第29話 傷ついた雌獅子

(……大分弱っていたけれど、その他はどこも。もうすぐ目を覚ますと思うわ)

(……そうか。じゃ婆さん、ここはなんとかオレが話をしてみる。みんなと一緒に城の入り口で待っててくれ)

(……お願いね坊や)

 女の耳に、誰かの話し声が聞こえる。やがて感じられてきた涼やかな風の流れと、陽の光の暖かさ。どうやら自分は野外にいるらしい。

 に?外の世界に?出られた?!

「……ああ!!」

 女は目を覚ました。仰向けになっていたその目に、薄曇りの空の明るさが、しかしキリキリと刺さる。魔城の中ではずっと暗闇の中に投げ出されていたから。眉を少ししかめながら、薄めに開いたその目前に現れたのは一人の若い男。

「お気付きでございますか、エリスベルダ卿?御身は教皇庁第一聖騎士団長、アグネス・イルド・エリスベルダ卿であらせられますね?」

「おお……」自分の側に跪き、恭しく尋ねるその若者。

「私は救われたのか?其方に?」

 その問いには答えず、若者は名乗る。

「私はメネフ・ノーデル。現ノーデル侯国領主モレノ・ノーデル三世、その第二侯子にございます。これを」

 身なりはごく簡易に武装した旅拵え、汚れに塗れていながらも。自分を見つめる眼差しは柔らかく、どこかしら気品が感じられる。ゆっくりと丁寧に言葉を選びながら、若者がかざすのは左手の小手。

(間違いない、これはノーデル侯国の紋章、それも最上の薔薇五輪章)

 優美に輝くノーデルの紋章に、女は不安そうな顔を少し明るくした。上半身を起そうとして、ぐいと突いた手に今度は草の手触り。間違いない。

(外、おお私は今、外にいるのだ!)

 女はたちまち愁眉を開いて。

「では侯爵殿が其方を遣わして?おお、大義であった。まさしく私はそのアグネス・エリスベルダである。

 ……私は救われたのだな?」

 またしても、第二侯子メネフと名乗ったその若者は、その問いには答えない。代わりにやや厳しい面持ちになって。

「卿よ、お目覚めになったばかりで恐縮でございますが、ここは急ぎます。お立ちになれますか?」

 そうか、アグネスは思う。

「かの蝙蝠の悪魔はいまだ健在であるのか?」

「左様でございます」

「そしてもしや、奴らの手の者が近くに?」

 たちまち彼女も緊張した面持ちで辺りを見渡した。そして目に留まる。目前にそびえ立つ、大きな樹の姿の黒い巨塔。

「……あれは?!」

「テバス古城はもうありません。あれなるがかの悪魔シモーヌの城、その真の姿でございます」

「そうか……私は今まであの中に、何ということだ……つまり侯子殿、我らはまだ敵の鼻先にいるということなのだな?あいわかった、なればすぐにここを去らねばならぬ」

 すぐに跳ね起きると思いきや。アグネスの動作はギクシャクとぎこちない。ふらつきながらもようやく立ち上がる。

「案ずるな、体はなんともない。だが思うように身動きが取れぬ」

 そう、彼女の体は硬い麻布で出鱈目に、芋虫のように簀巻きにされていたのである。メネフ達も治療に先立ちそれを解こうとした。だが、彼女がこの城に来た時に身に付けていたはずの具足もその下の戰装束も全て奪われて、簀巻きの下はすぐ裸体。そうとわかると流石に全て取り去るのは憚られた。切り込みを入れ、手足だけ辛うじて動かせるようにしてあったが、確かに自由に動き回ることは出来ないだろう。

 すると。

「侯子殿。この布を全て私から剥いで貰いたい。ここは戦場、火急の際である、なればためらう必要はない。私は恥じぬ」

 事態の切迫を考えてか、言葉は早口。しかし響きはきっぱりとし落ち着いている。

 一瞬ギョッと目を剥いたメネフ、しかしすぐに。

「……では」と一言、あちこちの布の結び目を剣で手早く切り落とした。端からパラリと解けかかった布を、メネフがまずは両手が自由になるように解きほぐすと。アグネスはなおも体にまとわりつく残りの布を、まるで躊躇の無い手つきで自ら解いて、たちまち、メネフの面前で生まれたままの姿に。

 そしてそのまま堂々とした態度で。

「何か刃物はないか?……おおありがたい、ではもう少しだけ待って欲しい」

 メネフから受け取った小刀で、地に広がり落ちている麻布を程よい大きさにてきぱきと引き裂くと、まず自分の胸をぐるりと包み縛る。

「これで動くのに乳房が邪魔にならぬ。あとは足拵えが居るな」

 続いてもう二切れ、それで両足を包む。

「よし、これでひとまず走ることも出来よう」

 そしてようやく、残りの布を再び体に、動きやすい形で申し訳程度に巻き直して。

「待たせたな侯子殿、私は今はこれでよい。一刻も早く戻ろう。

 ……猊下にお知らせせねばならぬ。あの悪魔は用意ならぬ敵、あれを討つには聖騎士団の全軍をもって立ち向かうしかない。

 侯子殿、これはすでに御身のノーデル侯国のみの問題では無い。あの悪魔を滅ぼさねば、この人の世そのものがどれほどの災いを被るか……急がねば!!」


(へぇ、こいつは)メネフは思う。

(思ってたのとは大分違うな)

 旅立つ前に侯爵やバルクスから聞いていた、アグネスという人物、その人となり。曰く、「聖騎士団の雌獅子」、「雌獅子のアグネス」。教皇直属の武装した聖職者からなる僧兵団、その中で、未だ十代の妙齢の女性でありながら群を抜く勇猛さで名を轟かせていたのだという。

 だが、侯爵もバルクスも彼女の第一印象を語るその口調は辛辣だった。

「威勢だけは確かに良かったが、自惚れが余程強かったか、それともただの馬鹿者であったか。あのシモーヌをみくびって結局はあの様だ」

「聞くところによれば、彼女は教皇の娘と言っても、第三教皇妃の連れ子で、血の繋がりはないらしい。だがそれでも教皇の縁者、教会としては半端な地位は与えられなかったのであろうな。勇ましい噂は多く聞くが、あの歳でとてもと思われるものばかり。周りのおもねりによるものだろう。実力はどうも、怪しいものだ」と……。

 しかしメネフがその目で見た彼女の人物は。

(『私は恥じぬ』だと?男のオレの前で自分で素っ裸になって、それでもまるで平気だ。大分肝が据わってるじゃねぇか。それに『あれを討つには』?る気もどうやら萎えてねぇ)

 そしてなにより、彼女がメネフの前にさらけ出した、その肢体。

 もちろんいかに本人に「恥じぬ」と言われたところで、しからば御免とまじまじ直視するほどメネフは礼節も思いやりも無い男ではない。だが、あの固く巻かれた布を取り払う介添をするには、どうしても少しは目に入る。

 そして彼は驚いていた。細身ながら、彼女の腕も脚も筋骨たくましく、強靭に鍛え上げられていることに。そしてその至るところについた刀傷に矢傷。それらは新しいものもあればごく古いものも。鍛錬や稽古だけではこうはならない。

(そりゃぁ親父も兄貴もこれを見たわけじゃねぇ、なめるのも当然だが。違うぞこいつ、この歳でかなりの修羅場をくぐってやがる!これなら……)

 あるいは自分達と共に戦ってくれるのでは?淡い期待もよぎるのだ。どのみち彼女がたとえどんなに足手まといであろうと、連れて行かざるを得ない。せめて自分で自分の身を守ってくれるぐらいには、と思っていたメネフには、嬉しい誤算。今は強い仲間なら一人でも多く欲しいのだから。

 ただし。無論それだけで実力を全て計ることも出来ないし、それに何より問題は。

(『困ったヤツ』かも知れねえからな)

 そう、実力はともかくとして。アグネスは間違いなく「教会最高位クラスの聖職者」なのだ。当然、頑なな異種族嫌悪の持ち主であり、排斥者である可能性が極めて高い。しかしかたや、メネフの仲間たちと言えば……今彼らは、先に魔城の入り口を入ってすぐのところに隠れてメネフを待っている。それは、目覚めたアグネスにいきなり姿を見せないためだったのだ。

 そう、ここから彼女をなだめ説得するのは、ひとえにメネフの口先三寸次第。

(コイツはまたまたデカい博打だぜ。オーリィちゃんの時より分が悪いかもな)

 と。メネフはその思いをポーカーフェイスで隠し、相変わらずアグネスには恭しい態度を崩さず、しかしきっぱりと言ってのけた。

「恐れながら卿よ、我らは戻るわけには参りませぬ。卿よ、我らはこれから征くのです。今ここから、あの悪魔の城に、直ちに!!」

「……何?!何を言っている侯子殿?これからこのまま?あの悪魔と?あの城に再び攻め込めと?」

 「左様でございます」

 メネフの言葉に驚愕するアグネス。平然と切り返すメネフ。

「駄目だ!それは出来ぬ、兵が足りぬ!私はかの悪魔を、確かに侮っていたのだ。ゆえに破れ、部下を全て失い、囚われの屈辱をも被った。私は愚かであった。もう二度と過ちは繰り返せぬ。この失態は必ず挽回せねば、そして世を救わねば!

 ……だがそれには、兵をそろえなければとても!」

「……卿、御無念の程も、また雪辱と救世の貴き御意思も確かに伺いました。ですがなれば尚の事!我らは断固、今征かねばなりません。

 まず一つ。あの悪魔の城は、今。仮初に我らの暮らすこの世に姿を現しているに過ぎません。いつ世界の裏に戻って消えてしまうか……そうなれば、次にいつ我らが攻め込めるかはわかりません。まず、のです!

 そしてもう一つ。卿よ、私がどうやってかの悪魔から、今こうして貴女をお救い出来たとお思いでございますか?左様、私一人の働きではございません!私には共に戦うつわものが、頼もしき仲間がおります。彼らは!

 今、あの城の入り口で私と卿を待っているのです」

「む……」

 一気に言い放ったメネフの言葉に、未だ迷いの相を眉間に浮かべるアグネス。

 攻め込むのは今しかないこと、それは理解した。魔城に現に閉じ込められていた彼女には、「世界の裏」のそのがまじまじと肌で実感出来るのだ。そして確かに、目の前の若者の力だけでこうして自分を救えたはずがない。何者がどれだけいるのか不明だが、彼はおそらく、凄まじい手練れをそろえてここに来たに違いない。若者の言葉はもっともだ。

 だが。彼女は迷っていた、否……

「……おおっと?、あんたぁ?もしかしてビビってンのかオイ?」

 ここぞとばかり心中で勝負のダイスを投げ、メネフは豹変する。貴公子の猫の皮をかなぐり捨て彼の本来の姿に。

 そして。「妖魔シモーヌの脅威に心砕かれ傷ついている」、彼のその指摘はまさに、誇り高い雌獅子のアグネスが、そうと認めたくなかった真情。図星を指されて絶句したアグネスに、メネフは畳み掛ける。

「ま、無理もねぇか。親父と兄貴に聞いたよ、あんた、大層デカい口叩いて、戦のために随分せびってったそうじゃねぇか?で、キンキラキンのお勇ましい行列でテバスに乗り込んでいった!

 そんで今はそのザマだよ。あのコウモリ女にコテンパンにされて、グルグル巻きにされてお捕まりになりなさった、と!

 ……なぁ?『雌獅子』ってのはハッタリか?」

 ニヤニヤと頬に唇に笑みを浮かべて自分を嘲弄する若者に、一瞬はあっけにとられたものの。たちまち、聖騎士の額にむくむくと浮き上がる血筋。

「黙れ!」

「ハハハハハ!ちょっとは吠えてみたつもりかい?ちっとも怖かねぇ、猫の子みてぇなもんだ、あのコウモリ女に比べたらな。

 いいぜ?気持ちはよくわかる。オレだって正直、アイツはおっかねぇや。

 でもな?オレは、オレ達は引くわけにはいかねぇ。だからオレはこれからあそこに行くが……あんたにはもう一つ道が無いこともない。

 ここから一人で、人間のいる街まで帰る。ここから逃げるって道がな。

 あんたがそうするって言うなら、オレは止めねぇ。そもそもオレはあんたを救けに来たわけじゃねぇ、親父にもそう言われちゃいねぇ。オレはあくまで、あのコウモリ女をブチのめしに来ただけ!あんたのことは行き掛りで助けたようなもんだ。もともとオレはあんたがどうなろうと、知ったこっちゃ無かったんだ。ついてくるのが嫌なら、黙って帰ってくれ。ただし、だ」

 メネフが顔に浮かべる表情、今度は憐憫。

「知っての通り、このテバスってところはヤツの縄張りの一番奥だ。船がありゃぁ話は別だが……オレ達は船でここまで来たんだがな、そいつは沈んじまってもう無ぇ。ここから歩きで、あんた一人で、ロクに武器も持たないで。不死怪物どもがウジャウジャ、ウロウロする中を突っ切っていけるか行けないか?

 ……どのみち途中でのたれ死ぬだけさ、みじめにな。

 なぁあんた、だからオレはあんたに聞くのさ、『雌獅子』ってあだ名はただのお飾りだったのか?もう一度!あのコウモリ女に噛みついてやろうって気持ちはねぇのか?いいや、さっきあんたは言ったな?『あれを討つには』!いいぜ、兵ならある、オレが貸してやる、オレ達が一緒に行ってやる!

 さあ選べ!戦って死ぬのか、逃げて死ぬのか?どっちかだ、選べよアグネス!!」

「よくも……よくもこの私にそんな口を……よかろう!!

 征ってやろうではないか、貴様と一緒に。たとえ再びあの悪魔に敗れようとも……私が死ぬのは、メネフ・ノーデル!貴様が先に死んだのを見届けてからだ!!」

「よし!」今度の大博打もどうやら勝負は彼のもの。会心の笑みを浮かべて、手と手を一つ打ち合わせると、メネフはまたしても。

「……では卿よ、これよりご同道くださいませ。我が同士が卿のお出ましを待っております。いざ、悪魔征伐に参りましょう!」

 猫の皮をひょいと被り直して、魔の城に雌獅子をいざなったのだった。

(続)

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