第五話 差し出された白

 主要動は長かった。いや、長く感じただけかもしれないが、とにかくそこにいた全員がたった1分の間に命の危険を感じ、何かを覚悟した。揺れが収まって当たりを見回す余裕ができた頃には、奏は疲弊していた。きつく何かを締め付けている自分の腕に気付く。はっとして小さな彼女を解放すると、恐怖でこわばった頬、遠くを見たような目が、ゆっくりと奏の顔を見上げる。その大きな目が潤んでいないことを確認して、スマホを開く。


『だいじょうぶ? こわかったね。いまママがくるとおもうから、もうすこしまっててね』


 彼女は大きな目を見開いたまま画面をしばらく見つめ、急に立ち上がって走り出した。


「あっ、ちょ、待って」


 まだ余震が続くだろうからあまり動いちゃだめだ! 奏が追いかけようと立ち上がった時、代わりに少女が立ち止まった。ベンチの上から遠くに投げ出されたスケッチブックを拾いに行ったのだった。既に立ち上がってしまった奏は走り出す必要性を失ったので、仕方なく周囲の人を見回した。家族に電話をかけている人や、なにやらスマホで調べ物をしている人が多い。少女はというと、散らばった色鉛筆の中から一番近くにあった赤色を拾い上げ、ベンチを机にして文字を書いていた。


『こわかったけど、だいじょうぶです。おにいさんは、なんで、じしんがくるってわかったの?』


 彼女には中庭一帯に渦巻いた緊急地震速報が届いていないことに気付く。奏はスマホに文字を打ち込んだあと、スマホを指差しながら彼女に見せた。


『じしんがくるまえに、このスマホから音がなるんだよ』


 音という漢字は、彼女が前に書いていた気がするから読めるはずだ、と思った。彼女は何かを考えるわけでもなく、すらすらとスケッチブックに赤色を走らせる。


『それって、どんな音?』


 奏は返事を書こうとスマホを持ち替え、そのまま固まってしまった。


 ――音を説明したことなんて無かった。緊急地震速報の音はどんな音だ? どうやって説明したらいい?


 約1分の沈黙があった。彼女は奏が返事を考え中だということを察したのか、スマホを構えたまま空を見上げてしまった奏の顔を見上げて待っていた。やがて奏は眉間にしわを寄せたまま、ゆっくりと文字を打ち込んでいく。答えのない問題なのに、「これでいいのか」という漠然とした不安があった。


『スケッチブックといろえんぴつをかりてもいい?』


 少女は大きな目をもう少しだけ大きくしてちらりと奏の顔を見ると、スケッチブックめくり、まっさらなページを差し出した。彼女が手に持っていた赤色の色鉛筆を奏に渡した後、ベンチの周囲に散らばった他の色鉛筆を拾い始めたので、奏も頭をフル回転させながらそれを手伝う。12本が揃ったことを確認すると、奏はベンチに座った。少女は奏の隣に座り、これから何かが書き込まれるであろう新しいページをじっと見つめていた。

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