第27話

 翌朝、歩くことすらままならない王子とその護衛たちは村の出口で見送られていた。馬車の窓から身を乗り出した王子は情けない声で御者に叫ぶ。


「はやっ、早く馬車を出せぇ!! こんな村に一秒でも居られるかぁっ」


 その時点で尋常ではない怯え方であったが、真下にひょっこりとクラウスの顔が現れると、か細い悲鳴を上げた。


「きぃぁぁぁぁぁ!?」

「ジーク殿、道中のご無事を祈らせてください」


 旅の無事を祈る仕草をした神父は、彼にだけ聞こえるようぼそっと付け足す。


「忘れるな、『それ』はいつでもお前の背後に潜んでいる。私の機嫌を損ねるような真似をしたら……分かっているな?」


 その途端、王子はブクブクと泡を吹いて後ろ向きに倒れてしまった。ハッと意識を取り戻すと隅でガタガタと膝を抱え震え始める。


「お気をつけて」


 へらりと笑って手をふるクラウスを、隣にいたネリネは呆れたように横目で見やった。

 返事の代わりに窓から顔を出したのは固い表情をしたヒナコだった。さすがにこんな大衆の前ではクラウスが本性を現さないと分かっているのか王子よりは冷静だ。


「……」


 こちらを穴が開くほどにらみ付けていた彼女だったが、結局最後まで何も言わずに馬車は動き出した。深く刻まれた眉間のシワと憎々し気な瞳は「必ずお前らの正体を暴いてやる」と物語っていた。それを見送った村人たちは不安そうに解散しながら口々に話し合う。


「本当にどーしたんだろなぁ、王子様は」

「よくわかんねぇけど、悪魔がどーのこーのって」

「いやだわ、ホーセン村がお咎めを受けなきゃいいけど」

「よしとくれよ、ようやく疫病がヒナコ様のおかげで終わったって言うのに……」


 一部から疑わし気な視線を感じたが、ネリネは背筋を伸ばしてそちらをまっすぐに見返してやった。やがて気まずそうに目を逸らした彼らはすごすごと去っていく。


「いいぞ、何もやましい事は無いのだから堂々としていればいいのさ」


 クラウスからのお褒めの言葉にネリネは少しだけ微笑み返した。仏頂面しかできないと思われていたシスターのまさかの表情に、村の男たちが一様にざわっとする。だが神父は特に気に留めることなく馬車が去っていった方角を――首都ミュゼルへと続く道を真剣な顔で見つめた。


「もう後戻りはできない。近々私たちは本部へ召集されるだろう、覚悟はできたかい?」


 同じようにそちらを向いたネリネは、朝の光が照らし出す中で迷わず言葉を選んだ。


「数か月前、わたしは何もできず状況に流されるだけでした。でも今は違う」


 右に立つクラウスにすっと向き直った彼女は、下ろした両手をきちんと前で重ね、まっすぐに彼を見上げた。


「共に闘ってくれますか、クラウス」


 その表情から、この村に来た時のような悲壮感は消え去っていた。目の前にいる悪魔を信頼してみようという気概が感じられる。

 フッと笑ったクラウスは己の胸に手をあてると、雰囲気を和ませるように冗談を飛ばした。


「元より私はそのつもりさ。それに一度、燃え上がる本部の聖堂というのを見てみたかったんだ」

「わたしが協力して貰いたいのは神父としてです!」


 憤慨する彼女に悪魔は笑いそうになる。なだめようとしたその時、小さな影が駆け寄ってきてネリネに後ろから飛びついた。


「シスター! あの薬、効いたよ! やっぱりシスターはすごいんだよ!」


 それは村人がヒナコの聖水に群がる中、一人だけネリネの薬を受け取ろうとしてくれた少年だった。その後ろから回復したらしい妹が嬉しそうな顔で駆けて来る。

 嬉しさがこみ上げたネリネだったが、はたと気づいて少年の頭を両側からガッ!と掴む。ひくりと顔を引きつらせる彼の目を真剣に覗き込みながら鬼の形相で尋ねた。


「渡してないですよね?」

「へ?」

「薬をどこから入手したのか言いなさい!」

「……あっ!」


 途端にしまったという顔をする少年は、しばらくあーだのうーだのごまかしていたが、やがて観念したように白状した。


「その、シスターがくれないもんだから……台所にお邪魔して、ちょっとだけ……な?」


 ネリネはヒュッと息を呑んで凍り付く。確かに薬の在庫は鍋に残っていたはずだ。そしてそれを薄める前の原液もすぐ隣に……もし彼が間違えてその劇薬を妹に飲ませでもしていたら――


「わっ、わっ?」

「しすたぁ?」


 へなへなと崩れ落ちたネリネは少年と妹を力いっぱい抱きしめる。くぐもった声で正直な気持ちを漏らした。


「無事でよかった……」

「えへへ」

「そりゃシスターの薬だもんよ、効くにきまってら!」


 こちらの心労などお構いなしに幼い兄妹は嬉しそうに飛び跳ねる。弾むように駆け出した彼らは手を振りながらこんな事を言った。


「俺知ってる! シスターがずっと寝ずに頑張ってくれてたこと。みんな誤解してるんだ! 本当のことを伝えるよ!」

「あたしもっ」


 弱々しく笑って手を振り返すネリネだったが、彼らの姿が見えなくなった途端に死ぬほど重たい溜息をついた。さすがに驚いたような顔をしたクラウスが言う。


「この展開は予想してなかったな。鍵は掛けていなかったのか?」

「たぶん、窓をこじ開けて入ったのでしょう。危なかった……本当に危、あぶぶぶ……」

「落ち着いて」


 今さらながらガタガタと震えてきたので助けを借りて立ち上がる。正直、王子とその側近たちに首を絞められた時よりも肝が冷えた。


「きつく叱って置けばよかったのに」

「いえ、薬を扱う者として厳重に管理していなかったわたしのミスです。次からは気を付けなければ」


 どこまでも責任感の強いシスターに神父は苦笑を浮かべる。


「帰ったら鍵付きのキャビネットでも作ろうか、ごらん」


 彼が指し示す方を見ると、幼い兄妹は村人たちの間に入り込み何やら一生懸命に説明をしているようだ。


「見ている人はちゃんと見てくれている。心強い味方がまた増えたね」

「……」


 子供の言うことだ、影響力はさほどないだろう。だが、ネリネは胸の辺りが暖かくなるのを確かに感じた。鼻がツンとしてきたのでくるりと背中を向けすする。面白そうに神父が覗き込んできたので手で押しのけながらもう片方の手で涙をぬぐった。


「なんだか、ここに来てから涙腺がゆるくなったような気がします」

「それは良い事だと思うよ。奥底に押し込めてしまうよりはよっぽどね」


 指先に乗った雫を払ったネリネは少しだけ微笑んだ。いつも堪えて飲み込んでいた時よりも、今はずっと清々しい気分だった。

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