に、歯の抜けた顔で嬉しそうに微笑んだ。


「元気になってよかったねぇ」


 微笑ましい間抜け面だというのに、毛玉にはそれがとても眩しく女神のように見えた。歯抜けの小さな女神様がそこには居た。


 ***


「知ってるよ、あんたただの猫じゃないんだろう?」


 この温かくて小さい庵に逗留してひと月が経とうかと言う頃、彼女の母親は何の前触れもなくそう切り出した。

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