迷宮街砦の闇堕ち防衛線⑩

「そんなで私を犯していいのは、あなたじゃないわ」



 言葉と共に吹き荒れる紅の旋風。

 ルカヌスを支点として蠕動ぜんどうする暴風が、地面をめくれ上がらせ、嵐のごとくテオドールに襲い掛かる。



「く、ぅ……!」



 強烈な存在感と共に骨身を射抜く。

 女として最上位の淫靡さを誇りながらも、そこにどうしようもない暴力性を付与されたようだった。

 目も開けていられないほどの砂塵、狂風の最中で、ふと耳元で吐息が香る。



「敵を前にして目を閉じるなんて、経験豊富なあなたらしくないわね」



 滲み出る妖艶さが殺意に変わる。爪先から脳天までを駆け巡る危険信号。



「そんなんじゃ、すぐに逝っちゃうわよ」

「……ッ」



 気配を振り払うように剣を薙ぐも、感触は何もない。

 いや、元からそこに気配があったのか、今では疑問しか残らない。

 だが、それを確認する術はない。

 テオドールは目は閉じたまま、全神経を周囲に集中させた。

 本能的にも理性的にも、この状態こそが最善だと理解していた。

 もし次、彼女の姿を目にすることがあったなら——確実にこの身は破滅する。

 男。彼女の異性という覆せない立場にある以上、溢れ出る彼女の魅力に抗うことはできないから。



「思えば、こうして立ち会うことはなかったわね。どうしてあなたは、私に剣を教えてくれと頼まなかったの? どうして強さを求めていたのに、近くにいた私ではなく、冒険者に教えを乞うたの?」

「……余裕そうだな」



 四方から響くように声が聞こえてくる。風の勢いは未だ劣らず、気を抜けば七〇キロ近いこの体が浮いてしまいそうだった。



「別に答えなくてもいいわ。大して興味はないし、瑣末さまつな疑問ってだけで答えてくれないのならそれで構わない。ただ」



 今度は、左側の耳に吐息がかかる。



「おしゃべりができるってことは、まだあなたが生きていられるってことだけど」

「———」



 声の方向へ剣を振る。これだけ全神経を集中させているというのに、こうも容易く懐に潜り込まれるなんて。

 と、冷汗が頬を撫でる。先まで漲っていた自信が、またもやくずおれてしまいそうだった。



「……おれは、きみを守れるくらいに強くなりたかった」



 瞼の裏で、彼女の面影がよみがえる。

 今は亡き、穢れを知らない生者であったあの頃のルカヌスを。



「その相手に強さを説かれるなんて、男として終わってるだろ。惚れた女に守られるばかりではなく、鍛えられるなんて恥ずかしくて死にそうだった」

「だから、冒険者になったの?」

「おれは、神ではなくきみに仕えていたかった」



 聖騎士パラディンになったは、神に仕えるためではない。

 冒険者のままでよかった。

 ただ、憧れ、愛した女の近くに居たかったから。

 きみを、守れる男になりたかったから。



「きみを愛している。今でも、それは変わらない」



 だからこそ。

 神が、他の聖騎士が、聖職者がそれをゆるさなくとも、知ったことではないから。



「どれだけよごれていようと構わない。おれが、浄化してやる。白く、白い純白の、あの頃のように」



 美しい、あの過去の彼女のように。

 だから、どうかそんな淫らに笑わないでくれ。

 目を閉じていてもわかる。

 その痛いほど覆いかぶさってくる気配から、それを感じることができる。

 彼女は今、嗤っている。



「その考え方、その幼い願い……あなた、もしかしてまだ、童貞なの?」

「———」

「処女厨ってヤツかしら。乙女並の夢物語を恥ずかし気もなく語ってるんじゃあないわよ」



 その失笑に、テオドールは重ねるように笑みを浮かべた。



「安心してくれ。おれは、諦めないしきみ以外で卒業する気はない」

「童貞はあまり好まれないわよ。それをかわいいとか思ってるのは、あなたみたいな連中の頭の中だけ」

「それでも、構わない」



 だって、好きだから。好きな女に己の全てを捧げたいと思うのは、当然のことだろ。



「それが綺麗だと、おれは思ってるから」



 曲げたくないし、とやかく言われる覚えはない。

 おれはおれの信じたことを証明するだけだから。



「さあ、いい加減お喋りはやめないか? 続きは、家に帰ってからにしよう」



 二人だけの家を、もう用意してあるから。

 きみのために建てたんだ。あの家には、おれたちの全てがある。



「そこに、一緒に帰ろう。ルカヌス」

「——気持ち悪い」



 冷たく突き放された言葉と共に、暴風が消えた。



「でも、そういうの——好きよ」

「………」

「あと少し……あなたが早く迎えに来てくれれば」



 そんな未来が、あり得たかもしれない。



「でも、遅かった」



 それが、致命傷。

 そのキャンパスに、まだ余白があればまだ、なんとかなったかもしれない。

 もう、遅い。覆そうもないほどに、遅すぎた。



「私はもう、あの人だけのものだから」



 余白なんて微塵もない。黒く、黒い極黒の御方おんかたに染め上げられてしまっているから。

 その上に、どのような色を塗ったとしても、分厚く塗られた黒が放つ存在感は鮮烈だ。

 もはや、他者が入り込む余地はない。

 そして、それを当然だと自分自身、喜んでいるから。



「だから、さよなら。あなたの血は、吸う価値もない」

「———」



 抜き放った左腕。ルカヌスの手に握られていたそれは、心臓だった。

 今し方まで、脈打っていたテオドールのそれが、握り締められる。



「……弱くなったわね」



 何が起きたのか、理解できぬまま崩れ落ちるテオドールの肢体。



「それとも、私が強くなったのかしら」



 付着した血液を拭いながら、ルカヌスは視線を後ろに向けた。

 約五キロ先で、激しい戦闘音が続いている。



「エル様……」



 胸が締め付けられる。

 あのお方が、愉しんでおられる。

 ここからでもわかるその気配に、ルカヌスは今にも泣きそうな表情を浮かべた。



「……あの人の一番は、私だから。誰にも盗られたくない」



 燃え上がる血液の沸騰に駆られるようにして、ルカヌスは地面を蹴った。

 そして、その場から一瞬にして気配が消えて。

 残されたテオドールは、わずかな意識の中で、ただただ、笑うことしかできなかった。



(最初から最後まで、子ども扱いか)



 ああ、悔しいな。

 ああ、自分が情けない。 

 無様すぎて、笑えてくる。



(もし、次があるのなら)



 おれは、今度こそ彼女を——。

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