カムパネルラ①
学校から駅に向かう途中の通学路、一つだけ橋があった。
12月の6時台は月や星がはっきり見えるほど黒い夜空で、空気もやっぱり肌寒い。
橋を渡る途中、奥の川と土手は真っ暗で見えないのに、さらに奥で金色の光を放つ電車が横切るのだ。
「銀河鉄道の夜みたい。知ってる?」
そう彼女は言った。
「宮沢賢治の銀河鉄道の夜なら知ってる」
「銀河鉄道の夜といえばそれしかないでしょ」
数学の教科書を片手に持つ僕と、化学の教科書を両手で持つ彼女。橋の上の真ん中に外側に突き出すように円形の踊り場がある。その小さな円の端と端に僕らは向かい合うようにいて、横目に広がる暗闇に目をやる。もうとっくに電車は過ぎ去ってしまっていた。
■ ■ ■
「ねぇねぇ。……ねぇ、ちょっと〜! 坂下君ってば!」
あまりのしつこさに耐えかねた僕は「何だよ」と両耳にしていたイヤホンを外した。
「やっとそれ取ってくれた。坂下君、女の子を無視するとか意地悪だね」
頬を膨らませ、あからさまに怒っている風を見せつけてくる。
「ていうか、君誰だよ?」
「……な、うそ、信じらんない!! い゛〜っ、朝のホームルーム聞いてなかったの?」
僕の机を手の平でバンッと叩く。
「あんなの聞くだけ時間の無駄だ。勉強した方が有意義だ」
ズレた眼鏡を直しながら言った。
「はあぁ……信じらんないよもう!! 私、転校生。あなたは私の案内を任じられた坂下君。オーケー?」
「……転校生?」
聞きなれない単語に、参考書へ落としていた視線を再び上げた。ああ、だからか。通りで知らない顔だ。肩で切りそろえられた黒髪と、ふわりとした前髪の下から覗く強気な目。
「そう。八木橋 遥(やぎはし はるか)って言うの、宜しく」
「興味無い。あと、そろそろ勉強の邪魔なんだけど」
ばっさり、と言い切る。すると、またも彼女の顔が曇る。
「……そんなに勉強してどうするのよ」
「聞こえてるんだけど」
「聞こえるように言ったの!」
捨て台詞のように言って、彼女はついに僕の傍を離れた。しかし、隣の席がガコンと音を立てる。
八木橋さんは隣の席だったらしい。……不運だ。
イヤホンを耳に戻し、集中しよう、と切り替えた時だった。あれ、と思う。おかしい。なんでこんな時期に転校生が来るんだ?
高一の二学期。それも中盤――11月1日。
気になる。僕は一度気になったらとことん気になる性格なのだ。
聞くか……? いや、聞いたら聞いたで調子に乗られそうだ。
勉強に集中出来ないまま、一人悶々としていると『キンコンカンコーン』とチャイムがなる。1時限目開始のチャイムだ。
僕は参考書を片し、イヤホンをしまう。勉強出来なかった。既に最悪だ。僕はこの転校生に振り回されているんじゃないだろうか。この短時間で僕を翻弄するとはなんてやつだ。
「はーい、授業を始めますよ。と、そうそう、その前に八木橋さんはどなた?」
現代文の教師が教室を見回した。
「はい、私です」
「ああ、坂下君の隣なのね。じゃあ大丈夫ね。急な転校で教科書無いと思うから、坂下君に見せてもらってね」
一つ間が空いてから小さく「はい」と返事がした。
程なくして授業が始まった。
「……というわけだから、教科書見せて?」
断られると思っているのか、申し訳なさそうに彼女が言った。
僕は公私混同はしない。必要な事ならちゃんとやる。この転校生は僕をどんな性悪と勘違いしてるんだ。
中途半端に離れていた机を僕は八木橋さんの机に寄せる。中央に教科書を置いて「どうぞ」とだけ言った。
「えっ、あ、ありがとう。……意外だなぁ」
「一言余計だ」
「……っごめんごめん」
窓際の一番後ろの席。空席だった隣の席に、今は彼女がいて変な感じだ。
僕はちらり、と隣に目を向けた。さらさらとした細い髪がその耳に掛けられる。
なんだ、集中すればまともに見えるじゃないか。
やっぱり学校の案内くらいならしてやろうかな、という気になる。転校生に僕もムキになりすぎた。
一限の授業が終わってから僕は八木橋さんに案内を申し出た。
「ええっ!? どういう風の吹き回し?」
八木橋さんが目を見開く。
「別に。僕もちょっと大人げなかったって感じただけだ」
「……ふーん、そっか。坂下君、結構まともだったんだね」
「はぁ!? それはこっちのセリフだ!」
大体僕は最初からまともだ。意外と……みたいな言い回しは何なんだ!
「こっちのセリフって……私の事まともじゃないと思ってたの!?」
「そりゃ思うだろ!」
「ひどい!! ……っ今に見てなさいよ、坂下君をぎゃふんと言わせてやるんだから!」
ぎゃふん…………!! な、何故だ……!!
僕は採点を最後まで終えて、赤ペンを持つ手を止めた。
英語の小テスト。テストの存在を八木橋さんは知らないはずだ。つまり彼女はノー勉!! なのに……何故、満点なんだ。この教師のテストはノー勉で受けるには難しいはずだ。
採点の為に、隣の席同士でプリントを交換し、僕は先刻の彼女の発言通り、見事にぎゃふん、と言わされたわけだ。くっ、小癪な。
僕は点数のところに、100点、と書こうとして10点のところでペンを止めた。一時の優越感に浸る。しかし直ぐに馬鹿馬鹿しくなって、100と数字を記入した。
「坂下君、本当に頭良かったんだね〜」
採点を終えた八木橋さんが、僕にプリントを渡してきた。
もちろん僕も満点だ。
交換するように僕も彼女にプリントを渡しながら、
「八木橋さんも頭良かったんだな」
とあくまで冷静を装って言った。
「そうだよ? 私結構やるでしょ?」
「……意外にもな」
「一言余計!」
勉強をした僕と勉強をしてない八木橋さんが同じ点数なんて、僕が負けたみたいだ。
――負けた、のでははく、負けている、のかもしれない。彼女が転校して一ヶ月経った今なら分かる。僕の負けは現在進行形だ。
実際、八木橋さんは頭も良く、顔も良く、運動神経も良く、友達も多かった。僕は彼女に完全敗北した。
負けていたとしても、それが何だというのだ。僕は一層勉強を頑張るだけだ。そう、いつもの様に最終下校時刻まで学校の図書室にこもる。12月ともなると、日が沈むのが早い。最終下校時刻になり、学校を出る頃には辺りは真っ暗だった。
マフラーに顔を埋めながら、学校からの帰り道をゆっくり歩く。
春に満開の花を咲かせる桜並木を抜けて、橋の上を進む。橋の真ん中の電灯に照らされて、じっと立っている人影があった。
「……八木橋さん?」
「あれ〜、坂下君だ」
見ると彼女の手元には化学の教科書が開かれていた。
「……こんな寒いところで勉強だなんて、八木橋さんは頭良いのに馬鹿だな」
「勉強してないもん、私」
ため息混じりに八木橋さんは橋の柵に腰を預けた。僕も八木橋さんの向かいで橋に背を寄せる。
「教科書開いてたくせに」
「これはただの暇つぶし」
「……暇って、家に帰れば良いだろ」
「帰りたくないんだもんっ」
八木橋さんは変なテンションで叫んだ。
「やっぱ馬鹿だな、君」
僕は小さく呟く。人通りのほとんど無いこの橋の上で一本の電灯が僕達二人を照らす。八木橋さんに負けじと数学の教科書を取り出した時だった。
真っ暗闇の海に電車が浮かんだ。右から左へと走り去ってゆく。
「銀河鉄道の夜みたい。知ってる?」
八木橋さんは電車から目をそらさずに言った。
「宮沢賢治の銀河鉄道の夜なら知ってる」
「銀河鉄道の夜といえばそれしかないでしょ」
電車が去っても八木橋さんはその暗闇から視線を外さなかった。
「あれに乗れたら私もジョバンニみたいに遠くに行けるのかな」
「……それは遠回しに、実は死にたいんだよねっていう告白?」
「あはは、そんなわけないじゃん。坂下君、考えすぎ。それに私を分かってない」
「分からないでしょ。フェルマーの最終定理がなければ世界で一番の難問だよ」
「つまるところ人生っていうのは世界との戦いなの。私は負けず嫌いだからこの戦いを棄権したりはしない。だって最後には勝ちたいもの」
八木橋さんがさっき「家に帰りたくない」と言ったことと何か関係があるんだろうか。いつもより八木橋さんの元気がない気がしてどうも調子が狂う。
「ていうか、あれ? 坂下君は帰らないの?」
純粋な疑問だった為に僕の羞恥心が膨れ上がる。
「……っ帰るよ!! ……帰るけど、さすがに君を無視しては帰れないだろ!?」
「……ぷっ、ふはは! 坂下君、最初からそうだったよね、何だかんだ優しいの。私、坂下君のそういうところ好きだよ」
なぜか分からない。「好き」という言葉に心臓が跳ね上がる。僕は思わず八木橋さんから目を逸らした。
「僕は……八木橋さんのそういうところが嫌いだよ」
「うわ〜、言われた」
八木橋さんは茶化して言うと、パタンと教科書を閉じた。「帰ろうか」と身を翻す。
しかしその日以降、僕がその橋の上で八木橋さんを見ることはなくなった。
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