迷宮街砦の闇堕ち防衛線⑨

 気がつくと、テオドールはその場で剣を構えていた。

 眼前に敵はいない。不死種アンデッドの気配すらこの場にはなかった。あの男は、どこにもいない。



「……ここ、は」



 周囲を見渡して、おおよその検討はついた。ついたが故に、テオドールは表情を歪める他なかった。



「まさか、あの一瞬で五キロ近くも吹っ飛ばされたのか……?」



 思い出せるのは、紅がはためく影。

 あの尋常ではない、形容することすらできない、筆舌に尽くし難い男の一声によって、何者かがテオドールを一蹴した。

 ただ、それだけのことしか認識できていない。

 反応も防御もできず、この場まで吹き飛ばされ、意識を切られた。

 B級という格を与る身として、なんたる失態か。



「くそ……!」



 唇を噛み締める。

 己の無様さに反吐が出る。

 けれど、テオドールは安堵していた。



「……っ」



 先の衝撃で折れた左腕をさすりながら、テオドールは肩を震わせた。

 ホッとしている。

 意識が弛緩している。

 胸を撫で下ろし、安らぎすら感じ始めていた。

 それは、なぜ?

 無論、あの得体の知れない男から離れることができたから。

 その事実が、テオドールの自尊心を傷つける。



「このおれが……!」



 積み上げてきた自信が、砂城のように崩れ去っていく。



「何をしてる……何を安堵してる……動けよ、おれ……!」



 膝を叩く。

 これからの行動は、分かりきっているはず。

 自分の役割、やらなくてはいけないこと等々。頭の中で組み上がっているのに、彼は迷っている。

 このまま逃げるのが最善なのではないかと、信じかけている。

 比率で言えば、逃げる方に天秤は九割方傾いている。

 聖騎士としてのプライドも、家名も、何もかもを捨てて逃げ出したい。その方がきっと楽で、安全で。

 だから、右手で握るこの剣を捨てて、——



「……ぅッ!」



 折れた左腕を地面に叩きつける。

 脳天を駆け巡る痛み。骨が皮膚を突き破り、撒かれる血液。

 叫びたくなるのを無理やり堪えて、テオドールはもう一度同じように、左腕を叩きつけた。



「———」



 一瞬の暗転。

 テオドールは、唇の端から流れる涎を拭う。



「……ふ、ぅ……」



 胸いっぱいに空気を吸い込む。

 酩酊にも似た、気持ちよさ。

 暴れていた葛藤をすべて痛みで塗りつぶす。



「思い出せ……おれは、なんだ?」



 己は、何者だ?

 何をしたくて、ここまで来たんだ?



「おれは、B級聖騎士。A級冒険者。彼女を取り戻すまで、おれは……ッ」



 目的を思い出す。

 そして、確実に積み上げてきた矜持を取り戻す。



「おれは負けない……死なない」



 鼓舞するように己に言い聞かせて。

 テオドールは、自分が転がってきた跡を逆走するように踏み出し、瞬間。



「相変わらず、あなたは変態ね」



 そう、囁く女の声に、テオドールは呆と立ち止まった。



「な……ぁ、あ」



 道を遮るようにして、彼女は立っていた。

 生暖かいそよ風が、豪奢に彩られた紅のドレスを遊ばせる。

 凄惨な血の匂い。

 湛えるあえかな笑み。

 その女には、見覚えがあった。

 否——見覚えどころの話ではない。

 何故なら、彼女こそが。



「ルカ……ヌス……——?」



 震える問いかけに、彼女——ルカヌスはお辞儀カーテシーで応える。



「久しぶりね、テオドール。いつぶりかしら?」

「……!」



 脳が溶け、血液が蒸発していくような甘い声。



「もしかして、私のことを助けにきてくれたの?」

「ぁ、ぁ……」

「そう。素直に嬉しいわ。ありがとう」



 彼女とは思えない、妖艶な視線。鼻腔に流れる蜜のような香り。

 ルカヌスの指がテオドールの頬を撫でた瞬間、頭の中が真っ白に染まった。絶頂。

 ガクガクと震える膝。

 止まらない射出と、これまで感じたことのない快感にテオドールは——



「へえ」

「っ」



 自らの左腕を、切り落とした。



「流石は聖騎士、と言うべきかしら」

「……きみは、誰だ」



 冷静さを取り戻したテオドールは、後方へ飛びすさりながら注射器を首に突き立てる。筒から体内へ流れる赤色の液体。切り離され、肘部分から噴き出ていた血液が勢いをなくし、止血を終える。

 素早い動きで応急処置を施し、剣を構え直したテオドールにルカヌスは微笑みかける。



「痛み止めを使わないあたり、その癖は治ってないようね」

「答えろ……きみは、誰だ」

「誰? 見ての通り、私はあなたの婚約者よ。元、が頭につくけれど」



 もはや芸術とさえ思えるほどの佳麗さ。気を抜けば、彼女に取り込まれてしまう……そんな感覚を痛みで誤魔化しながら、テオドールは確信していた。



「……堕ちたな」



 鑑定眼を使うまでもない。彼女は、もう人間種ヒューマンではない。



「ふふ」



 その一言に、ルカヌスは恥ずかしそうに両手を頬に添えた。

 そして、熱を吐く。



「私、好きな人ができたの」



 まるで恋する乙女のように。月並みな言葉が似合うその仕草、表情にテオドールの心臓まで高鳴った。



「こんなにも誰かを想えるなんて、こんなにも誰かのことを考えてるなんて、こんなにも誰かを——あの人を愛せるなんて。私、今とても幸せなの」



 許嫁として紹介され、はや五年。

 四つ年上の彼女は、とても強く、美しく、魅力的で。

 恋に落ちるまで、そう時間は掛からなかった。



「あの人のことを考えると胸が痛いの。あの人に見つめられると、子宮が疼くの。あの人に触られると、愛おしさでぐちょぐちょになっちゃうの」

「ルカ、ヌス……」

「あなたじゃ、こんなふうにはならなかった。でも、あの人は特別で、とても大きくて、逞しくて」

「やめて、くれ……!」



 目の前の彼女が浮かべるその淫らな表情に、テオドールは胸を締め付けられた。

 嫉妬と欲情。

 少女のような可憐さと遊女のような妖艶さが織り交ぜられたその姿に、テオドールはどうしようもなく興奮していた。


 婚約者である自分ですら、彼女にそんな顔をさせたことはない。

 婚約者である自分ですら、彼女にそんな顔を浮かばせるほど恋焦がせたことはない。

 婚約者である自分ですら、彼女にそんな顔をさせるほど身悶えさせたことはない。


 記憶の中の彼女は、秋風のように笑っていた。年下の自分を、包み込んでくれるような雰囲気が好きだった。

 けれど、久しぶりに再会した彼女は、自分ではない誰かのことを抱きながら喘ぐようにわらっている。



「だから、私は堕ちたのでしょうね。だって、こんなにも好きだから。愛してしまったから。どうしようもなく。ええ、それこそ、理性を失ってしまうほどに」



 自分の知らない顔で、自分の知らない男に乱れている婚約者。

 その姿がたまらなく魅力的で、悔しくて、でも意志とは裏腹に下半身は熱く激っていて。

 こんな気持ちは初めてだった。

 さまざまな感情がない混ぜとなっている。

 口の端を、よだれが垂れた。



「だから、もうあなたのことを愛することはできないの」

「もう、いい」

「ごめんなさい。あなたにあげる予定だった処女も、あの人に奪われちゃった」

「もう、しゃべるな」



 よだれを拭う。



「おれは、おれの務めを果たすまで」



 この身は聖騎士パラディン。神に仕え、神にあだ名す魔を滅ぼすのが我らの務め。

 故に、相手が婚約者であろうと、魔に堕ちたのなら斬るしかない。

 それをもって、救済とする。

 それをもって、魔を断ち切る。



「胸元を凝視して言う科白じゃないわね。今すぐにでも組み伏せて、欲望のままに腰を打ち付けたいって顔してる。——ふふ、あなた、本当に聖職者?」

不死種アンデッドに転んだ聖職者に言われたくは……ないな」

「ふふ、とてもイヤらしい顔」



 笑い、微笑わらって、ワラいに変わる。

 まるで至高の天使が災厄の悪魔に転がったかのような、悪意に満ち満ちた絢爛さで破顔わらう。



「そんなで私を犯していいのは、あなたじゃないわ」



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