059 明かされる知らない記憶(前編)
――ここでは落ち着いて話すこともできまい。場所を移して話すが良かろう。
そうトラヴァロムに言われたヤミは、ベルンハルトの勧めで、彼ら一家が暮らしている屋敷に案内された。敷地の広さと外観の立派さは流石なものであったが、今の彼女からすれば、その部分はどうでもいいことであった。
(トムじいともっと話したかったけど……やっぱりこっちが先だよね)
本堂からトラヴァロムに見送られながら、ヤミが思っていたことであった。彼はあくまで、実母と彼女が話す橋渡しの役割に過ぎない。後はお前たち次第だ――そんな言葉を告げられたような気がした。
それならそれで、ヤミにとってはありがたいことだった。
突然現れた実母に対する戸惑い――それを少しでも早く解消したかった。
もっとも何か大きなことをするつもりはない。
ただ、話そうとしていたことをちゃんと話したいという、それだけのことである。
「改めて言うけど――あたしは、五歳までの記憶が全くないんだよね」
広い客間に案内され、温かい茶と菓子が出されたところで、ヤミは切り出した。
「あたしを助けてくれた『先生』曰く、見つけた時には高熱が出ていて、死にかかってた状態だったんだって。体中もボロボロで、死なずに持ち堪えたばかりか、完全に元気を取り戻したのは奇跡そのものだって言われたよ」
全てを忘れ去った原因は、その高熱によるものだと言われたとき、ヤミは何の疑いもしなかった。
否、そもそも考える必要もなかったのだ。
その時点で彼女には、何も手に持つものはなかったのだから。
「あたしの年齢とかも先生が調べてくれたんだ。その時、実の両親とその経緯を軽く聞いたって感じだね」
三歳の時に母親が家出し、五歳の時に父親が死亡した――分かったのはそれだけであったが、ヤミからすれば十分過ぎた。
自分は一人ぼっち、家も家族も失っている。
その事実に変わりはないことを、先生から改めて突き付けられた。しかし当時を思い返しても、不思議とあまりショックではなかった気がする。
その時から細かいことを考えない性格だったのか。それとも純粋に、何も考える気力すらなかったからなのかは、今となってはヤミ自身も分かる気はしていない。
「そしてあたしは、先生から名前を付けてもらった」
「お姉ちゃんの今の名前を?」
「うん。漆黒の闇に等しい場所で保護したから――っていう理由でね」
あっけらかんと答えるヤミに、レイは呆然とする。
「……それ、ちょっと酷くない?」
「あたしは別に、気にしたことはないけどねぇ」
思えば名付けられた当時も、すんなりと受け入れたものだった。
何も覚えてない空っぽの状況の中、自分という存在を確認できるものを与えられたことが、恐らく嬉しかったのだとヤミは認識している。
「そう……だったのね」
それを聞いたアカリは、悲しいような安心したような、これ以上にないくらい複雑そうな表情を浮かべ、俯いていた。
「記憶を失くしたというのは、むしろあなたにとって良かったのかもしれないわ」
そしてアカリは、意を決したかのように顔を上げた。
「全て話すわ。私があなたの元から離れて、この世界に来ることになった経緯を」
「アカリ、それは……」
ベルンハルトが双子たちに視線を向けつつ、話を止めようとする。しかしアカリは首を左右に振った。
「この子たちにも聞いてほしいの。母親として、余計な隠し事はしたくないから」
「――分かった。俺も余計な口は挟まん。気の済むまで話すといい」
「ありがとう、ベルンハルト」
顔を向け合って笑う二人の姿は、まさに理想のおしどり夫婦そのもの。双子たちが慕うのも分かる気がすると、ヤミは思っていた。
そんな考えも、アカリが話を切り出したことで、記憶の彼方に飛ばされる。
「まずは、あなたの実の父親について、簡単に話していくことにするわね」
湯気の立つティーカップを手に取りながら、アカリは語り出す。
「あなたの実父……私の前の夫は、暴力をふるう人間だった。暇さえあればお酒を飲んで、イライラしながら怒鳴り散らして、そして……あなたと私にも、容赦なく手を出していたわ」
神妙に語るアカリに、ヤミは目を見開いていた。自分の過去にそんなことがあったなんてと、素直に驚いているのだ。
双子たちも同じくであった。
自分の母にそれ相応の過去があることはなんとなく気づいていたが、まさかそんな酷い目に合っていたとは、思ってもみなかった。
「でも、最初はね? 本当に幸せだったのよ」
するとここで、アカリは自虐的に笑う。
「あの人も出会った時は優しかった。それは結婚してからも、そして……あなたが生まれてからも変わらなかった。決して裕福とは言えない暮らしだったけれど、こんな平穏な時間がずっと続いていくのだろうと、私は思っていたわ」
けれどそれは、すぐさま潰えてしまった。
アカリの前夫が失業したのだ。
輝かしい生活は、一転して暗黒の一途を辿り出す。不況で新たな職も得られず、先の見えない不安と恐怖から、苛立ちと怒りだけが増える一方となった。
「……つまりその苛立ちと怒りが、あたしたちに向けられたってことか」
「えぇ。けれどその当時のあなたはまだ二歳。幼い子供を傷つけさせまいと、私はあの人の怒りを全て受け止めた」
それもまた、アカリの母親としての精いっぱいな抵抗であった。
心の奥底で期待もしていたのだ。いつかはこの人も目が覚めてくれる。きっとまた優しい姿に戻って、家族である自分たちのことを、優しく抱きしめながら謝ってくれるに違いないと。
しかしそれもまた、淡い期待に他ならなかった。
「あの人の暴力は落ち着くどころか、勢いは増す一方だったわ。幼いあなたの面倒を見ながらそれを受け続ける……私の心はもう、完全に疲れ果てていた」
当時のことを思い出すアカリは、胸元に寄せる両手を震わせた。
「そしてあなたが三歳の誕生日を迎えてすぐ……私は限界を迎えてしまった」
「限界?」
ヤミの問いかけに頷きながら、アカリは涙を浮かべる。
「私はあの人の元から逃げ出したの――幼いあなたを置き去りにして」
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