第七話 青い空の疑問

 あの日から二週に一回、金曜日の午後にかなえちゃんと中庭で会うようになった。かなえちゃんは奏の姿が見えると駆け寄ってきて、奏の手を引いて近くのベンチに連れて行った。ベンチに座ると、こんにちはの手話で挨拶をする。これくらいはネットで調べてすぐに覚えられた。


 その日は天気がよかった。空気はひんやりしているものの、陽の光が中庭に差し込んで眩しい日だった。奏は手話をネットで調べたものの挨拶くらいしか覚えられなかったので、相変わらず筆談で話していた。かなえちゃんは筆談用のノートと奏に絵を描いてもらうためのスケッチブックを2冊持って来るようになった。


 いつもかなえちゃんのリクエストの絵を描く。これまで描いた絵は、鳥の鳴き声や電車の音、足音、ピアノの演奏やトライアングルの音などだった。学校の教科書や児童書などに出てくる音なのかもしれないな、と思った。今日は学校のチャイムと拍手の音を描いた。かなえちゃん用に買ってきた簡単なおやつをベンチに広げ、奏はパンをかじりながら絵を描く。昼休憩が残り20分ほどになり、あと一つだけ描こうということになった。


『さいごはどんな音がいい?』


 高い空を見上げて少しの間考えたかなえちゃんが、ぱっとオレンジ色を手に取って書き始める。


『おひさまの音を見たい』



 ――理解するのに時間がかかった。


 彼女は、太陽に音があるかどうかを知らないのだ。


 奏の脳は高速回転している。太陽に音がないことを教えて、他のお題を探してもらうか。それとも……。


『おひさまは、どんな音だと思う?』


 考える時間が欲しくて、苦し紛れに会話で間をつなぐ。


『たいようは、さんさん、とか、ぴかぴか、っていう音なんでしょ。えほんにかいてたから、しってるよ』


 そうか。絵本では「太陽さんさん」とか「ぴかぴか」「ぽかぽか」みたいな表現が使われるんだろう。音のある世界を知らなければ、本当にそういう音がすると思っていても不思議ではない。言われてみれば太陽以外にも、何が擬音で何が本当にある音なのか、聴かないとわからないのかもしれない。自分はその音を「知っている」のは、「聴いたことがある」からだと気付く。


 答えが出ないまま逃げの雑談をしている間に、彼女の母親が中庭に出てきた。休憩時間は残り10分になっていた。


「こんにちは、柳澤くん。あら、お菓子まで買ってもらって……いつもありがとうね。今日はどんな絵を描いたの?」


「こんにちは。今日は学校のチャイムの音と、これが拍手の音です。あともう一つお題をもらったんですけど、それはちょっと時間が欲しくて」


「難しい音なの? 私にはわからないけど、絵にしやすい音としにくい音があるのかしら」


「いえ……。太陽の音を見たいと言われたんです」


「太陽の音……」


「絵本ではさんさん、とか表現しますからね。本当はそれには音はないけれど、僕は絵にしてみようと思うんです。太陽の音の絵です。だから次に会える金曜まで、宿題にさせてもらえませんか」


「太陽の音の絵」


 お母さんは何かを考えていた。「太陽の音」「音の絵」という矛盾と矛盾の重なりを飲み込めていないように見えた。しかしそのうち奏の顔を覗き込むように顔を上げ、少し首を傾けて言った。


「わかった、お願いするわ。忙しいでしょうけど、負担にならないようにね。かなえにも、再来週の金曜までに描いてくれるって言っておくから」


 そう言うとお母さんはかなえちゃんの肩を叩き、奏からの伝言を伝えた。かなえちゃんは眉を上げて目を大きく開き、お母さんの話を聞く。やがて奏を見上げて、大きく頷いた。それを見て奏はスマホにメッセージを打ちつつ、午後のシフトまでの時間を確認した。あと4分。


『たいようの音は、つぎまでにかいてくるね。まっててくれてありがとう』


 奏はお母さんに挨拶をしてかなえちゃんに「またね」と言って、残りのパンを口に詰め込みながらバイト先に戻った。「またね」の手話は、「こんにちは」「ありがとう」の次に覚えた。

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