066 鳴り止まぬレクイエム(後編)



 ――私が身勝手だったのよ。あの子を置いて、一人で幸せになろうとしたから。


 生まれたばかりの我が子を失った――その事実が大きな重しとなって、どこまでものしかかってくる。

 このまま押し潰されたほうが楽になれるのかもしれない。

 だがそれは絶対に許されない。

 故にアカリは泣き続ける。自室に閉じこもり、ベッドの中で荒れるように伸びた髪の毛を両手で抱え、カサカサに枯れた唇を動かし続ける。

 食事も、そして水分さえも、碌に摂ろうとせずに。


(手遅れになっていないこと自体が、奇跡だったとすら言えた……それくらいあの時のアカリは限界を超えていた)


 ギリギリのところで、精神は完全に崩壊されていなかった。

 彼女自らが留まっていたようであり、流石は聖女だと褒める声もあったが、実際は違うものだとベルンハルトはすぐに分かった。


(それでもアカリは……これ以上『失う』ことを恐れた)


 ここで自分が壊れてしまえば、本当に何もかも失ってしまう。遠い世界で生きているはずの見捨ててきた娘に申し訳が立たない。ただでさえ失格な姿を、これ以上みじめにするわけにはいかないという、そんな気持ちに駆られていた。

 傍から見れば、何を今更と笑い飛ばすことだろう。

 それはベルンハルトも認識はしていた。

 しかし見捨てることもできない。そんな彼女を心から愛している――もう一度あの美しくも輝かしい笑顔を、自分に向けてほしかったのだ。


(そこからアカリが復活したのも、ある種の奇跡だったと言えるだろうな)


 とてもじゃないが、聖女の仕事を務めることはできない。かといって、誰かに変わりを務めるという選択肢もとれなかった。

 アカリと同等に聖なる魔力を覚醒させている者は、残念ながらいなかったのだ。

 無期限の長期療養扱いとなり、アカリの立場はひとまず保たれた。しかし、生気を失った目は、わずかに戻る兆しすら見られなかった。

 それでもベルンハルトは、決して諦めようとはしなかった。

 アカリの過去を――彼女の所業を全て受け入れた上で結婚したのだ。妻を愛する気持ちは変わることもなく、なんとしてでも元に戻してやると気合いを入れた。

 しかしアカリは変わらなかった。

 自責の念に囚われ続ける毎日を過ごしていた。

 なんとか栄養を摂らせ、早まらせないよう慎重に話しかけたりして、命を繋ぎ止めるのが精いっぱいだった。

 諦めたくはないが先も全く見えない――そんな靄に包まれたような日々が、長いこと続いていった。


(それから二年が経過した頃か。アカリが自ら部屋から出てきたのは)


 ベルンハルトだけでなく、家の使用人たちは勿論、報告を聞いたトラヴァロムでさえ目を見開いた。

 それくらいアカリの回復は絶望的だと、誰もが思っていた。

 遂に精神が壊れたのではないか――そう危惧しながらも慎重に話しかけてみると、アカリは間違いなく正常そのものであった。

 そして、彼女は言ったのだ。


 ――小さな女の子に、こっ酷く叱られた夢を見たんです。


 いつまでも塞ぎ込んでるんじゃない、それでも大聖堂に選ばれた聖女なのか――そう言われたのだという。

 もしかしたら、天国にいるルーチェが見かねたのかもしれない、と。

 アカリは聖女に復帰した。

 流石に長期療養のブランクはとても大きく、しばらくの間はてんてこ舞いとなっていたが、少しずつ周りからも改めて認められるようになった。

 ようやく聖女としても落ち着くようになってきた。

 少し時間はかかってしまったが、アカリは新たにラスターとレイという、元気な双子を出産することにも成功する。

 特に女の子のレイは、聖なる魔力の素質に恵まれていた。

 これならば次期聖女としても期待が持てる――周りからも大いに称賛された。

 ようやく光が差し込んだ気がした。ベルンハルトとアカリは手を取り合い、心から喜びの笑顔を浮かべていた。


(俺たちはやっと、新しい家族との幸せを手に入れた。ここからが明るい人生の始まりなのだと……心からそう思っていた)


 しかしそれは、一時的な夢でしかなかったのかもしれない。八年後となった現在、彼らは再び大きな『壁』に直面することとなっていた。



 ◇ ◇ ◇



「――私は結局、自分にとって都合のいい方向に考えていただけでした」


 溢れ出る涙を拭うこともせずに、アカリは震えた声を出す。


「地球に残してきた、あの子に対しても……」

「ヤミ君か?」

「えぇ」


 アカリは小さく頷きながら、当時の幼い娘と元夫の姿を思い出す。


「私がいなくなれば、暴力をふるい続けていたあの人もきっと、幼い娘を見て改心してくれる。そしてまた親子二人で、仲良く暮らし始める――そんなふうに、私は期待してしまっていたんです」

「アカリ……」

「あり得ないですよね! そんなの……都合が良すぎる妄想にも程があるわ!」


 再び両手で顔を覆いながら、アカリは泣き崩れる。ベルンハルトはただ、愛する妻の背中を支え、様子を見ることしかできない。


「そして今日、改めて思い知らされました。私は今も、昔とちっとも変わってなんかないことに」


 何かに耐えるように、アカリは膝の上で拳をギュッと握り締める。


「聖なる魔力を持つ人が現れた――その信託が出た時のことを覚えてますか?」

「あぁ」

「その時、私はとても嬉しく思いました。これで聖女を卒業できるんだって」


 それを聞いたベルンハルトは、軽く目を見開いた。アカリは俯いたまま、歯を食いしばりつつ話を続ける。


「聖女を卒業できれば、家族との時間を増やせる。特にベルンハルト……あなたとの時間を、もっとたくさん作りたいと思った。私たち二人だけの世界旅行とか、ずっとできなかったことをしてみたいと」

「アカリ……そう考えてくれていたことは、俺としても凄く……」

「でもそこに、あの子たち……ラスターとレイのことは、全く入ってなかった」


 アカリの目から、再び涙が溢れ出る。


「まだ幼いあの子たちのことを、考えているようで考えてなかった。ちゃんとしているから大丈夫とか、使用人がいるから心配ないとか……そう思い込んで、母親である自分を考えないようにしてた!」


 それも、今回の事件によって気づかされた。

 家に帰れば必ずいる二人が、夜遅くなっても必ず『おかえりなさい』と出迎えてくる可愛い双子たちが、揃って姿を消している事実によって。

 いなくなって思い知らされたのだ。

 自分はまたしても浅はかな考えを抱き、それを子供たちに押し付けていたことに。子供たちの気持ちを考えず、自分の気持ちだけを考えていたことに。


「私に……聖女なんて名乗る資格なんてありません。まともな母親すら、務められていないんですから」

「アカリ、もうそれ以上は……」

「それにあの子だって!」


 涙を浮かべた目を見開き、アカリはベルンハルトを見上げる。


「私が考えて付けた名前を捨てて、それを魔族の子にあげちゃっていた。私が残してきたあの子は、もうどこにもいなかった! こんなことなら、いっそ――」

「アカリ!」


 流石に見過ごせなかった。ベルンハルトは妻の両肩に手を乗せ、強めの口調で名前を呼ぶ。

 ここでようやくアカリは黙った。

 茫然とした表情の妻に、ベルンハルトは真剣な表情を向ける。


「……お前はまた、同じ過ちを繰り返そうとしているぞ」

「えっ?」

「そうやって目を背けて、今のあの子たちに対して見ぬふりをするつもりか? それこそ母親として、失格もいいところじゃないのか?」

「――っ!」


 ベルンハルトの言葉に、アカリは背筋を震わせる。彼も知れを感じ取り、厳しい表情を少しだけ綻ばせる。


「アカリが少しでも親子としての時間を取り戻したいのなら、今のあの子たちを受け入れろ。まずはそこからだ」

「ベルンハルト……そう、ですね。確かにそのとおりです」


 ここでアカリはようやく涙を拭い、そして決意を固めたかのように、しっかりとした笑みを見せる。


「あの子もしばらくこの家にいることですし、時間を作ってあの子と話してみます」

「その意気だ。応援するぞ、アカリ!」


 そして二人は笑い合う。ほんのわずかではあるが、気持ちの整理がついた瞬間でもあった。

 その翌日、更なる衝撃が舞い込んでくることを知らないまま――


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る