019 ヤミ、覚醒する



「ひっ!?」


 オーレリアは息を飲んだ。すぐに動かなければ――横に飛び出さなければ、あっという間に血まみれの状態と化してしまう。

 しかし、完全に腰が抜けてしまい、思うように動かせない。

 迫り来るオーガに剣を向ける悪あがきすらもできず、ただただ呆然と震えることしかできない。


「オーレリア! 逃げろおぉーーっ!」


 そう叫ぶブランドンも必死に走り出すが、距離が開き過ぎている。接近戦しかできない彼では間に合わない――それは確実であった。

 それでも動かないわけにはいかない。たとえこの身が滅びようとも、妻となる女性一人守れないでどうするのだと、ブランドンは必死に動く。

 それでも、数秒後には血まみれの惨劇が広がる。

 彼の中でそれがはっきりと浮かんでしまい、余計に激しく焦りを募らせる。

 どうにもならない、けれど助ける――そんな矛盾した考えを本気で抱きながら、彼は立ち向かう。

 そしてその気持ちは、ヤミも同じであった。


 ――ドクンっ!


 不意に、ヤミの中で鼓動が鳴った。体は小刻みに震えるが、何故かいつもよりも軽いように動ける気がした。


「や、止めろ……」


 ヤミは呟きながら右手を動かし始める。そして一瞬、ギリッと歯を噛み締め、そして力強く目を開いた。


「止めろおおおおぉぉぉーーーーっ!」


 ヤミが手を突き出しながら叫ぶ。その瞬間、体の奥底から燃え上がるような熱い何かが膨れ上がった。


「っ!?」


 頭の中が真っ白になっていた。しかしその視線は敵に向けられていた。

 眠りの花が開いた。

 硬く閉じていたつぼみが瞬間的に開き、そこから煌びやかな光の粒子が一面に解き放たれる。それは瞬く間に体中の隅々へと駆け巡り、やがて必死に伸ばしている右手の先へと急速に集まってゆく。

 魔力だ。

 それも自分が知らない魔力だった。

 しかし迷う必要もなければ、何も考える必要すらない。何故ならそれは、初めから持っていたものだからだ。

 恐れることはない。体中の細胞そのものが、それを認めている。


 ――今だよ!


 真っ白な空間の中で、誰かがそう叫んだ。


 ――あなたは目覚めたんだ。全てはここから始まるの!


 その甲高い声が、ヤミの背中を優しく押した。

 沸き上がるその暖かさが、妙な心地良さをも感じさせてくれる。大丈夫。己の中にある全てを吐き出せば、それでいいのだと。

 そう教えてくれたような気がした。


「……ふっ!」


 その声は恐らく、まともに出てすらいない。伸ばした右手を通して、集められた光が瞬間的な爆発力を担って解き放たれる。

 声はもう聞こえない。

 あれほど熱かったものが冷めていく。体の中から一気にスッと抜けていく。

 白い空間から徐々に解放され、ようやく視界が元に戻ると――そこには大きな怪物が倒れていた。

 ぺたんと座り込んでいるオーレリアの、ほんの少し手前の位置で。


「はぁ、はぁ……」


 ヤミは肩で息をしながら、呆然とその光景を見る。

 何が起こったのかは分からない。しかしこれだけは分かる。オーレリアは無事に助かったことを。


「よ……よか、った……」


 ぐらりと視界が揺れ動く中、ヤミはか細い声で呟いた。


「――ヤミさんっ!」


 遠くからオーレリアの声が聞こえたような気がした。ブランドンと二人で駆け寄ってくるその姿が、何故かとんでもないスローモーションに見えてしまう。

 しかし、それをヤミは考えることもできない。

 力が入らないのだ。もう重力の流れに身を任せること以外、何もできない。


 ドサッ――そんな鈍い音とともに、ヤミの意識は完全に途切れた。



 ◇ ◇ ◇



 気がつくと、不思議な空間に立っていた――


 真っ暗とも真っ白とも違う。表現のしようがない、まさに不思議なその場所に、ヤミはポツンと一人で立っていた。

 どうしてこんなところにいるのかは分からない。ここがどこなのか、何故か考える気持ちすらない。

 どうでもいいとかではなく、そんなことをする必要がないと思っているのだ。

 知らない場所なのに、何故かとても懐かしく感じてくる。何故か頭の中が空っぽになっており、空間の流れに身を委ねたくなる。

 そんな中ヤミは、不意に見つけた。


「……これは?」


 いつの間に存在していたのか、それは開かれたつぼみであった。

 植物に見えるが、花は咲いていない。かと言って抜け殻とも言い難く、そこから何かが溢れんばかりに湧き出ていた。

 ヤミはそれを変だとも、疑問にすら思わなかった。

 何故ならそれを知っているから。ずっと一緒にいるものだったから。

 ずっと眠っていただけで、間違いなく自分の中で、ひっそりと『生き続けて』いたことは確かだから。


「目覚めた……か」


 ポツリと呟くヤミに返事をするかの如く、湧き出る『それ』も勢いが増す。

 それが全て、自分の中にしみ込んでいくようで心地が良い。ゆらりゆらりと身を任せて漂うこともできそうであった。


 ――やっと……やっと見つけた。


 声とは言えない声で、そう言われたような気がした。それが男か女なのかはよく分からないが、妙に聞いてて安心できてしまう。


 ――ずっと待ってた。でもそろそろ、目覚めの時間だね。


 どこか寂しそうなその声は、明らかに無機質のそれとは違う。端的に言えば生きているものだった。

 それが何なのかは、ヤミにも分からない。

 ただ戸惑いながら聞き続けることしかできなかった。


 ――あなたなら、きっと。あなたのことを信じてみる。


 ヤミは勢いよく顔を上げた。同時に、視界がより一層白くなったような気がした。

 声が聞こえなくなる。景色も遠くなってゆく。

 まるで自分がそこにいなくなるような、儚くも不思議な感覚のもと、ヤミはその流れに身を任せる。

 フワッと浮き上がるような感触から一転、少し硬めの布地の感触がした。不思議な暖かさとは違う、明らかな暖かさ。それは毎日の朝に必ず味わう、ありふれた至福のひとときであると気づき――


「んぅ……」


 ヤミはゆっくりと目を開けた。


「あ、ヤミさん! 意識が戻りましたのね!?」


 聞いたことのある女性の声が、上から降り注いでくる。朧気だった視界がはっきりとしてきたそこには、ワインレッドのロングヘアーを揺らし、涙を浮かべて喜ぶ姿が見える。


「オー……レリア?」

「はい。目が覚められて良かったですわ。もう丸一日眠られていたのですよ?」

「丸一日……」


 そこでようやく、あの戦いの直後に自分が倒れてしまったことにヤミは気づく。ゆっくり起き上がってみるが、特に痛いところなどはない。むしろたくさん寝たことで体がえらくスッキリしているほどだった。


「ここはヤミさんにあてがわれた客間ですわ。ちなみにヤミさんが気絶させたオーガも無事に再転送されて、他の皆さんも今は後処理をしているところです」

「そう」


 オーレリアの説明に、ヤミは安心したかのように笑みを浮かべる。


「うっかり倒しちゃったかと思ったけど……大丈夫だったんだ」

「えぇ。タフなオーガだからこそだと、ブランドン様もおっしゃられてましたわ。むしろあれくらいの攻撃でないと、効果がなかったとも」


 つまり本気で倒すほどの勢いがなければ、そもそも気絶させることもできなかったということだ。

 そう考えればヤミも、オーガの底力を甘く見ていたと言わざるを得ない。


(あたしもまだまだ詰めが甘いなぁ……こりゃあ、じいちゃんに笑われそうだ)


 ヤミは目を閉じて小さく笑い、そして改めてオーレリアを見上げる。


「ならとりあえず、みんな無事で良かったってことでいいのかな?」

「はい。全てはヤミさんのおかげです。それと――」


 急に言葉の勢いをなくすオーレリアにヤミは首を傾げる。すると彼女は、申し訳なさそうな表情とともに姿勢を正してきた。


「その説は、大変申し訳ございませんでした。わたくしの勝手な勘違いで話をややこしくしてしまって……本当に恥ずかしく思っております」


 両手を前に置いて頭を下げる。そんなオーレリアを、ヤミは軽く驚いた表情を浮かべるのだった。


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