第42話

 庭に向かって逃げていく神父をシスターは追いかける。

 ネリネ自身は気づいていなかったが、その表情はとても豊かな物になっていた。こうやって怒りの感情を表現することでさえ、全てを諦めた『コルネリア』には到底できなかったことだろうから。


 固く塗りこめた仮面は少しずつ剥がれ落ち、ようやく彼女本来の素直さが顔を出し始めていた。振り返った悪魔は目を細める。それは、彼が一番見たかった物だった。


 ***


 秋晴れの空が高くなり始めたホーセン村では、いつものように日曜の午前に礼拝が行われる。入り口で村人を出迎えていたネリネは、少し離れたところでこちらをチラチラと窺う人物を見つけた。


「どうしました? 中へどうぞ」


 パン屋のおかみは呼びかけられ、扉の影からようやく出てきた。いつもの豪快さはどこへやら、小さな手提げカゴを抱き込むように抱えた彼女は縮こまりながらそれを差し出してきた。


「あの、これ、よかったら教会で食べて」


 カゴの中には明らかに売り物であろうパンがこれでもかと詰め込まれていた。ふわりと香る小麦の匂いにネリネは少しだけ微笑んで受け取る。


「ありがとうございます、その御心は神も見ておられることでしょう」


 用件は済んだはずなのに、おかみは中へ入らずそわそわと立ち尽くしていた。どうやら話の続きがあるらしい。しばらくして彼女は歯切れ悪く言葉を続けた。


「その、罪滅ぼしってわけでもないんだけど、これまで悪かったというか……あのね、アタシらもね……うぅんと」


 そこまで言われたら鈍いネリネでもようやくピンと来た。おそらく彼女はこれまでの態度を謝ろうとしているのだろう。

 しかし、そこで気の利いた一言でも言えるほどネリネも対人スキルが高いわけではなかった。お互いに沈黙したまま奇妙な時間が流れる。


「……」

「……」


 やがて、勇気を振り絞り一歩を踏み出したのはおかみが先だった。指先をいじりながらチラッとこちらを上目づかいで見つめ、おそるおそる切り出す。


「今まで、ごめ、ごめんなさい。アタシね、裏でコソコソ陰口叩くような真似してたの。許して貰えるとは思ってないけど……このままうやむやにしてたらダメだって……思って……本当に……ごめんなさい」


 消えていく言葉尻に何かを返す前に、おかみはぐわっと顔を上げた。


「あのっ、今度村の女たちを集めてパン焼き会っていうか、お茶会をやるんだよ。みんなも謝りたいって言ってたし、よかったらその……シスターも来ない?」


 予想外のお誘いにネリネは目を見開く。本音を言えば複雑な気持ちがないわけでも無かった。今さら都合よく謝られても、赦せない気持ちもどこかにはある。

 あぁでも、折り合いをつけるのが円満に事を収めるためになるのかもしれない。だけど


「それは……懺悔室でもいいんじゃないですか?」


 罪の意識を清算したいが為に一方的に謝りたいだけならば、それはもう懺悔室に来て欲しい。

 思わずぽつりと漏れた言葉に、おかみは口をぽかんと開けて的外れな答えを返してきた。


「都会の人は、懺悔室でお茶会するの?」

「……」


 しばらく彼女の顔を見ていたネリネは、唐突にぷっと吹き出した。そのままケラケラと笑い出してしまう。


「え、なに? アタシへんなこと言った?」

「あはっ、あははっ! す、すみませ、そうじゃないんですけ、ど」


 一度、笑い出した発作はなかなか収まらなかった。笑いすぎてにじむ涙を拭いながら、ネリネは笑みを浮かべる。それはとても人らしい、柔らかい笑みだった。


「それじゃあ、お邪魔させて貰ってもいいですか?」


 その一言だけで、おかみの表情があっという間に笑顔に変化していく。ほっと息をつくと嬉しそうにこんな事を言った。


「なんだい、あんたやっぱり笑えば美人さんなんだねぇ」

「!」


 褒められ慣れていないネリネはビックリして黙り込む。急に元気になったおかみは扉の影から次々とカゴを持ち出してきた。


「あぁ良かった、ついでにこれとこれと、これも食べておくれよ。ちょっと神父サマ! クラウスさーん!! 運ぶの手伝っておくれ!!」

「はいはい、なんですかーっと。うわっ、気持ちは嬉しいけどこんなには食べきれないよ」

「アッハッハ、食べな食べな、もっと貫禄つけないと!」


 上機嫌のおかみは笑いながらようやく中へ入っていった。残された二人は大量のパンかごを抱えて顔を見合わせる。

 まさかこれを抱えたまま礼拝を始めるわけにもいかず、ひとまず裏の食堂に運ぶことにした。外から回り込んでいく最中、ネリネは先ほどのおかみとのやりとりを話す。そして、どこか憑き物が落ちたような声でしんみりと漏らした。


「誤解も解けた事だし、彼女たちの言い分を聞いても良いかもしれないって思えたんです。人って、知らないから恐れるんですよね。怖いから攻撃して疎外する……わたしにとっての悪魔あなたがそうだったように、村人たちにとってはわたしが悪魔だった」


 裏手の木戸を開けて台所に入る。食材の匂いに混じり薬草の香りがするのはもう慣れた風景だ。


「でも、そんな態度を取られてもあなたはめげなかった。わたしが何度拒否しても優しく寄り添ってくれた。だから、わたしもあの人たちに歩み寄ってみようかと思ったんです。ここでつながりを断ち切ってしまっては、未来がなくなってしまうから」


 食堂に抜けてテーブルの上にパンを置く。その上からふきんをかけたネリネは改めて隣の悪魔を見上げた。


「ありがとうクラウス、あなたはわたしにもう一度、誰かを信じる心をくれた」

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