第16話 契約
それから数刻が過ぎた。聖女がもたらした聖水は劇的な効果を発揮し、陽も沈む頃には謎の症状に苦しめられた患者たちはほとんどが回復して歩き回れるほどになっていた。
その夜、村を救ってくれた感謝の証として、ジーク王子と聖女ヒナコの為に、村で一番大きな宿屋で盛大な宴会が開かれることになった。
誰もが笑っていた。子供たちも今日ばかりは夜間の外出を許され走り回る。皆が幸せそうな顔で歌い、踊り合っていた。
そんな中、ネリネは教会に一人残り、病床の後を黙々と片付けていた。太陽は地平線に身を投じ、その残滓だけが教会内を浮かび上がらせている。
元から感情に乏しいシスターではあったが、伏し目がちに閉じられた緑のまなざしは今やガラス玉のように成り果てていた。
ふと、村の中心地から楽団の愉快な音が風に乗って遠くここまで届く。無感情にホウキを動かしていたネリネは、手をとめてポケットから自分が作った薬を取り出した。
くすんだガラス管を見ていた彼女は、キュッと眉をつり上げるとそれを力いっぱい床に叩きつけた。カシャッと軽い音がして苦労の結晶はあっけなく砕け散ってしまう。中からこぼれた液体が身廊の赤い絨毯にじわりと染みこんでいった。それが今の自分のみじめさを如実に映しているようで、ネリネは手にしたホウキで上から何度も叩く。
「こんなもの! こんなもの! こんなもの!! ――ッ!」
跳ねたガラスの破片が頬に当たり、急激な虚しさに包まれる。肩で息をする彼女はその場に立ち尽くした。
(もう、今夜にでもこの村から出ていこう。教会も辞めて、それから……それから?)
どこに行くと言うのだろう。身寄りはとうに亡くした。どこへ逃げてもヒナコの追跡と聖女落ちのレッテルは付いて回るのではないだろうか。そもそもこんな時刻に女一人で村の外に出ること自体が自殺行為だ。
(それが、なに?)
しかし、もはやそんな可能性で思い留まらせないほどには、ネリネの心はズタズタだった。
「もういや……」
持っていたホウキをカタンと落とし目元をぐしっと拭う。ギリッと奥歯を噛みしめ、今まさに一歩を踏み出そうとした――その時だった。
「宴もたけなわ。来ないのかい?」
ギィ、と後ろから正面扉がきしむ音が聞こえてくる。振り向かずとも誰だかわかるほどには聞きなれてしまった声だった。彼とも顔を合わせる事なく出ていくつもりだったのに、なぜ宴会場を抜け出してまで戻ってきたのか。こんなみじめな女放っておけば良いものを。拳を握りしめたネリネは怒りに声を震わせる。
「……行けるわけ、ないじゃないですか」
「そうだね、村人からしてみれば君は誰も救えなかった無能なシスターで、ましてや追放された元聖女候補だ。行ったところで腫れ物扱いになるのは目に見えている」
淡々とした声で煽られる。現状のみじめさを余すところなく突き付けられたネリネはさすがにカッと来た。
「バカにしに来たんですか!」
威勢よく振り向いた彼女は、ヒッと息を呑んだ。
そこにいた神父はかりそめの姿を解いていた。煉獄の塵芥をまとった赤い悪魔が、感情を読ませない深紅の瞳でこちらをじっと見据えている。
見るのはこれで二度目だがとても慣れるものではない。思わず後ずさるネリネと距離を詰めるよう、悪魔は大股で歩いてきた。
「君が作った薬は完璧だった。この村を救うのは君だったはず」
「な、なにを……」
「その手柄をあの聖女は横取りした。公衆の面前でプライドを傷つけて、君を嘘つきに仕立てあげ、こき下ろした」
いつもの穏やかさの欠片もない冷たい声だった。かと言って怒りを含んでいるわけでもない。ただ本当に淡々と事実を述べている。これまでの苦渋を全て掘り起こした悪魔はすぐ目の前まで来て立ち止まる。彼は目を細めると一言だけ問いかけてきた。
「憎くはないか?」
彼が……悪魔がこれから何を言わんとしているのか分かったような気がして、ネリネは目を見開く。
「前にも言ったが、悪魔が人に干渉するには契約が必要だ」
「けい、やく」
もはや繰り返すことしかできない憐れな子羊の前に、悪魔はスッと手を差し伸べる。物音一つしない聖堂でその声はハッキリと響いた。
「俺の手を取れ、ネリネ」
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