第六話 銀色の棘

 奏は少女から借りたスケッチブックと12色の色鉛筆を使って、緊急地震速報の音の絵を描こうとしていた。抽象画を専攻していたことが生かせるかと思ったものの、正解がない「音の絵」を、「音の色」を、それを知らない少女に教えてしまっていいのだろうかと考えていた。少女がそれを「正解」だと思ってしまわないよう、きちんと説明をする必要があった。


 隣からの濃い視線を感じながら、奏は堪忍したように恐る恐る色鉛筆を取った。赤色を、ページの中央より少し左上に乗せる。


 いざ描き始めると、彼女の視線も忘れるほどに入り込んでいた。黒と青を薄く使って鏡のような銀色を作る。鋭利な棘のような銀が四方八方に伸びている、不規則な立体。鋭い棘は所々に恐ろしさを感じる濃い赤と、どこか不安を煽るような黄色を差す。棘を持つ立体の周りは黒で太めに縁取りをすると、暗闇に突如浮かび上がった未確認物体のように見える。生を持つなめらかさを一切感じないその立体は、無機質で冷たい。


 何分くらい書いていただろうか。小さなスケッチブックなのでそれほど大掛かりな絵は描けないし、いつもの水彩画のように色を混ぜたり乾かしたりする時間がないので、奏の体感的には割とすぐ完成したように思えた。


 出来上がった絵を膝の上に乗せたまま、スマホのメモ帳に文字を打つ。スケッチブックをわずかに彼女の方に傾けて、画面を差し出した。


『じしんをしらせてくれる音は、ぼくにはこういうふうに見える』


 少女は少し口を開いたまま、画面とスケッチブックを交互に見た。奏の膝の上のスケッチブックにそっと手を伸ばし、自分の胸の前に引き寄せる。少し下を向いた彼女の髪の毛が重力に従ってさらりと落ち、見えた耳には赤色の補聴器が付いていた。奏の存在を忘れたようにしばらく絵を見つめた彼女は、瞳孔を開いたままゆっくりと1ページ前に戻り、黒の色鉛筆を取る。


『この音は、こわいね』


 スケッチブックを差し出した少女の顔は、少し怯えているように見えた。奏は少女を怖がらせてしまったかと思ったが、不安を煽るような緊急地震速報の音を再現したのだから、それは成功と言えよう。何か返事をしようとスマホを構えたとき、視線の端に映る一人の女性に気付いた。お腹の大きなその女性はこちらに向かって、青ざめた顔で足早に近付いてくる。奏は立ち上がって少女に目で合図し、小走りでその女性に近付いた。


「お母さん、こんにちは。大丈夫でしたか?」


「ああ、柳澤さん、ですよね。ええ、私は大丈夫です。かなえと一緒にいてくださったんですか? あの、大丈夫でしたか」


「はい、僕はたまたま昼休みで中庭にいまして。かなえちゃんを見つけたんですけど、緊急地震速報が鳴ったので一緒にいました。怪我とかもないですし、大丈夫です」


「そうでしたか……。あの、本当にありがとうございます。すぐ駆けつけようとしたんですけど、あいにく走れないもので……」


 息を切らした少女の母親は途切れ途切れに奏に礼を言い、大きく呼吸をしながら頭を下げた。産科・婦人科は確か隣の病棟の4階だ。この状況ではエレベーターが止まっていたかもしれない。


 奏の斜め後ろにいたかなえちゃんが、母親にスケッチブックを突き出した。母親がそれを受け取ると、両手が空いた途端少女は手話で何かを言う。


「地震の音……?」


「あぁ、緊急地震速報の音です。どんな音かと聞かれたんですが、僕言葉で説明できなくて。かなえちゃんからスケッチブックと色鉛筆をお借りしました」


「これ、あなたが……すごい……。そうですね、緊急地震速報ってこういう音だわ」


「いや、でも正解があるわけではないので……僕はそう感じるってだけで。だから、それをかなえちゃんに伝えていただけますか。僕の絵で彼女の世界観を決定してはいけない」


 母親は少し不思議そうな顔をして軽く頷くと、かなえちゃんと目が合ったのを確認してから手話で話し始める。奏にはその言語を理解するための知識がないが、かなえちゃんが大きく頷き、胸を撫で下ろすように右手を動かして会話が終わったようだとわかった。


「わかった、と言ってます」


「そうですか。よかった」


「あと、その……無茶なお願いなのは承知なんですが、もっといろんな音を教えてほしいと言ってます。たまにこうして中庭で会えた時にでも」


 これは予想外だった。緊急地震速報の絵が気に入ったというより、音の色や形に関心があるようだった。それもそうだ。これまで失われていた世界を見れるかもしれないのだから。少女の好奇心を刺激するには十分だった。返事をできずに数秒口を開けていた奏の代わりに、少女の母親が代わりに話し出す。


「デザインか絵か、やってらしたんですか?」


「あ、大学でデザインをやってます。普段は水彩画なんですけど、こういう抽象画を専攻してます」


「あぁ、それで……。いえ、私知らなかったんです、こんな風に音を視覚で表現できるなんて」


「これが正しいかどうかはわかりませんけどね。抽象画って答えがないので、描き手と受け取り手の解釈次第なとこあるんです。緊急地震速報はこう、無機質でちょっと怖い、みたいな空気感が伝わればいいなって」


「ええ、わかりますよ。伝わります。でもね、私は緊急地震速報がどんな音か知っているけれど、こんな風に絵にできない。きっとほとんどの人がそうよ。あなたにしかできないの」


 かなえちゃんのお母さんの声が、今までより強く奏に差し込んできた。音のない世界にいる我が子に、音を見せてあげたい。その透明で真っ直ぐな思いが、奏には届いたように思う。


「ありがとうございます。……わかりました、たまに中庭で会えた時には、またこうして絵を描きます。しつこいようですが、僕の絵が正解ではないという前提ですけど。金曜は12時半から1時間昼休憩なので、それくらいに中庭に来ます」


「あぁ、貴重なお昼休みなのに、本当にありがとうございます。私たちは第1と第3金曜日の昼過ぎにいつも来ます。私が1時から外来で診療なので、その前に院内のコンビニやパン屋さんで何か食べるものを買って、中庭に出るんです。診療は大体いつも20分もあれば終わりますから、それまでかなえはここで絵を描いていたいって」


「そうだったんですね。第1・第3金曜日。わかりました」


 忘れないように復唱して、お母さんが頷くのを確認する。


「あ、そろそろお時間大丈夫ですか? もう1時20分です」


「あぁ、ほんとですね。そろそろ戻ります。この後も余震とかあるかもしれないので、お互い気をつけましょう」


「そうですね。あっ」


 お母さんが背負っていたリュックを下ろし、中から手帳を取り出す。ページを一枚破り取って、手帳に差してあったペンで何かを書き込む。手帳を持つ左手の薬指には指輪がある。かなえちゃんの父親は、平日のこの時間は仕事だろうか。


「これ、私の連絡先です。何かあれば」


 小さな紙には、『高野早苗(かなえの母)、TEL:XXX-XXXX-XXXX』と書いてあった。かなえちゃんの名前はひらがななんだな、と思った。


 その後お母さんの手帳に奏の名前と連絡先を書いてほしいと言われたので、『柳澤奏やなぎさわ そう、TEL:XXX-XXXX-XXXX』と書いてお母さんに手渡し、二人に手を振ると、走ってコンビニに戻った。昼に食べようと買った菓子パンは、一口も食べないままロッカーに押し込んだ。

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