101 自責の念再び、そして緊急報告



「私の……せいです」


 夫婦二人だけとなった執務室――そのソファーに座るアカリは、俯いたまま膝元で拳をキュッと握り締める。


「いつまでも、私が過去の件を引きずっているから……」

「アカリ……」


 妻のほうに手を伸ばしかけるベルンハルト。できればこのまま後ろから優しく抱き締めつつ、そんなことはないと声をかけてやりたい。お前はよく頑張っている、そんなに自分を責める必要なんてないのだと。

 しかし――今回ばかりは、彼も庇うようなことは言えなかった。


「……分かっていたはずだろう? きっといつか、このような時が来ると」

「うぅっ……」


 体を震わせ、静かに涙を零す妻の姿が、とても痛々しくて仕方がない。それでも彼は言わなければいけなかった。


「アカリが過去を克服しようとしていたことは、俺もよく知っている。その度に気持ちが入り乱れ、過呼吸で倒れたことも少なくはなかったな」

「はい……情けない限りです」

「そうだな。十数年が経過した今でも、それが変わっていないのなら尚更だ」


 あえて厳しい言葉をかける。ここで優しく慰めても何もならない。妻を愛しているからこそ、本当はもっと早くこうするべきだったと、ベルンハルトは心の奥底で後悔しているのだった。

 トラヴァロムの忠告が、ここにきてじんわりと胸にきた。

 妻を愛し、大切にしたいという思いが暴走していた。有体に言えば溺愛だ。それ自体を否定するつもりは毛頭ない。

 だがそれは――単なる『甘やかし』ともなってしまっていた。

 今は無理だが、いつかきっとなんとかなる。

 焦る必要なんてない。ゆっくりと心の整理を付けていけばいいのだと。


(十数年も経過させておいて、結果はこのザマだ……)


 何もアカリだけを指しているのではない。自分自身に対しての言葉でもあった。こればかりは自分にも大きな責任がある。

 今までは『仕方がない』で済ますことはできたかもしれない。しかしそれはもう、何も通用しない事態に陥っている。

 絶対的なトラウマがあるというのは、もはや言い訳にすらできないのだ。

 決して訪れることがなかったはずの『例外』という形で。


(まさかここにきて、このような事態になるとは想定もしていなかったがな)


 本来、次の聖女が誕生した際、アカリはお役御免という形で、ひっそりと舞台から降りることを考えていた。

 大神官であるトラヴァロムとも、何回も話し合いを重ねていた。

 流石に苦い顔を浮かべてこそいたが、アカリの経緯やこれまでの功績により、特例に特例を重ねる形で認められた。

 魔界の王らと対面する必要性が高いのは、あくまで『次世代』の聖女。

 引き継ぐという意味で先代も出るに越したことはないが、それでも色々と言い訳を成り立たせることは、決して難しくはないだろうと。

 このまま魔族と関わることなく、隠居生活を送る――それがアカリとベルンハルトが思い描いていた人生設計だったのだ。

 それがここにきて――呆気なく崩れてしまった。

 ヤミという例外過ぎる存在が、何もかも真正面から打ち砕いてしまったのである。


(聖女の試練……あれも『普通』ならば、あのような展開にはならなかった)


 あらゆる過程をすっ飛ばし、いきなり最終試練を突破してしまうなど、一体誰が予想できたことだろうか。

 しかも当の本人は全くそれを望んでおらず、周りの悪意に嵌められた結果だ。

 それだけでも大聖堂における不祥事に他ならないというのに、加えて試練を突破した張本人が、あらゆる意味でまっすぐ過ぎる厄介さを持つ。

 人物像だけで言えば、何も文句はない。

 むしろその逞しさと心強さに、好感すら持てる。

 自分を出すことができなかった息子と娘の背中を押し、自分なりの決断をするところまで押し上げた――そこまでさせてくれたことに対する恩も大きい。

 素晴らしい『姉』と出会えたことを、心から喜ばしく思う。

 しかし――それでもこの事態だけはどうにかできなかったのかと、どうしても思いたくて仕方がなかった。


(……それだけならまだしも、更なるアクシデントに見舞われるとはな)


 彼女がとある魔族の少年と深い関係性にある――その話自体は聞いていたし、その少年を心から大切に想っていることも、認識はしていた。

 言ってしまえば『他人事』だ。

 話に聞くだけの存在で、実際に対面することはないだろうと、軽い気持ちでいた。まさかいきなり目の前に現れるとは思わなかった。それだけならまだしも、彼女は勿論のこと、自分の子供たちでさえも全面的に、魔族の少年のほうに味方してしまっているという始末だ。

 これまでの経緯を考えれば、別におかしな話ではない。

 子供たちからすればその少年は『恩人』なのだ。むしろ当然とすら言えるだろう。

 だがそれでも、複雑な気持ちは否めない。

 実の母よりも彼を選ぶのかと――そんなことすら考えてしまった『自分』に対し、恐ろしく苛立ちを覚えてしまっていた。


(そして今に至る、か……全くここまで急展開なことになるとは……)


 ある意味こうして考えているのも、現実逃避の一種なのだろう。それでも少しは気持ちを落ち着けられる。焦っては何も生み出せない。

 これはもう自分一人の問題だけではない。目の前にいる妻も関わりがあるのだ。


「私……ほんの一瞬だけ、思ってしまったんです」


 するとその妻が、ここでポツリと呟き出した。


「あの子が……あの子さえ現れなければ、こんな思いをせずに済んだのに、って」

「――なんてことを言うんだ!」


 ベルンハルトは声を荒げながら、勢いよくソファーから立ち上がる。流石に黙っていることはできなかった。


「今のは耳を疑ったぞ……そんなことを言えば、これまでのアカリの気持ちが、全て否定されてしまうことになる! もはや聖女とか以前に、一人の『母親』として失格にもなるんだぞ!」

「そんなこと分かってます!」

「っ……アカリ」


 解き放たれた叫びに、ベルンハルトは体から熱が抜けていくのを感じる。

 ここでようやく気付いたのだ。アカリが再び体を震わせ、目から大粒の涙を零していることに。


「あれほど……後悔してきたのに。もう二度と繰り返さないと……胸に誓ったはずなのに……あの子に対して、う……疎ましく思って……」

「アカリ! もう何も――」

「どうしてこんなことに……あれだけ反省したのに、どうして私はこんな悲しくて苦しい目にあわなければいけないのって……そう思ってしまったんです! 本当に最低ですよね! こんな身勝手でワガママな母親なんて……うっ、うあああぁぁっ!」


 両手で顔を覆い、泣き崩れてしまう妻を見て、ベルンハルトもまた情けない気持ちが襲い掛かる。

 また、ここで言おうとしてしまった。

 もう何も考えなくていいと、庇う発言をしようとしてしまった。そんなことをしても意味がないと、考えていたばかりだというのに。


「私、怖いんです……」


 顔を隠したまま、アカリがくぐもった声を出す。


「また何か……ものすごく大きなものを失いそうで、私……うっうっうっ……」


 そんな愛する妻の泣き声に、ベルンハルトは何も言うことはできなかった。嗚咽だけが室内に響き、それが二人の心を余計に落ち込ませる。

 すると――


「旦那様! よろしいでしょうか!?」


 執事の慌てた声が聞こえてきた。相当焦っているのか、ノックをして答える前に、彼のほうから扉を開けてしまう。

 そしてベルンハルトの呆然とした表情を見た瞬間、彼も我に返り、頭を下げる。


「――あ、申し訳ございません」

「いや、構わん。それより、そんなに慌ててどうしたんだ?」

「は、はいっ! 実は――」


 強引に息を整え、執事は顔を上げて報告する。


「シスターのアマンダが脱獄し、行方をくらませてしまったとのことです!」


 その瞬間、二人の夫婦の間を流れる時間が、再び止まったような気がした――


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