第三章 ヤミとヒカリと小さな黒竜
082 厨房、戦場、食欲無双
その日、大聖堂は『戦場』と化していた――
主にその場所は厨房。数々の料理が製造されるそこでは、特別な日を迎えたことによる気合いが込められていた。
何時間もかけて仕込み、大聖堂に勤める貴族、そして大神官を中心に食してもらうための料理――『味と質と見た目』を重視するそれを担当するシェフは、まさに大聖堂に勤める料理人の中でも特に選ばれし者として象徴される。
栄誉ある務めを果たしたということで、世界的にも名を馳せることができるのだ。
これまでの長い大聖堂の歴史上、それが変わることはなかった。
十四年前、アカリが聖女に選ばれた時もそうだった。
その時に担当したシェフは、今もなお世界で名を馳せる料理人として、若手たちからも尊敬を集めている。
いつかは自分も――そんな思いを胸に、彼らは大聖堂の門を叩いた。
そして辛い修業を乗り越え、今日という日を迎えた。人生における最高の日になることは間違いない。
その――はずだったのだ。
「追加のオーダー入りましたっ!」
若手の男性料理人の声が響き渡る。非常に切羽詰まっており、厨房の空気は一瞬にして張りつめられる。
「メインをあと三十人前! 主食のパンも全然足りてないそうです!」
「バカな!? 今さっき追加の十人前を運ばせたんだぞ!」
シェフを務める男、ランディーは驚きに満ちた声を張り上げる。
「もしかして落としたとかじゃないだろうな?」
「それならまだ言い訳できましたよ。運んだ矢先に、片っ端から『彼女』の胃袋の中に消えていったんです!」
「ぐぅ……化け物じみた胃袋と食欲を誇ると聞いてはいたが……」
ランディーがギリッと歯を噛み締める。どうしてこんなことになったのかと、改めて大きな声で叫びたかった。
しかし、今はそれすらも許されない。
現にオーダーを伝えに来た彼からの言葉も、それを立派に証明していた。
「こうしている間にも、向こうのテーブルは全てまた空っぽになります! もうこうなったら質なんて気にしないようが――」
「バカヤロウ! 今回の『食事会』は輪をかけて特別なんだぞ! 兵士たちの腹を満たすだけの目的とはワケが違うってんだよ!」
「むしろ下手な兵士よりも、彼女のほうがよっぽど強敵ですってば!」
「……確かにそうだな」
ランディーの心は別の意味で挫けそうだった。三十歳という若さにして、大聖堂の料理人の頂点に君臨した彼にとって、今日という日は若手の頃からずっと目指してきた登竜門なのだ。少しでも手を抜けば大きなしっぺ返しが来る。一秒たりとも気を緩める暇などないという覚悟を、彼は胸の奥に抱いていた。
しかしそれも――すぐさま粉々に打ち砕かれた。
何時間もかけて仕込んだ煌びやかな料理は、もの数分――ともすれば数十秒ほどで消え去ってしまった。
味わうとか雰囲気を楽しむとか、そんな概念は微塵にも存在しない。
ただひたすらエネルギーを摂取する。周りがどんな目をしていようが全く気にすることなく、己のペースを最優先事項としているという情報は、ランディーの思い描いていた光景を打ち砕くには、十分過ぎるものだった。
「ランディーシェフ! 第一食糧庫の中身が、既に尽きようとしています!」
「――第二食糧庫を開けろ。もうなりふり構ってられん」
「了解です!」
別の若手料理人の補佐が敬礼し、すぐさま走り去ってゆく。そしてランディーは、再び最初にオーダーを伝えに来た彼に視線を向ける。
「お前は調理の補佐に回れ! 余裕はいくらでも足りないぞ!」
「はい!」
彼が動き出したのを一瞥し、今度は近づいてきた別の男に視線を向ける。
「ローファン。お前は大神官様に食糧庫の件を報告! ついでに様子の確認もな」
「了解!」
副料理長を務めるローファンもまた、指示を受けてすぐに飛び出していく。同期でライバルで一番頼れる右腕――それを今は噛み締めている暇すらない。
「くそっ……流石に予想外が過ぎるぞ。それも色々な意味で!」
目論見が外れた――そんな言葉すら生易しく思えてくる。もはや勝ち筋どころか、その先に何が待っているのかすら全く見えない。
一種のお先真っ暗な気持ちとともに、ランディーは深いため息をついた。
「あれがアカリ様の娘で、しかも聖女の試練を突破したなんて、信じられんぞ」
その悪態も、彼なりの現実逃避に過ぎない。更なるオーダーを求め、飛び込んでくる声に叫びを発するまで、あと数分のことであった。
◇ ◇ ◇
大聖堂の本堂における大広間――本来は煌びやかな空間であるはずが、その空気はどこまでも凄まじい戸惑いと困惑に満ちていた。
大神官トラヴァロムを始め、聖女アカリやその夫である騎士団長のベルンハルト。双子のラスターとレイ、そしてその他の貴族たちも集結しており、明らかに普通の場でないことは明らかである。
そんな中、とある一人だけは全く気にも留めないまま、夢中で食事をしていた。
――バクバク、ボリボリ、ガツガツ、モグモグ、ムシャムシャ!
止まらない咀嚼音。ひたすら積み重ねられていく空の皿と器。そして止めどなく追加される料理。そしてそれは片っ端から手に取られ、まるで吸い込まれるように口の中へと運ばれてゆく。
そしてその張本人である『少女』は――
「ん~♪ んん、んんんぅ~、ん~んぅ、んん~♪」
心の底から幸せそうな表情を浮かべていたのだった。
それはさながら、これ以上一体何を求める必要があるのだ、と言わんばかりの満面の笑みであり、周りの見ている者たちにも影響を及ぼすこと請け合いだ。
ただしそれは決してプラスとは限らない。
何事にも例外というものはある。
この場においては実に『色々な意味で』という名の例外が込められていた――
「ね、ねぇ、ラスター?」
レイが双子の兄に小声で話しかける。
「お姉ちゃんの勢い、いつにも増してすごくない?」
「うん……だって一週間ぶりのご飯だもん。むしろ予想どおりだよ」
「だよねぇ」
双子たちは引きつった表情で、改めてチラリと姉のほうを見る。
一週間飲まず食わずだったにもかかわらず、体や顔が異常なまでに痩せ細るようなことはなかった。詳しい理屈こそ判明してはいないが、聖なる魔力がエネルギーの生成と循環の役割も担っているらしい。
それ自体は『聖女の試練』という知識として、大聖堂に広まってはいる。ラスターやレイという、八歳の子供でも普通に習っているほどだ。
しかしここで新たに判明した事実もある。
それは――
「お姉ちゃんがご飯食べなさ過ぎて、倒れることもなかったのは良かったけど……」
「うん。数時間の爆睡だけで、ここまでの勢いを取り戻してるもんね」
「でもでも、お母さまはちゃんと回復するまでに、何日もかかったって聞いたよ?」
「それだけ姉さんの体力が凄過ぎるってことでしょ」
「……やっぱりそれしかないよね」
「くきゅ?」
膝元に抱きかかえているシルバが、純粋な表情で見上げてくる。レイは思わず視線を下ろしながら頭を撫で、隣に座るラスターも手を伸ばしてその背中を撫でた。
シルバの愛くるしさがなければ、ここまで冷静でいられたかどうか。
この食事会に小さな竜を連れ込むのは、特例中の特例だ。
当初は屋敷で留守番させて置く予定だったのだが、ヤミや双子たちから離れたがらない事態に陥り、トラヴァロムとの相談の結果、連れてきたのだった。色々な意味でという言葉は付くが、結果的には大正解だったと言えるだろう。
古竜という正体こそ伏せてはいるが、子供の竜というだけで相当珍しく、主役を喰うほどの事態となっていたとしても不思議ではない。
しかし現在、シルバに対してそのような目を向ける者はいない。ヤミの圧倒的凄まじさが、色々と吹き飛ばしてしまったのだ。
そしてそれは、彼女に近しい人間も、決して例外ではなかった。
「……あの子、いつまで食べ続けるつもりなのかしら?」
彼女の真正面に座るアカリは、未だ食べる手を止めようとしない実の娘に対して、恐怖に近い戸惑いとともに唖然としていた。
「やっぱり今からでも、あの子に注意をしたほうが……」
「いや、そんなことをしたところで、もはや意味なんて成さないだろう」
アカリの隣に座るベルンハルトもまた、困り果てた表情を浮かべつつも、手も足も出ないという観念を胸に、重々しい口調で話す。
「こんなにも凄まじい空気を醸し出しているにもかかわらず、まるで何事もないかのように振舞っているんだ。アカリがここであれこれ言ったとしても、流されて終わる未来しか見えないな」
「それは……」
何かを言い返そうとしたが、言葉が全く出てこない。結局ただアカリは、押し黙ることしかできなかった。
不甲斐なさで胸が張り裂けそうになる。
そんな落ち込むアカリの背中を、ベルンハルトはこっそりと優しく手を添えることしかできず、彼もまた情けないと言わんばかりに表情を歪ませていた。
一方、そんな中トラヴァロムは――
(さて……これから一体全体、どうしたものか……)
目の前でひたすら食べ続ける白髪の少女――ヤミに視線を向けながら、ひっそりとため息をつくのだった。
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