第43話 歯抜けの女神様

 自然に笑うその顔は、目の前の悪魔が微笑む様とよく似ていた。それを分かっているのか居ないのか、彼女は心からの一言を伝える。


「あなたが居てくれてよかった」


 しばらく目を見開いていたクラウスだったが、ふっと微笑み返すとネリネの頭に手を置いた。愛おしそうに撫でながらおかしなことを言う。


「逆だよ、その心は元々君が持っていた物だ」

「え……」

「君が、私に心をくれたんだ」


 どういう事かと思案している内に手はそっと離れた。食堂の扉を開けた神父は礼拝堂へと続く廊下に消えていく。


「いつか話そう、その時まで私は君の傍にいるよ」


 残されたネリネは腑に落ちない顔をしながら、先ほどまで触れられていた頭に手をやる。頬を赤らめたあと、相手に聞こえない大きさでそっと呟いた。


「……心を持って行かれたっていうのは、間違いじゃないですけど……」


 しばらく思案していたが、そろそろ時間だと我に返る。部屋から出ようとしたところで、台所の様子を振り返った。あれからだいぶ整理したとはいえ、まだ薬草の染みがあちこちに飛び散っている。


 ――人の欲望が引き起こした災厄も、それを治す救世主が現れるのも、全ては神のご意思。少し俗物的な言い方をすれば『運命』というやつです。


 ふいに教皇の言葉がよみがえる。彼の世間を操るようなやりかたも、理解できなくはないが好かない。今回の事件を通してネリネの意識は少し変わった。今まで盲目的に信じていたのは教会側の思想であり、神は一人ひとりの中にある正しい心が真実なのだと。


(わたしが持っている薬草の知識を一冊の本にまとめてみたらどうだろう)


 ふと思い立ち、いい考えかもしれないと思案する。

 もし、自分が持っている知識を広く共有化できたら、今後どこかで同じような事件が起きても、誰かが対応できるのではないだろうか。

 運命に流されるだけではない、聖女などという象徴などにすがらなくても、一般市民が自分たちで抗う術を少しでも持てたら……。


(教皇からは睨まれるかもしれない。でもこれが、わたしが考える聖女としてのやり方だ。誰かの為になりたい)


 聖女という役割からは降りたが、一人でも多くの人を救いたいという気持ちは今も変わって居ない。きっと医者も教会もない地域に住む人々の役に立つはずだ。



 後に大ベストセラーを産み出すことになる著者は、今度こそクラウスの後を追う。ここを開ければ村人たちが待っているという扉の前で彼は待っていた。


「おいで、ネリネ」


 漏れ出す光を背負う彼は本当に神の使いだったのかもしれない。この声が始まりだった。深く響く声で行なわれる説法は予想通り心地いいのだ。


 彼が傍に居てくれるのならば何も怖くない。それが何故なのかを考える前に、仮面を捨てたシスターは生まれたての笑顔で駆け出していた。


「はいっ」


 二人で扉を押し開ける。まばゆいほどの光が射しこんできた……。




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 明け方の暗い森の中で、その生物はまるで打ち捨てられたゴミのように転がっていた。


 手まりほどの大きさのそいつは全身が黒い毛で覆われていて、落ちているところを中心としてじわりじわりと血だまりが広がっていく。


 耳を澄ませば、空気が漏れるような息遣いが聞こえてくるのがわかるだろう。それはもちろん毛玉自身のか細い呼吸音で、冬の隙間風にも似たその音は今にも消えてしまいそうに小さなものだった。


 自分はこんなところ息絶えるのかと彼が思った瞬間、カサリと枯れ葉を踏みしめる音が響く。瀕死の毛玉は自分のどこにこんな力が残っているのかと思うほど素早い動きで身構えた。


「あ……」


 音の主は小さな女の子だった。灰色の波打つ髪を腰まで伸ばし、こぼれ落ちそうなほど見開いたコバルトグリーンの瞳が朝日を反射して輝いている。幼女はおそるおそるこちらに手を伸ばし近付いてくる。


「だいじょう――」

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