第18話

 ……どれだけの時間が過ぎたのだろう。うっすらと目を開いたネリネのまなざしから涙がひと筋こぼれ落ちた。すぅっと頬を伝った雫はポタリと彼女の襟元に落ちてにじんでいく。反対の目からも流れ落ちた瞬間、ようやく自分が泣いていることに気づいたのだろう。その表情が見る間に瓦解していく。


「……だって、そうとでも思わなければ」


 顔を覆ったネリネは滂沱した。ようやく造り上げたはずのしあわせの仮面にピシリと亀裂が入る音を彼女は聞く。胸の内でぐちゃぐちゃになってしまった気持ちを、言葉の端々で何とか理解して貰おうと試みる。


「いつも、こうして来たんです。押し込めてしまえばくだらない感情なんか消えてなくなるから。いつだって上手くいったのに、どうして……」


 堰を切った涙は止まらず、ネリネはひたすら拭い続けた。


「置かれた状況が憎い。だけど悪魔あなたの手を取る事もできない」

「……」

「お願いします、もうこれ以上わたしの心をかき乱さないで下さい……」


 言い切った言葉が、もうすっかり日の落ちた暗闇の向こうに消えていく。

 もうここまで言ってしまえばさすがの悪魔も見放すだろう。契約の見込みがない人間をどうするのか、赤子の手をひねるより容易く殺されてしまうのではないだろうか。


 ところがそんな彼女に与えられたのは、焼き殺す為の炎でも、ましてや死に至る一撃でもなく、まるで人間のように柔らかな抱擁だった。ふわっと頭を引き寄せられたネリネは、目の前の胸に額を突く。


「っ、」

「それで出した結論が自己犠牲なのは、感心しないな」


 穏やかな声が間近で響き、少しだけ心が安らぐ。だがその事にハッとしたネリネは慌てて逃れようとした。


「は、離して! これ以上絆さないで。悪魔の誘惑になんて応じない。わたしは、わたしは……っ」

「そうじゃない。君の心が揺らがないのは先ほど確認したよ。今は悪魔としてではなく、ただ一人の神父として君の気持ちに寄り添いたい」


 驚いて顔を上げると、クラウスは困ったように微笑みながらこちらを見降ろしていた。そっとこちらの頬に手を当てた神父は、涙の跡をぬぐいながら続ける。


「どうしてそんなに自己犠牲が過ぎるんだ。君だって幸せになっていいんだよ、嫌な物は嫌と声をあげていいんだ」

「だって、怒られる、わたしの意見なんて誰も……」


 聞いてくれない。と、言いかけたネリネは、目の前の男に見つめられ声を失くした。


 ――大丈夫、真っ当に生きていればいつかちゃんと報われる。見る人はちゃんと見ているのだから


 思えば、この悪魔が自分を疑ったことなど一度でもあっただろうか? 偏見も、先入観もない。出会った当初から色眼鏡を掛ける事なく、ただのネリネとして自分を見てくれた。他愛もないやりとりが、どれだけ自分の心を慰めてくれたか。氷のように冷え切っていた心はいつの間にか溶けかけていた。


「泣いていいんだ、ネリネ」


 頭に乗せられた手が優しく動く。大きな手の感触は子供の頃、暖炉の傍で母親に撫でられた感触とよく似ていた。不安も、哀しみも拭い去ってくれるような、そんな――。

 ふいに頭の手が離れる。両手を広げたクラウスは、目元に皺を寄せるひどく優しい笑顔を浮かべた。


「おいで」


 ぬくもりが欲しかった。ずっと誰かの手が恋しかった。

 これも悪魔の戦略なのかもしれない。だけどもう、どうでもよかった。言葉にならない声が喉元を通過して奇妙な音を立てる。気づけば考える前にその胸の中に飛び込んでいた。

 クラウスの胸元にしがみついたネリネは、大声をあげて泣いた。声の続く限り感情を吐露する。


「いっ、いつか報われるって、いつです、かぁっ!」


 クラウスは口を挟まず、黙って頭を撫で続けてくれた。いままで溜め込んできた感情を全て吐き出すがごとく、ネリネは叫んだ。


「真っ当に生きてきたつもり、なのにっ、頑張ってる、のに、なんで、なんで!! うああぁあぁ!!」


 後はもう不明瞭に泣き喚く。泣く。鳴く。ひたすらに声を張り上げ続けた。やがて肺の中の酸素を全て使い果たし、ひっくひっくとしゃくり上げる。


「誓おう。私は君の味方だよ」


 しがみついた身体から響く声は低く落ち着いていて、心臓を震わせるようだった。

 返事はしなかった。しない代わりに、背中に回した腕に少しだけ力を込めた。

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