第2夜

 夏の暑い夜。

 前夜と同じように暑かったので、芳一は前夜と同じように縁側で琵琶を弾いていた。真夜中になり飽きてくると、前夜と同じように冷たい冷たい風が吹いてきた。

 前夜と同じようなこの世の物とは思えない、冷たい冷たい風だった。


(来た!)

 嬉々として芳一は周囲の気配を探る。

 真夜中でおどろおどろしい空気など物ともしていなかった。

(どっちから来る? お墓があるのは右の方だからそっちかなあ?)

 辺りは深い深い闇が覆っているが、目の見えない芳一にはわからない。冷たい風と共に、ピンと張りつめた異様な空気も漂っていたが、そんなことよりも芳一には大切なことがあった。

 コトコト、コトコトと小さな小さな足音が、少しずつ少しずつ近寄ってくる。


(あっちだ!)

 芳一は小さな足音がしてきた墓のある方向を向く。

 自分の前に子供の気配がやってくると、芳一は指を付いて頭を下げた。


「お待ちしておりました。お師匠さま!」

 頭を深々と下げたまま芳一は言う。お辞儀は和尚から教わって上手にできるようになっていた。

「は?」

 芳一よりも小さな5歳くらいの子供の声は、芳一に向かって怪訝そうに言った。

 意気揚々と顔を上げた芳一は、

「お師匠様、本日もご指導をお願いいたします」と、夜の闇に似合わない、明るい明るい笑顔で言った。


「明日も聴かせよとはゆうたが、おぬしの師になった覚えはない」

 素っ気ない言葉だったが、どこか嬉しそうにも聞こえた。

「今朝方帰って来た和尚さまに壇ノ浦の段を聴いていただいたところ、『びっくりするくらい上達しておる』とおっしゃいました。これもお師匠様のおかげにございます」

 芳一は一所懸命に理由と礼を言う。

「吾はおぬしの師ではない」

 子供はぴしゃりと言い放つ。そこに迷いは一切なかった。


 芳一は哀しそうにうつむいた。確かに「聴かせよ」と言われただけで師になると言われたわけではなかった。自分が勝手に「師匠」と呼んだだけである。芳一がそう呼びたかっただけだった。

 師匠になってはくれないのだ。

 芳一が泣きそうな顔でいると、コンコンと琵琶が叩かれ、

「ほれ」と子供が言う。

「何ですか?」

 しゅんとした芳一が聞くと、

「聴くのは嫌いではないから聴いてやろう」と子供が言った。

 みるみる芳一の顔が明るくなる。

「はいっ!」

 弟子入りが簡単にできるわけではない。これも修行のひとつなのだと芳一は自分に言い聞かせた。


 そして琵琶を奏でる。

 まだまだたどたどしくはあったが、練習の甲斐もあり前夜よりも上達していた。


 平家が滅んだ、哀しい壇ノ浦の段。

 平安時代の世も末の頃、それまでは平家が世界の中心だった。それが終わる日が来るなど、誰も思っていなかった。しかしそれが終わる時が来る。

 阿弥陀寺の近くの海で、小舟が行き交い、矢が放たれ、はじめは平家が有利だった。しかし風向きが変わり、源氏が盛り返す。

 平家方は漕いでも漕いでも前には進まず、それなのに敵はこちらに向かってグイグイやってくる。そして彼らは戦う気力を失った。勝利などもう自分たちのところにない。自分たちから離れていく。


 負けを悟ると、平家の人々は自ら海に身を投げる。

 ひとり海に落ちると、またひとり、またひとり。次々と海に落ちる。


 芳一はそれがどんなことだかわからなかった。

 それまでは、ただ教えられた言葉をなぞっていただけだった。

 けれど、真夜中に現れた子供の話を聞き、芳一は何かが変わったのを感じた。

 芳一にはよくわからなかったけれど、今までの『平曲』ではいけないような気がした。


 平家は他人を思いやらずに、自分たちのことだけを考えていたから滅んだ。けれどそれは本当だろうか。本当に平家だけが悪かったのだろうか。

 わからなかったけれど、芳一はもやもやとしたことを表現しようと頑張った。

 でも上手にできない。良くなっているような気はするけれど、思っていたようには弾けない。


 圧倒的な何かが足りない。

 そんなことを思いながら芳一が壇ノ浦の段を弾き終えると、

「悪くない。吾は嫌いではない」と、子供はぽつりと言った。

「本当ですか?」

 困ったように芳一は言う。


「吾のような子供に褒められても嬉しゅうないか?」

 そういう意味ではないのにと、芳一はブンブンと首を振る。

「褒めてくださっていたのですね?」

 まずそれが伝わってはいなかった。


「褒めておろうが。こんなに」

 気分を害したように言う。否定形だったが、彼なりにとても褒めていた。

「そう言っていただけて、嬉しいです」

 芳一はジワジワと喜びがわいてきて、いつの間にか笑顔になっていた。


「まだまだではあるがな。伸びしろも含めての評価じゃ」

「伸びしろですか?」

 自分がまだまだなのは芳一にもわかった。しかし、どうすればいいのかはわからない。


「吾は琵琶が弾けぬ。だからおぬしに平曲を教えることはできぬ。ゆえに師にはなれぬ」

 子供が師匠ではないと言い張っていたのはそのためだのかと芳一は思った。

 芳一はゆっくりと左右に首を振る。

「いいえ、私はたくさんのことを教わっています。琵琶以外の、何かもっと違う大切なことです」

 芳一は何か掴めそうな気はした。でも、それがわからない。


「だからあなたは私のお師匠様です」

 穏やかな笑みを浮かべ、でも口調はきっぱりとしていた。

 子供は鼻で笑うかのように揺れ


「明日、琵琶ができる者を連れてこよう。その者から習えば、おぬしの平曲はさらに磨かれることであろう」と言った。


「はいっ、よろしくお願いいたします」

 芳一は頭を下げ、元気よく言った。

「もっともっと我が喜ぶ平曲を奏でよ」

 満足そうに子供は言い、立ち去ろうとしていた。


「では早速!」と言って、芳一は壇ノ浦の段を弾いた。

 帰ろうとしていた感じだったが、芳一はまた琵琶を弾き出した。


 幼い子供は何かを言おうとしていたが、芳一が琵琶を弾いていて子供の言うことなど聞きそうもなかった。それに、とても集中している様子でその平曲を聴かずに去るのももったなかった。


 青い鬼火は座り直すかのように揺れ、芳一の平曲を聴く。

 芳一は夜明けまで平曲を奏でた。


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