第16話 蝙蝠は嗤う

「……見えてきやしたぜ、お分かりになりやすかい?」

 帆を操る手を止め、ゾルグが崖の上を指差す。

「あれがテバスの城でさぁ。ここからじゃ少々見にくいでゲすがね」

 そう、高く切り立った崖の向こうに、僅かに見えるのは城の尖塔の先だけ。見上げる一同の緊張した顔。海は美しく凪いでいる。だが晴れやかな陽の輝きも、穏やかな潮風も、今はただただ空々しい。

 あの妖魔がすぐ側に潜んでいるというのに。

「殿下、あそこにしやしょうか?」

 次にゾルグが指が指すのは、小さな狭い岩場。海からテバス古城に向かうその海岸線は、ほぼ全てが切り立った崖。だがそこにほんの僅かに上陸出来る場所がある。

「そうだな、そこがいい。船をつけてくれ」

 メネフは抑揚のない声で返事を返す。

 敢えて攻め上がるには不便な崖を越える。そう、これは奇襲、敵の裏をかいてこそ。まさかこんな方角、こんな場所から敵もこちらが攻めてくるとは思うまい……

 それがメネフ達の当初の目論見だった。

(でもその奇襲ってのは、がな……)

 では、何故自分たちはこの崖を登らなければならないのか。メネフは眼前の崖を見上げながら思いを馳せる。

 オーリィがあの炎の雨の奇跡を現し都を救ったその後、夜もしらじらと開け始めた頃に城に戻った侯爵とその一同を待っていた、あの出来事に。


「侯爵様!!」

 城門の前で一同を待ち受けていた一人の兵士。侯爵の馬車が止まるのを彼は待てない。まだ動いている車の窓に縋り付いて。

「これを、これをご覧下さい!!」

 差し出したのは奇妙なもの。卓上におく小さな鏡ではないか。

「?」怪訝な顔で受け取る侯爵。だがその顔はすぐさま凍りつく。

 そこに映るはずの彼の顔の代わりに、鏡の中で笑っている女。血の気の無い真っ白な肌色、それを一面に覆う白い産毛。異様に広く大きな耳と、にやけた唇の端から顔を出している鋭い牙。

「……誰だと聞かないのか?いや……ククク、いかに愚かな者だろうと、この際問うまでもないか」

 そして鏡の中から聞こえてくる、ガラガラと耳障りにしわがれたその声!

 侯爵は馬車から飛び出して皆を手招きで集める。

「どうだ、他の者も聞こえるか?ふむ……その鏡では少しな。城に戻って姿見でも使うがよい。待ってやるぞ」

 憤然と鏡を兵士に突き返して、侯爵は城門に駆け込んだ。彼を追って馬車を降りたコナマを、片手で掬い上げるテツジ。兄弟はそれを見届けて父を急ぎ追う。ケイミーはすでに侯爵の間の窓に向かって飛び立っている。

「オーリィ様!」「急ぎなさい……!」

 魔女と巨人はお互いに顔も合わせず、やはり城内に急いだ。


「私の名はシモーヌ。覚えておくがいい。やがてお前たち全ての女主人マダムになる者……もっともその時は、この名も、もう覚えておくことも出来まいがな」

 侯爵の間に置かれた、優美な装飾の姿見。その中で、かの白魔は傲然と名乗りをあげた。

「昨夜は実に面白いものを見せてもらった。命拾いしたな侯爵、どこからあんな魔女を拾ってきた?ふふ、そうか魔女よ、お前もそこにいるな?あれは実に華やかな花火であった。気に入ったぞ。

 ……お返しに今、この私も一つ余興を見せてやろう。お前たち、知りたくはないか?私がどうやって不死怪物を増やしているのかを。ふふ、其奴がよかろう……」

 鏡の中のシモーヌの視線が狙ったのは、侯爵達の後ろに控えていた護衛の兵の一人。白魔が瞬き一つ程の間その兵の目を覗くと、途端に。

 兵が背後から侯爵を薙ぎ払うように横に突き飛ばす。そして姿見に抱き付いた。

「おお……女主人マダム女主人マダム!」

「『魅了チャーム』!いけない、誰か彼を鏡から引き離して!」

 コナマが鋭く叫ぶ。だがその時一番鏡の近くにいたはずの兄弟が、倒された侯爵を助け起こそうとそちらに飛び退いていたため、その瞬間誰も妖魔に魅入られたその兵に手が届かない。

「……それ!」

 鏡に向かってこちらに白魔が指を突き立てたかと思うと、鏡に張り付いていた兵が、たちまちもんどり打って仰向けに倒れた。その額に、小さな穴が一つ。一方、鏡の向こうで白魔はその指をくるくると回して誇示する。真っ赤な血に染まったその指。

 兵が鏡とあまりに近かったせいで、その瞬間をしかと目で捉えた者はいない。しかし、何が起こったのかは誰にも明らかだ。

 白魔はのだ。

 そして床に倒れていると見えたその兵、その体が、びくりと一つ痙攣したかと思うと。顔色が見る間に土気色に、両の目はどろりと濁り、はギクシャクと不自然な動きで体を起こし、立ち上がる。

「これで、動く屍が一つ出来上がり。どうだ、簡単なものだろう?

 さ、始末はまかせる。好きなようにしろ」

 すかさず巨人が動く。猿臂をグイと伸ばし、不死怪物となったそれの両肩を、巨大な掌でがっしりと捕まえ動きを止める。

「……コナマさん?」

 ノームに振り返り問いかけるテツジ。だがコナマは苦しげに首を横に振る。

 吸血鬼に直に噛まれたばかりの命ある人間ならば、聖職者がすぐに浄化の術を施せば不死怪物化を逃れられる場合もある。それはテツジのみならず誰もが知っていたし、それをコナマに期待した。なればこそ巨人は不死怪物と化したその兵をまずは取り押さえたのだった。

 しかし。この兵は刺された瞬間に。そして白魔はその。わずかの時間での、そして物事の起こった順番のほんのわずかの違い、だがそれは絶望的に決定的。一度完全に失われた命、それはいかに神裁大師コナマといえど元には戻せない。

「そのまま押さえていてくれ」ギリリと歯噛みしながら進み出たのはメネフ。

「オレがやる!」「出来るか?」「見くびンな!!」

 メネフの顔は蒼白になっている。人間、それもつい先ほどまで普通に言葉を交わしていた者がたちまち怪物に変えられたこと、それを目の当たりにした恐怖。それは当然ある。だが遥かに上回るのは嫌悪と怒り。或いは冷静さを欠いてはいないか、テツジはそれを案じて問うたのだったが、帰って来た彼の答えの声の響きと目の色にまだ厳しい自制が残っているのを見て、ならば、とただ黙って頷きを返す。そして巨人は、彼に捕らえられたままなおうめき声を上げグネグネと蠢く屍の、その両肩を巨大なやっとこで挟み込むようにがっしりと抑えこみ、ぐるりと回ってメネフの正面に突き出した。

 若者に迷いはなかった。腰の剣が抜き放たれ、風を切る横一閃。屍の首が飛び、床でゴトリと重い音を立てて落ちた。断首、それは機能を完全に破壊しなければ動きをやめない不死怪物を元の屍に返す、そのためのもっとも単純な一撃。テツジは静かに亡骸を床に横たえる。すでに心の臓が止まっているためか、血が噴き出ることはなかった。倒れた胴体、その頭を失った切り口から、倒したビンから流れ出る水のように、血はヒタヒタと床を流れていく。

「ほう、なるほどよい腕だな、『銀の手の殿下』メネフ。なに、お前のことくらいは知っている。私は鏡を使って、この国中をずっと見てきたのだからな。

 バルクス将軍?悪いことは言わない、触れを出しておけ。今後この国では鏡を使うことは罷りならぬ、全て覆いをかけて隠しておけと。は他にいくらでもある。私は困らん……さて侯爵よ」

 二人の息子達の名をいちいち呼んだこと、それは何もかもお見通しという妖魔の示威。侯爵はなお厳しい顔になってシモーヌの言葉を待ち受ける。

「挨拶はこのぐらいにしておこう。お前に言っておくことがある。これを見よ」

 シモーヌの足元に、縄で縛り上げられ転がされていた人間。無論それは一同の目に入ってはいた。ただ布の袋を顔に被せられたそれが、生者なのか不死怪物なのか誰にも判別出来なかったし、何より皆、初めて見る白魔シモーヌの姿に釘付けであったため、意識の外に追いやられていたのだが。ここで妖魔は一度姿勢を下げ、片手で縄を掴んでその体を鏡に向かって押し付けると、もう一方の手でその覆面を剥ぎ取った。

 猿轡をされたその人物。若い女だった。

「侯爵よ、この者に見覚えがあるのではないか?」

「むむ……」

 白を切ってもおそらく無駄、侯爵は苦い顔でただ妖魔に頷きを返す。かつて。テバス古城に向かったまま帰らなかった、教会の僧兵騎士団。そのリーダーだった者。

「偽りは言わぬ。これはまだ人間だ。そして私がこうして捕らえている。何でも?この女……教皇の実の娘だとか?」

「……教皇?教皇の娘ですって?」「何……!」

 顔を見合わせる魔女と巨人。そしてコナマもまた無言で目を見張る。消息を絶った教会騎士団、その話は3人は先程聞いたばかり。確かに聞いた、だがまさか。

 「教皇」。人間の「教会」、その頂点に君臨し、聖職者のみならず今や人間の世界を宗教で支配する者。その娘が白魔に捕えられているとは。

「たかが人間の聖職者、多少の力は持っていたようだが。私に挑むなどとんだ身の程知らずよ……だが肩書きだけは大物。

 なぁ侯爵、これがこうして生きているとわかれば、むざむざ見捨てる訳にもいくまい?」

 聞いた侯爵の複雑な渋面を見て、妖魔は続ける。

「お前達も元よりこのテバスの城を攻めるつもりだったのだろう?よい、城で待っていてやろうではないか。そしてその間は私は軍を動かさないでやろう。私は今は、お前達だけと遊びたいのだよ。無粋な真似はせぬ。

 そうだな、私に見事勝てれば!この娘はいい土産になるであろうな……教会にたっぷり媚が売れるぞ侯爵?勝てれば、だが。

 それとそこのノーム矮人よ、お前にも挨拶は必要か。やれやれ、神裁大師だと?これまた大袈裟な肩書だ!たかがちっぽけな矮人のくせに、名前負けしていなければよいが。だがいくら何でもあの僧兵共よりは歯応えはあるのだろう?期待している。

 そして魔女よ!

 私はな、お前に会うのが一番楽しみなのだ。あの美しい花火、またこの目で見たいものだが……どうだ?」

「そうね、もう一度だけなら、見せてあげるのも悪くないわね。私の美しい花火で……シモーヌ!お前を火炙りにしてあげるわ!!」

 自分のことはさておき、コナマを侮辱する口振りのシモーヌに、オーリィは皮肉を込めて唾棄した。そのつもりだったのだが。

 何としたことか?

「火炙り?この……私を?アハハハハハハハハハハハハ!」

 シモーヌがたちまち、けたたましく笑い始めたではないか。腹を押さえくの字に体を畳んだかと思うと、さらには床に仰向けに倒れ右に左に転げ回りながら。

「ハハ、アハハ……ハハハハハハ!」

 いつまでも笑い転げ続ける、白魔のその狂態。

 一瞬気を呑まれた魔女。だがたちまち怒りに頬を真っ赤に燃やし、叫ぶ。

「お前……何がおかしいの!!」

 妖魔はなおしばし笑い続ける。やがてようやくその発作が収まったのだろう、尻をぺたりと床につけて座った姿勢に起き直って。

「アハハ……ああ、こんなに笑わされたのは何時ぶりであろうな?吸血鬼でよかった、息をする人間であったなら、これで本当に死んでいたところかも知れん。実に恐ろしい魔術だ、ハハハ!

 魔女よ、名前は?」

「沼蛇の魔女オーリィ!!覚えておきなさい!!」

「ふふ……ではオーリィ、神裁大師殿、メネフ殿下!

 テバスの城で待っているぞ。ああ楽しみだ、アハハハハハハハハハハ!!」

 最後にもう一声、哄笑を残して。妖魔シモーヌの姿は鏡から消えた。後に残った一同のドス黒い沈黙。

「チッキショオォォォォォ!!」

「おのれ怪物め!!」

 壁を殴るメネフ、卓に両手を叩きつけるバルクス。似ていないと誰にも言われる兄弟の、しかしその叫びはまったく同時だった。

「可哀想に……」虚しく床に転がったままの兵士の首。コナマがそっと手を延べて、開いたままの瞼を閉じさせる。その手が、服が血で汚されることを彼女は厭わない。侯爵もまた傍らに座り、そしてその首を取り上げ、横たわる兵士の体の胸の上に置いて。

「私達の身代わりになったようなものだ。許せよ、この仇は必ず……!」

 テツジはただ静かに天井を仰ぐのみ。

 そしてオーリィは。

「左腕よ、私を抱きなさい。私のこの震えが止まるまで。決して離さないで……!」

 そう自分に呪いをかける。シモーヌから受けた屈辱に、湧き上がる怒りを、必死で抑え込むために。

 やがて侯爵の間に訪れる、鉛を溶かしたような重苦しい沈黙。

 だがそれを切り裂くように、一同の耳に聞こえて来た音と声。

「ケックケックケック、クワック!ひどいよみんな、あたしを締め出すなんて!開けてよ〜〜!」

 ケイミーが嘴で窓を突いて鳴いていた。鏡に出現した妖魔の禍々しい姿と言葉に、先に侯爵の間のベランダに着いていたはずの人面鳥を、室内に入れてやることを誰もが失念していたのだ。

 そして一同の唇から一様に漏れる溜息、それは苦い安堵。

 シモーヌの声、顔、姿。あの束の間の悪夢を、せめてケイミーには見せないで済んだのだ、と……


 今やこれは奇襲ではない。それどころか、彼らは待ち構えられているのだ。普通に考えれば圧倒的に不利。

 しかし。シモーヌが本当にその言葉通り、当面「彼らだけと遊ぶ」つもりなら。

(こっちも時間が稼げる。北から兵を都に戻す時間が)

 あの平原での出来事で、もはやテバスから遥かに遠いこの都も安全ではないということは痛いほど思い知らされた。守りを固めなくてはならない。

 この際、シモーヌのあの言葉を信じられるのかどうか。侯爵の間で議論はされた。

「いや、きっと奴にも時間は必要なのだ」

 それは侯爵の言葉だった。

「昨夜、オーリィ殿があれだけの数の怪物共を屠った。いかにあの妖魔といえども、そう簡単にまた同じほど揃えられるとは流石に思えん。しばらくの間は、だが。

 そしてこの際我々としてはだ。そのしばらくの時間をどう使うのか?

 ……ただ守りを固める、それは愚策だ。例え対等の戦力を集めることが出来たとしても、そうなったらこちらは簡単には攻め込めない。だが彼奴はどうだ?この城の、しかもわしのこの部屋にまで、あんなにもあっさりと……

 否!それだけではない。彼奴が力を蓄えるということ、それはつまり。それだけの民が怪物に、動く屍に変えられてしまうということだ。しかり、今この瞬間にも!

 戦はもう始まっているのだ。最早一刻の猶予もならぬ……!」

 崖を見上げるメネフの胸中に聞こえてくる、父侯爵の言葉。彼は両の拳を固める。

(そうさ、バレてようと待たれてようと何だろうと!このルートがのは変わらねぇ。

 ……あの胸糞悪いコウモリ女のツラを、直に拝んでぶちのめすのにはな!!)

 その時、オーリィが彼の傍で呟いた。

「そうね、ここからが一番早いわね」

「おっと?オーリィちゃん、今あんたオレの心でも?」

「そんな大袈裟なことじゃないわ。丁度お前と同じことを考えていた、それだけ」

 オーリィの声もひどく淡々としていた。同じことを考え、同じ気持ちのメネフにはよくわかる。

 二人の耳にまざまざと聞こえてくるような、あの白い蝙蝠の凶々しい哄笑。湧き上がる屈辱と怒りを、彼女も強いて抑え込んでいる。

 そう、彼らはこの崖を登らなければならない、断じて!

 海に錨を投げ込んだゾルグ。水底に届いた頃合いを見計らい、グイグイと何度か綱を曳く。やがて手応えのあった顔。

「……錨が掛かりやした。さ、そいじゃぁ皆さん、地獄廻りといきやしょうかい?」

(続)

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