第17話
本性を現した悪魔は妖艶な微笑みを口の端に浮かべる。なぜ今まで気づかなかったのかと思うほどクラウスは恐ろしく整った顔立ちをしていた。魅入られて動けないシスターを、彼は文字通り悪魔の囁きで包み込む。
「お前が望むなら、あの宴会場を一瞬で消し炭にしてやろう」
自分の喉がゴクリと鳴ったのが分かった。やはりこれが、この男の目的だったのだ。弱っているところに付け込んで契約させる。絵に描いたような悪魔の常套手段ではないか。この手を取れば間違いなく破滅が待ち構えている。この村だけではない、ネリネ自身にもだ。
(あぁ、だけど……)
彼はネリネを幸せにするためやってきたと言った。ならばこの提案は、これ以上ないほど『幸せ』では無いだろうか。
あの聖女が苦しみながら焼け死ぬところを想像する。自分を切り捨てたジーク王子も、あっさりと手のひらを反した村人たちも、全部まとめて黒焦げになる様を。
自然と口の端が吊り上がり、嫌な喜びが胸を満たした。甘い甘い、喉が焼け落ちそうな誘惑がすぐそこで手を差し伸べている。震える手が持ち上がり、のろのろと動いていく。
「悪魔に魂を売り渡すのも悪くない……ですね」
「ああ、君が望むならいくらでもチカラを貸そう」
契約成立まであと数センチ。楽しそうなさざめき声が風に乗って遠く聞こえる。
「……」
手が止まった。怪訝そうに目をすがめた悪魔は目の前の女を見下ろす。
どちらも動かなかった。静かに降る赤い灰が二人を取り囲む。やがてゆっくりと顔を上げたシスターは悲痛な笑みを浮かべていた。
「結果的に村が助かったなら、それでいいじゃないですか」
ぎこちなく、顔が引き攣れそうな笑顔だった。背筋をシャンと伸ばした彼女は笑う寸前か泣き出す寸前のどちらともつかない声で続けた。
「状況を見て下さいよ。聖女様がやってきて、大勢の人を助けて下さった。これ以上のハッピーエンドがあります?」
「……」
笑顔につられることなく、クラウスはそれを黙って見下ろす。
凍えてしまいそうなほど冷たい目ではあったが、死すら厭わなくなったネリネは怯まなかった。彼女は敬虔な祈りの形に手を組み、目を閉ざす。
「あぁ、やっとわかりました。きっとわたしはヒナコさんの引き立て役となる使命を神様から与えられたのです。そうに違いありません。どうしてその運命に抗おうとしたのでしょう、こんな愚かなわたしでも神様は許して下さるでしょうか、ねぇ神父様」
不思議なことに、ネリネは荒れ狂うようだった自分の心がスッと凪いでいくのを感じた。今までの彼女からは信じられないほど饒舌に語り、まるで女神のように慈悲深い微笑みを浮かべる。
そう、彼女はようやく笑顔の『作り方』が分かったのだ。
それを見た悪魔はこの世で最も不快な物を見たように顔を歪める。それまで余裕を保っていたはずの声に初めて苛立ちが滲んだ。
「……そうやってまた、自分の心を犠牲にするつもりか」
「きっとこれが一番いい、みんな幸せになれるんです」
「ネリネ!」
声を荒げたクラウスは、彼女の襟元をグッと掴む。それでもネリネはしあわせの仮面をかぶり続けた。きょとんとした顔で何を怒っているのかと不思議そうに見上げる。
それを見た悪魔は哀しそうな顔で眉を寄せた。感情を無理やり押し込めたような声で静かに問う。
「その『みんな』の中に、君自身は含まれないのか?」
ぴくっと、ネリネの肩がわずかに跳ねた。答えはなく、クラウスを見つめるまなざしは不自然に明るくて遠い。
掴んでいた襟元から手を離したクラウスは、今度は両肩に手を置く。真剣な顔をして覗き込む彼は努めて冷静になろうとしているような声で言った。
「私は君を幸せにしたいんだ。君が壊れてしまっては私も幸せにはなれない。絶対に」
「それは、どういう……」
「自覚してくれ、君の心は壊れかけている。自分を殺さないでくれ、それこそ神への冒涜だ」
透き通るようだったネリネのコバルトグリーンの瞳に、少しだけ陰りが差す。クラウスはこの、おそらくは一度だけのチャンスを逃すまいと必死に呼びかけた。
「戻って来てくれ、君は誰かの引き立て役なんかじゃない」
「言っていることが……よく」
「それで君は満足なのか! 自ら悪役になると!」
「聖女が称賛を集めるように、憎悪を集める標的も必要なんですよ。たぶん」
平然という彼女に苛立ちが募った。どうにもならない強情さにクラウスは声を荒げる。
「私はそんな取り繕った言葉が聞きたいんじゃない、君の本音が知りたいんだ!」
もう聞きたくないとばかりに、ネリネはきつく目を閉じ耳を塞いだ。はぁっと息継ぎをしたクラウスは、それまでとは打って変わって静かに問いかける。
「もう一度だけ聞く。これが最後だ、二度は聞かない」
どんなに耳を塞いでも聞こえているはずだった。苦し気な表情が何よりの証拠だ。
静寂が降りる教会でクラウスは最後の賭けをする。これが届かなければ、もう、
「本当にこれでいいのか、ネリネ」
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