041 少女の目覚め
逃げなきゃ、逃げなきゃ、とにかく早く逃げなくっちゃ――!
走っていた。自分と同じくらいの手を引きながら、ひたすらまっすぐに。
何かから逃げている。迫る大きな影はとにかく恐ろしいの一言で、捕まったら二度と家に帰れない気がしていた。
だから必死に、二人で走っていた。
両親がいたらすぐに助けを呼べたのに、この近くにいないからそれもできない。むしろそれを狙って、恐ろしい『何か』は襲ってきたのだろうと、少女は幼い頭ながらに考えついてしまっていた。
――お父さまもお母さまもいない! わたしたちでなんとかしなきゃ!
なんとかすると言っても、自分たちにできるのは逃げることだけ。それでも何もしないよりは全然いい――そう必死に言い聞かせる。
たとえどんなに凄い両親から生まれた子でも、幼さという壁は超えられない。頭の中では理解できないことでも、本能がそれを捉えてしまう。
自分たちでは何もできないのだ、と。
しかしそう考えた瞬間、別の誰かがその場に浮かび上がる。
――あのお二人の子供のくせに。
――全く情けないものだな。
――本当にあのお二人の血を引いてるのかしら?
――これじゃ将来が不安でならないわね。
次から次へと浮かび上がる、失望と嘲笑に満ちた、とても大きな黒い影。直接、脳にスルリと入り込んでくるそれらの声は、少女を苛立たせる。
――うるさい。
呟く矢先から声が入り込む。黒い影が自分たちの周りを覆い囲むようにして、逃げ場を失くしてくる。
自然と立ち止まり、視線は漆黒の地面に向かう。
繋いでいたはずの手は気がついたら離れ、生まれた時から一緒だった片割れの存在も消えているが、もはやそれを気にする余裕はなかった。
絶えなく聞こえ続ける声から耳を塞ぐことで、精いっぱいだからだ。
――うるさいうるさい……うるさい……っ!
呪文のように呟くも、その声が途絶えることはない。うずくまり、全てから塞ぎ込もうとしても変わることはなく、遂に抑え込んでいた熱が臨界点を突破し――
「うるさいっっっ!」
大きな叫びとなって解き放たれた。
「っ!」
それと同時に、少女の目が勢いよく開かれる。
軽く息を切らせること数秒、自分がベッドで寝ていることに、ようやく気付く。途轍もないふかふかした柔らかな感触が、どこまでも身を沈み込ませる。
悪い夢から解放された安心感も相まって、少女は自然と小さな笑みを零す。
しかし――
(大聖堂にこんな部屋……あったっけ?)
少なくとも自分が普段から使っている部屋ではない。天井の様子を見ただけでも、そこが知らない場所だと分かる。
ゆっくりと起き上がり、周囲を見渡してみた。
明らかに違う。自分の知っている大聖堂の部屋なんかじゃない――少女は直感に等しい速度でそう判断した。
一体自分はどこにいるのだろうかと、少女は不安になる。
とても静かな空間が、かえって怖さを沸き上がらせてきてしまい、自然と掛け布団をギュッと強く握りしめてしまう。
するとその時――部屋のドアがゆっくりと開かれた。
「あれ? 起きてる」
「くきゅー」
入ってきたのは、少女から見れば立派な大人の女性。そして人懐っこそうな声を出す小さな白い竜であった。
「良かったぁ。もう何日も眠ったままだったから、ちょっと心配してたんだよ」
「くきゅくきゅっ♪」
何枚も重ねられた真っ白なタオルをテーブルに置くその女性の周りを、小さな白い竜が嬉しそうに飛び回っている。
普通ならば、小さな子供の竜の存在に驚くところだろう。しかし少女からすれば、そんなものは些細だと言いたくなるほどに、驚く部分があったのだ。
「え……お、おかあさ! あ、いや……」
目を見開きながら、大きな声を出しかけたところで、少女の言葉は止まる。そして改めて女性の顔を観察し、少女は恥ずかしそうに視線を逸らす。
(よく見たら全然違うじゃん。髪の毛の長さもそうだけど、色なんか特に……)
言い換えれば、それぐらいしか大きな違いはない。そう断言できるほど、目の前の女性は心から慕う母の顔とよく似ていた。
とはいえ、あくまでそれは外見的特徴に対する意味合いでしかない。
雰囲気は全くの別人だ。
落ち着いて見ればすぐに分かるほどに。
もっとも恐怖と不安が混ざり合い、心細い気持ちが膨れ上がっていたとなれば、判断が鈍るのも無理はない。
ましてやそれが、まだ年端もいかない少女ともなれば尚更だ。
故に――
「おーい、大丈夫かーい?」
「うっひゃあぁっ!」
自己嫌悪に陥りながらも思考に耽っていたところに、いきなり母によく似た顔が近づけられれば、大きな声を上げて驚くのも、致し方ないと言えるだろう。
もっとも女性からすれば、不本意なことでしかなかったが。
「そんなに驚かなくても……まぁ、いいけどね」
気にしても仕方がないと判断した女性は、さっさと気持ちを切り替えつつ、傍に置いてあった椅子を持ち、少女のベッドの隣にやってきた。
そして座りつつ、改めて落ち着いた笑みを見せる。
「改めて――あたしはヤミ。この子はシルバ。よろしくね」
「くきゅー」
よろしく、と言わんばかりに鳴き声を上げる小さな白い竜に、少女はあっけにとられた表情を浮かべるも、なんとか言葉を出そうと口を開こうとした。
「あ、えっと、その……わ、わたしは……」
「レイ、だよね? 大聖堂に住んでいる聖女の娘さん」
「――っ、どうしてそれを?」
驚きつつも警戒心を高める少女ことレイに、ヤミは苦笑する。
「話を聞いたんだよ。先に目が覚めた、あんたの双子のお兄ちゃんからね」
そう言いながらヤミは、タオルと一緒に持ってきた魔法瓶の蓋を開け、その中身を器に注いでいく。
木で作られたスプーンとともにプレートに乗せ、それを差し出してきた。
「それだけ元気なら、お腹空いてるでしょ? まずはスープでも飲みな」
「えっと……ありがとうございます」
プレートを受け取ったレイは、器に注がれたものを見つめる。野菜がトロトロになるまで煮込まれており、ほのかな塩気の含まれた香りが食欲を刺激させる。
スプーンですくって口に含んだ瞬間、レイは目を見開いた。
「――おいしい」
「そりゃ良かった。何日も食べてないならスープから、って言うもんね」
「くきゅっ」
笑みを浮かべるヤミの言葉に続いて、嬉しそうにシルバも鳴き声を上げる。それにつられて、レイも思わずクスッと笑い出した。
ようやく少しだけ、空気が穏やかになったところで、ヤミが切り出す。
「とりあえず、レイのお兄ちゃん――ラスターから教えてもらった事情を、軽く話させてもらうよ」
とは言っても、それほど多く語れることもない。
両親の留守中に現れた悪者たちに、兄妹二人は捕まった。無論、二人は逃げようとしたのだが、大きな力の差には勝てなかった。
殆ど成す術もなく抑え込まれ、展開された魔法陣が二人を包み込んだ――
「ラスターから聞いたのは、大体こんなところだね」
ヤミは大きく肩をすくめる。
「恐らくその魔法陣は、転移魔法だと思う。あんたたちはそれに乗って、何故かあたしたちの前に現れたってわけさ」
「あなたがわたしたちを連れ去った犯人……でもなさそうですね」
「ん? まぁ、確かに違うけど、なんでそう思うの?」
「なんとなく……」
子供ながらに思ったのだ。黒幕にしては敵意がなさすぎると。
何より連れ去るような悪い人たちが、こうも手厚く看病してくれるだろうか。むしろ目が覚める前に、何か良からぬことをするほうが自然ではないのか。わざわざ自分と双子の兄を狙っていたのだから、尚更だろうと。
「けどその敵さんも、最後の最後でミスったみたいだね。まぁそのおかげで、あんたたちは助かったってことなんだろうけど」
「はい……運が良かったです」
レイも思わず笑みを浮かべる。警戒心はすっかり抜け落ちており、年相応の表情を見せ始めていた。
「まぁ、それにしても――あの時はホント驚いたもんだよ」
ヤミは飛びついてきたシルバを抱きかかえ、その長い首を優しく撫でる。
「まっさか魔王の城の裏庭に、いきなり転移されてくるんだからねぇ」
「――――えっ?」
ケタケタと愉快そうに笑うヤミに、レイは再び表情を強張らせるのだった。
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