第3夜

 時間ができると芳一は琵琶を弾いた。芳一にとって、源氏と平家の戦いなど遠い遠い昔のことだった。しかもその時に一番偉かった天皇など、もっともっと遠い遠い存在だった。

 芳一は阿弥陀寺の和尚に見つけられなければ、どこで何をしていたかわからない。たまたま優しい和尚に出会え、阿弥陀寺に住まわせてもらえ、不自由なく暮らせている。そうでなければ、すぐに消えてしまった命かもしれない。


 それが霊とはいえ安徳天皇から師事することになるとは。

 芳一はほわほわしていた。

 そんなことが起きているなんて。

 それが幸か不幸か、芳一にはわからない。


 霊には関わらない方が良いと言われる。それで命を落とす者の話も伝え聞く。それに、平家は無念の最期を迎え、怨みを残した霊として扱われていた。

 ふつうに幸せに暮らす人間ならば、最も関わってはいけない存在である。


「何の因果でこんなことになったのか」

 そんなつぶやきを歌いながら、芳一は琵琶を弾いていた。


 その日の真夜中。

 芳一が琵琶の練習をしていると、遠くから音がした。


 ガシャン、ガシャン

 その音に芳一はビクっとする。まるで、戦の時に使う鎧が出す音のようだった。疲れ切った武者が、重い重い鎧を着て歩いているような。

 これほどのゆっくりとした音は、よほどの猛者だったのだろう。

 この辺りには平家の落ち武者の霊が出るという怪談話があった。それを供養しているのが阿弥陀寺で、出てもおかしくはない。

 供養しているので、減ってはいた。


 芳一はしばし固まるが、また弾き出す。

(今晩はお師匠様が琵琶を弾ける人を連れてきてくれると言ってたし、少しでも多く練習しておかないと)

 鎧の音が聞こえても、それを聞いていないかのように芳一は琵琶を弾く。

「怖くない。怖くない。怖くはないぞ、怖くない」

 小さくそんな念仏を唱えながら。


 和尚さまが供養しているはずだけれど、それとこれとは微妙に違う。実際に聴こえてくると、それはそれで怖くないとは言い切れない。


「……ぅい……」

 遠くから小さな声が聞こえてきた。芳一は手を止める。しかし、手を止めると聞こえなくなったので芳一はまた琵琶を弾く。

(人の声のように聞こえるだけで、人の声ではない)

 ガシャンという音が聴こえても

(鎧のこすれる音のように聞こえるけれど、そんなわけがない)

 それでも芳一は琵琶を弾く。

「……ういぃ」

 聞いていないことにして弾く。

「ほぅぃちぃ……」

 弾いている。

「芳一……」

 とても近くで声がした。

 聞いたこともない太いおっさんの声だった。

「ひやぁぁああああ!!」

 おどろおどろしい怨霊から自分の名前を呼ばれて芳一は琵琶を抱えて悲鳴を上げた。


「驚かすやつがおるか」

 聞きなれた子供の声が、おどろおどろしい音源の後ろからした。

「ついうっかり」

 申し訳なさそうに太い声が子供に答える。

「おっ、お師匠様ですか?!」

 芳一は叫ぶ。心臓はドキドキしていた。声を出すと怖いのも減った。


「おぬしの師ではないが、そうなりそうなヤツを連れてきたぞ」

 あまり嬉しくない。

「まさか、この怨霊ですか?」

 絶望的な気持ちで芳一は聞いた。死んでからもガシャンガシャンと鎧を着て歩くような武者の琵琶が上手とは思えなかった。


「……怨霊?」

 理解できないことを言われたように間の抜けたおっさんの声。自分は怨霊ではないと思っているようだった。それならば怨霊ではないのかもしれないと芳一は自分に言い聞かせる。

 芳一にはよくわからない。


「うむ。そのまさかじゃ」

 重々しさを出しつつも意気揚々と子供の声が答えた。

(この鎧の武者が師匠?)

 思っていた師匠ではなかったので、芳一は落胆した。師と仰ぐ子供に他の師匠を勧められて嬉しくはなかったが、どうせならもっと公家っぽいのが来て欲しかった。


 しかし、雰囲気はおどろおどろしているし声もおっさんだったけれど、怨霊の琵琶の腕前は確かだった。恐ろしかったことも忘れ、芳一は琵琶を教わった。

 怨霊としか思えない気配とは打って変わって、美しい曲を奏でるおっさんだった。

 たまに怖い思いもしたが、思っていた以上に親切で、思っていた以上に良い弾き手だった。


「ありがとうございます、師範代」

 芳一が考えたおっさんの呼び名だった。

「吾は師範ではないぞ」

 すぐに子供から異論が出た。

「いえいえ、私は帝の代わりに教えているにすぎません」

 おっさんの声が照れたように答える。

「おい……」

 子供がおっさんを威嚇していた。

「申し訳ありません。このおんお子様の御お代わりというのも滅相もないことでございますが、代理で教えているにすぎません」

 めちゃめちゃかしこまっていた。

 一応、天皇の身分は隠しているつもりだったのだと芳一は思った。その意思は尊重したかった。


「では、お二人のおかげで上達した(と思われる)ボクの壇ノ浦の段をお聴きください」

 そう言って、芳一は琵琶を奏でた。

 こんなことになるまでは、恐怖しかなかった怨霊たち。でも関わってみれば、どこにでもいるふつうの人間だった。


 人間ではないかもしれない。でも、かつては人間だった。

 悪いことをして源氏に負けてしまった平家と言われていたけれど、ふつうだった。


 芳一はそれらも曲に乗せてみた。

 それは哀しいだけではない、優しく楽しい平曲となった。


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