061 全ては、その日を生きるために
「あたしが目覚めたそこは、みんなが『裏舞台』って呼んでいた」
裏舞台――当たり前のように差し込む光が、決して届くことのない闇の世界。
無論、これは比喩だ。
朝が来れば太陽は昇り、夕方になればオレンジ色の空が見える。それを時間として認識し、一日の終わりと始まりを、そこで暮らす人々は認識している。
しかしそこに『希望』の二文字は存在しない。
明るい笑い声も、楽しそうな笑顔も、何もかもが偽りのもの。果たしてそこで生きている者を『ヒト』と呼べるのか――それを考える意味すらない場所の中で、幼少期の彼女は目覚めた。
記憶も、そして自分の名前すらも、何もかも失った状態で。
「そこであたしは『ヤミ』という名前で、先生と一緒に暮らし始めた。あの凄まじい環境は、どんなに忘れたくても忘れられないよ」
「そんなに貧乏な暮らしだったの?」
コテンと首をかしげてくるレイに対し、ヤミは目を細くしながら苦笑する。
「貧乏ってだけなら……どれほど良かっただろうね」
そこでは『人として』という言葉すらも、綺麗事として片づけられてしまう。
皆、毎日を必死で生きていた。
協力なんて幻想。いかに相手を出し抜けるかどうかが、勝負の分け目。そこで命を落としたら、所詮はそれまでの存在。そこに子供も大人も関係ない。
ヤミも例外ではなかった。
先生や大人たちから、窃盗や戦闘の方法を盗み見て勉強し、それを自分なりに鍛えながら身に付け、毎日の糧とした。
「全ては、その日を生き抜くためだった……」
「くきゅー?」
膝の上に移動してきたシルバの頭を、ヤミは優しく撫でる。
「夢や希望なんてありはしない。腐ってないパンやリンゴ一個を手に入れるだけで、まさに命がけの大勝負。ほぼ真っ黒な泥水も、当たり前のようにすすったよ。食べるために誰かの寝込みを襲うなんてことも、一度や二度じゃなかった」
目を閉じれば、今でもはっきりと思い出せてしまう。まさにいつどこで、何が起きたとしても不思議ではないその場所に対し、何故か嫌悪感や恐怖の類を抱かず、むしろ謎の温かさすら感じるほどだった。
「もちろん襲われるのは、あたしも同じだった。明日の朝、ちゃんと目が覚めれば、それだけで儲けものって感じさ」
「……そんな酷い環境で、お姉ちゃんは生きてきたんだ?」
「うん。三年くらいね」
ヤミがしれっと答えた瞬間、ラスターとレイは目を見開いた。
「三年も!?」
「まだ五歳から八歳くらいでしょ!? よく死ななかったね、お姉ちゃん」
「そーだね。あたしもそう思う」
驚きの声を上げるラスターとレイ。しかしヤミの声と表情は、どこまでも心の底から明るいものだった。
「ま、それも過ぎた話だけどね。今となっては、懐かしい思い出ってもんだよ」
強がっている様子もない。本当の気持ちを素直に言い表しているのだと分かり、双子たちも改めて唖然としてしまう。
ベルンハルトも目を見開いたまま、言葉が出なかった。
それ相応の修羅場を潜り抜けてきたのだろうとは、なんとなく思っていた。騎士団長として戦いに身を置いてきた経験値が、自然とそれを感じさせたのだ。
だが話を聞いてみれば、予想を遥かに超えていた。
辛い記憶も楽しく語れる『思い出』と化す――簡単なことではないはずなのに。
そして――
「私の……私のせいだわ」
アカリは震え、目から涙を零していた。
「わ、私があなたを置いて行ったばかりに、そんな……そんな悲惨な生活を……」
「いやいや、だからそんな気にすることじゃないんだってば」
「でも!」
「とっくに過ぎた話だっつってんの。とりあえず、話の続きを始めるよ?」
サラリと語り出すヤミ。泣き崩れている実母のことなど、気にも留めていない。
「あたしが裏舞台にいたのは三年……ちょうど今から十年前に、ちょっとした事件が起きてね。その時に先生を失い、あたしはこの世界に飛ばされてきた」
果たしてそれが、どのような理屈でそうなったのかは、未だに分からない。
しかし事実、地球からこの異世界に来た。ヤミからすればそれが全てであり、もはや理屈も何も関係なかった。
「ちなみにその時、あたしはちょいと大怪我しちゃっててね。まぁ、簡単に言えば、またしても死にかけちゃったんだわ」
たははと笑って誤魔化すヤミであったが、周りは揃って唖然としていた。それを気にも留めることなく、彼女はそのまま話を続ける。
「で、そこにたまたま通りかかったのが『じいちゃん』だった。じいちゃんが助けてくれなければ、あたしは間違いなく、そこで終わってた」
「それじゃあ……」
アカリが震える唇から、言葉を絞り出す。
「あなたの黒い髪の毛が真っ白になってしまったのは……」
「その時だね。使った回復魔法が、メチャクチャ強力だったみたいでさ」
「影響は避けられなかったということか」
重々しく言うベルンハルトに、ヤミも肩をすくめながら苦笑する。そして何かを思い出したような反応を示し、シャツの裾をめくり出す。
「あ、ちなみにこれが、その時に付いた傷痕ね」
「「――っ!?」」
腹部から胸の下までが披露された瞬間、場の空気に凄まじい衝撃が走った。
ベルンハルトは盛大に目を見開きながら絶句し、アカリは両手で口元を隠すように添えつつ、小刻みに体を震わせている。
双子たちも痛々しそうに視線を逸らした。
初見でこそないが、ヤミの体に刻み込まれている無数の傷痕は、やはりどうしても顔をしかめてしまうものだった。肝心のヤミが、どこまでもあっけらかんとした笑顔なのも、色々な意味でそうさせてしまうと言えなくもない。
「まぁ、じいちゃん曰く、この程度で済んで良かったってことらしいけど」
シャツの裾を戻したヤミは、何事もなかったかのように話を再開する。
「それからあたしは、じいちゃんと一緒に暮らし始めたんだ」
人里離れた土地で自給自足の生活は、決して楽ではなかったし、不便も多かった。それでも裏舞台の暮らしとは、天と地の差があると言えた。
そこには未来があった。
新しい発見をし、習ったことを実践し、そして失敗して再挑戦することを、ひたすら繰り返す――そんな毎日は、とても輝かしいものであった。太陽がこんなにも眩しいものだったのかと、そこで初めて知ったほどだ。
「師匠でもあり、恩人でもあるじいちゃんから、サバイバル技術を教わった。厳しい自然の中でも生きていけるように、そりゃーもうシゴかれたもんさ」
狩り、釣り、獲物の捌き方、火起こし、水の確保、即席の雨よけの作り方。
一年もたたぬうちに、ヤミはこれらをマスターしていた。やってみたら面白かったこともあり、夢中で取り組んだ結果であった。
それと並行して、戦う技術も学んだ。
裏舞台で習ったものとは違う。ただ倒すだけじゃなく、いかに獲物を傷つけず、綺麗に仕留められるかどうか――幾多の失敗を重ねていきながらも、徹底的にその身に叩き込んでいった。
「じいちゃんの修業は厳しくてね。かなりキツい時も多かったけど、その分楽しさもたくさんあったよ」
「じゃあ、今のお姉ちゃんの強さがあるのも、その時の経験があったからなんだ?」
「――かもね」
レイの問いかけにヤミは頷く。そして懐かしむように、笑みを零した。
「浜辺に流れ着いた魔族の男の子を見つけたのも、ちょうどサバイバル特訓で、じいちゃんと遠出してた時だったっけか……」
「兄さんのことだね?」
「そゆこと♪」
ラスターの言葉にヤミはにっこりと頷く。アカリが呆然としながら何かを問いかけようとしていることに気づかず、ヤミはあることに気づいた。
「そーいや、あたしのホントの名前も、確か『光里』っていうんだっけ」
「うん。お母さまが、確かにそう言ってたよね」
「ってことは……」
ヤミは空を仰ぐ。魔界で留守番をしているかけがえのない弟分の顔を、その脳裏にしっかりと思い浮かべながら、無意識に近い口調で呟いた。
「あたしがあの子につけた名前が、まさかの自分の名前だったってことかぁ」
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