060 明かされる知らない記憶(後編)
「あたしを置いて……逃げた?」
流石のヤミも、こればかりは驚かずにはいられなかった。茫然としながら出された声は低く、その見開かれた目は一直線に、目の前に座る実母に向けられる。
それを受けたアカリは、ビクッと身を震わせた。
「ご、ごめんなさい!」
ショックとともに怒りに触れたと思ったのだろう。アカリは涙ながらに叫びつつ、テーブルに頭をこすりつける。
「本当に、あの時の私はどうかしていたわ! もう少し……もう少し考える力が残っていたのなら、絶対あなたを置き去りになんて……」
「アカリ!」
流石に見かねたらしく、ベルンハルトがアカリの肩を掴み、下げたままの顔を無理やり上げさせた。
少しだけ赤くなった額に痛々しさを覚えつつ、彼は優しく声をかける。
「少し落ち着きなさい。彼女はただ驚いているだけだ」
「そ、そうだよ! ねぇ、お姉ちゃん! 怒ってるわけじゃないよね?」
「えっ? あ、うん、まぁ……」
必死に呼びかけてくるレイに、ヤミは反射的に頷く。いきなり話を振られ、別の意味で驚いており、先ほどの衝撃はどこかへ吹き飛んでしまった。
もっとも、ヤミ自身怒っていないのは本当であり、特に訂正の必要もないため、このまま成り行きに任せることにする。そしてアカリもまた、ベルンハルトに宥められたおかげで、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「――ごめんなさい、取り乱してしまって」
「いや、それは別にいいけど……で、それからどうなったの?」
ヤミは苦笑しつつ、話の続きを促す。個人としては先の展開が気になっており、このまま話が進まないのだけは勘弁願いたかった。
ちなみにそれは双子たちも同じくであり、真剣な表情でうんうんと頷いている。
そんな三人の様子を見て、アカリは冷めかかった茶を飲み干す。
「繰り返す形になってしまうけど……あの時の私は、本当にどうかしていたわ」
そもそもアカリは、逃げ出した瞬間を全く覚えていない。気が付いたらとある公園のベンチに、一人で座っていたのだ。
そこはとても静かな時間が流れていた。
まるで別世界に来たような感覚に陥り、これは夢なのではとさえ思った。
しかしそれは、すぐに現実であることに気づく。子供が遊んでいたボールが、彼女の足元に転がってきて、それを拾って渡してあげたのだ。
その感触はとてもしっかりしており、夢ではなさそうだと実感した。
「自分がどこにいるのか自体は、すぐに分かったわ。前にあなたを連れて遊びに来た場所だったからね」
しかしその場所は、普段から訪れている場所でもなかった。たまたま娘を連れて、普段行かないような場所を散策していて見つけた――いわば母娘二人だけの、隠れ家のような公園だったのである。
ゆったりとした、楽しい記憶が蘇った。そして理解してしまった。
自分は幼い我が子を置いて、一人で逃げ出してきたのだと。
「私は戻ろうとした。けれど足がすくんで動けなかった……怖かったの」
アカリは体を震わせ、目に涙を浮かべる。
「もしこのままあの家に戻れば、きっとあの人が怒鳴り散らしてくる。勝手にいなくなったことを責めて、容赦なく手を出してくる! ホント最低の母親よね。娘が酷い目にあわされていることは、分かっていたはずなのに……」
夫の暴力には耐えられない――けれど娘を放っておきたくもない。
そんな気持ちが板挟みとなって、アカリを苦しめた。
どうして自分がこんな目にあわなければいけないのか、そもそも結婚して子を産んだことが間違いだったのではないのかと――そんなことすら考えてしまい、更に自身を苦悩させる。
「もう何も考えられなくなった、その時だったわ……急に不思議な光が現れて、私を包み込んだ」
明らかに自然の光ではなかった。街路灯のように上から照らすのではなく、地面から眩い光が放たれており、それはやがてアカリを包み込んでいった。
「もしかして、それ……」
「えぇ。気が付いたらこの異世界に……大聖堂に来ていたわ」
目を見開くヤミに、アカリは重々しく答える。
「大神官様やベルンハルトが、私を助けてくれた。事情を話して、ここが地球とは違う世界だと知って、もう戻ることはできないと言われて――私は喜んだ」
その瞬間、ヤミの眉間がピクッと動いた。
「……喜んだ?」
「えぇ。確かに私は喜んだ。本当に愚かだったと、今でも後悔しているわ」
アカリは迷いなく『私をここに置いてください』と頼み込んだ。急に知らない世界へ降り立ち、絶望するかと思っていたため、ベルンハルトもトラヴァロムも、その時ばかりは大いに驚いていた。
それも全ては、アカリの身勝手な考えによるものだった。
もう娘に会えないことよりも、地獄から逃げきれたという嬉しさを、彼女は自らの意思で選んでしまった。
その後、十五年もの間、罪の意識で悩む羽目になることを知る由もなく――
「そして私は聖女となり、新しい夫や子供たちにも恵まれた。けれど私は、地球に残してきたあなたを……あなたを忘れたことは、一度もなかったわ……うぅっ!」
「アカリ……」
最後のほうは肩を震わせ、完全なる嗚咽となっていたアカリの肩に、ベルンハルトが優しく手を添える。
双子たちも悲痛そうな表情を浮かべていたが――
「なるほどねぇ」
ヤミだけが冷静さを崩すことなく、腕を組みながら頷いていた。
「いや、正直ちょっとおかしいとは思ってたんだよね。幼い娘を気にしてるっていうのは聞いてたけど、前の旦那さんについては、何も出てこなかったからさ」
地球に娘がいるということは、地球に『夫』という存在もいたはずである。仮に何かしらの事情で既に存在していなかったとしても、話題に全く出てこないというのは流石に考えにくい。
しかし今、その疑問も解消された。
前の夫を一秒でも早く忘れたいと思い、新しい夫と結ばれることを厭わないのも、むしろ頷ける話だろう。
胸のつかえが取れたかのように、ヤミは心の中でスッキリとしていた。
「あたしが死にかけて記憶を失ったのも、その虐待が影響してたのかもしれないね。むしろそのほうが納得だわ」
「――っ! ご、ごめんなさい!」
淡々と話すヤミに、アカリが慌てて涙ながらに謝罪する。
「本当に……あなたには本当に、謝っても謝りきれないことをしたと……」
「あぁ、それは別にいいよ」
ヤミがサラリと言い放つ。感情があるようでないようにも聞こえるその声に、思わずアカリだけでなく、ベルンハルトや双子たちも、軽く目を見開きながらヤミに注目するほどだった。
当の本人は、どこまでも平然と笑っていた。
誰もが日常的にするような、なんてことない表情をヤミは浮かべていた。
「なんてゆーか……あたしはあたしで、そりゃー色々とあったもんだからねぇ」
しかしその表情も、どこかくすぐったそうな苦笑に切り替わる。そんな姉を、レイは困惑しながら見上げていた。
「……お姉ちゃん、何があったの?」
「そういえばそこらへんは、まだチビッ子たちにも話してなかったっけ」
割と包み隠さずに話してきた自負があり、もうとっくに自分の過去も全て、双子たちに打ち明かした気分になっていた。しかし二人は唖然としたまま、無言でコクコクと顔を縦に振っている。
お姉ちゃんの過去までは聞いたことがない――そんな表情と仕草であった。
「じゃあ折角だから話してあげるよ。ホントに軽くだけどね」
本当に他愛のない雑談をするような軽い口調で、ヤミは五歳以降――記憶を失って目覚めた状態からの暮らしぶりを、懐かしそうに語り出していくのだった。
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