第二話 変わったのか忘れたのか
涼真との対面を終え、晴れやかな表情で帰路につく脩。陽は既にその巨体の一部を沈め、街に漂う茜色はノスタルジーな雰囲気に街全体を包んでいた。
※ ※ ※
行きよりは少しは涼しくなった家路を辿り、玄関を開けて階段を駆け上がると、自室の机に向かい早速スマホで求人を漁り始めた。
「バイトっても何がいいんだ。」
無意識に発された呟きは誰の耳に入ることなくどこかへと消えていく。目標がないだとか気力がないだとか指摘された人間に「やりたいことを見つけろ」というのは随分と酷な話である。
数分の後、目に付いた適当な求人の詳細をタップして応募画面に進む。操作する手は不慣れでたどたどしいものだ。
氏名や住所を入力し、やっとのことで応募を済ませると流れるようにベッドへ倒れこんだ。半引きこもりの脩にしてみれば今日の活動はかなりの重労働だった。
その日の記憶はここで終わっていた。
※ ※ ※
次の記憶はここ最近で一番柔らかで心地よい瞼への刺激だった。
時計の盤面には七時三〇分と出ている。脩は久方ぶりに朝日というものを浴びた。
正確には浴びてはいたものの、起きていなかったために浴びていることを認識していないだけだが。
心なしか軽い体を操って一階のリビングへと階段を下る。
扉を押し込んでリビングへ足を踏み入れると、キッチンの方から少し驚いたような視線を向けられた。母にしてみれば、高校二年になってからの脩がこんな時間に起きて来るなんてことは片手の指で足りる程の回数しかなく、当然の反応だった。
「今日は随分と早いじゃないの。」
向けられる視線を少し不快に思いつつ、脩はソファーに腰掛けた。
「まあ。」
「昨日の夜はどうしたの?ご飯も食べないで。」
「帰ってきたらすぐ寝た。」
「ああ、そうなの。」
いつもより弾んだ声のトーンで問いかけてくる母は、今日に限っては朝方生活の息子を少しの驚きと共に歓迎していた。
「朝ごはんは?どうする?」
「食べるかな。」
「んじゃ適当に作るから、ちょっと待ってて。」
昼前に起きると自分で食事を用意していたが、母がまだキッチンで作業をしていたということもあり、今日は朝食を作って貰える。その間にメールのチェックを済ませようとスマホを操作すると、新着があった。
『【求人応募】面接について』
昨日適当に応募した求人の掲載先から早速面接の案内が届いていた。文面には明日以降都合の付く日時を指定しろという旨が記されていた。
少しの思考の末、一週間後の午後5時を指定し、返信した。
「できたから食べな。」
送り終えたところで丁度キッチンから呼びかけられた。
「はいはい。」
ソファーから腰をあげ、食卓へ向かい、また腰を下ろす。
目の前の食卓には白米と味噌汁、ベーコンエッグと和洋折衷ながら、いかにも朝食といったメニューが並んでいる。それらを頬張りながらも、脩の脳内は人生で初めてであるバイトのことで支配されていた。
朝食を摂り終え自室へ戻る途中、脩の中にそれはそれは珍しい思考が生まれていた。
(学校行ってみるかな。)
午前中のこんな時間帯に活動していること自体が珍しくなっていたが、既に一限も終盤に差し掛かろうかという時間ではあるものの、「登校しよう」などという考えるのは尚更珍しい。
かといって、今から急いで少しでも授業に出ようというまでの熱量でもないため、午後イチの登校を決めた。
※ ※ ※
時刻は午後〇時半。脩はいつぶりの登校かなんてもう数えてもいないようなことに考えを巡らせながら、太陽が高い位置から照りつける通学路を歩いている。
その途中、一瞬のオアシスである
慌ただしく体育館の方へ駆けていく数名の生徒たちを脇目に、単に夏の暑さとは違う汗もかきながら職員室へ。廊下は走っちゃいけないなんて律義に守っていたら高校生なんてやってられない。入室時に名乗りを挙げると、それに反応した女性教師に呼び寄せられる。
「今日は学校来られたわね。調子がいいのかしら?」
「えー、まあそんなところです。」
この若いとも言い切れない微妙な年齢(三〇代前半)の女性は
「言われたくはないと思うけど、出席日数本当にヤバいわよ。」
「わかってますよ。」
「まあ今日は午後から授業じゃなくて生徒会長選挙だけどね。まさかこれを狙ったの?」
「いや、そんなことないですよ。第一それ初耳ですし。」
「そう。いずれにせよ遅刻届書いて早めに教室行きなさいね。」
「はい。」
永川先生は「狙ったの?」なんて聞いてきたが、脩は生徒会長選挙だなんて本当に初耳だった。
体の芯から冷やされるほどにクーラーが効き過ぎている職員室に長居したくないので、もう何回も書いて見慣れた遅刻届を一瞬のうちに書き上げて永川先生に手渡した。
「うん、OK。じゃあはんこ押しておくから。」
「お願いします。」
出口に向かう途中、主任教師の
室内と打って変わってクーラーの影響力の及ばない廊下へ出た途端に一瞬職員室に出戻りたくなる。その短絡的な欲求を抑え、籠るような蒸し暑さに耐えながら二階にある二年B組の教室へ向かった。
教室に近づくにつれ、昼休みで制約のなくなった生徒たちの休憩時間に浮かれる声が大きくなる。時折爆発するそれは、久しぶりの登校を果たした脩にとっては不快そのものだった。
開け放たれた教室の引き違い戸の戸口をくぐり、自分の席に腰を下ろすと、机の中に押し込められた配布物に意識を向ける間もなく、
「よう脩。なんだよ来はしたけどえらく重役出勤だな。」
「まあな。」
「まったく、授業ないタイミング狙ってくるとか流石だなほんと。幼馴染の応援にでも駆け付けたってか。」
「ん?応援?なんのことよ?」
「生徒会長選挙だよ会長選挙。
「……そうなの?」
「おいおい知らなかったのかよ。」
先刻職員室で永川先生に「選挙を狙ったの?」言われたとき同様に、その「生徒会選挙」に
登校して職員室に向かう途中にやたらと忙しそうにしていた生徒たちの行動にも合点がいった。
「春がねえ。対抗馬とかいんの?」
「うーん……、いないことはないけど、無競争を避けるための当て馬だな。」
「なるほどねぇ。」
実質無競争であることを知った脩はほっとした。もうお互い高校生になったとはいえやはり幼馴染である春のことを少しは気にしている。
「んで、その選挙は何時からなのよ?」
「一時四〇分からだとよ。」
涼真の言葉を聞いて教室の前方に掛けられている時計に目をやると、その針は午後一時を少し回ったところだった。
「にしてもお前、春ちゃんからなんも聞かされてなかったのかよ。」
「……まあ、言うほどのことじゃないって思ったんじゃねえの。」
「ホントかよ、ついに春ちゃんに愛想つかされたとかじゃねえの?」
涼真の言う通り、春は引きこもりがちになった脩に愛想を尽かしたのかもしれない。しかし脩はそれを明確に否定できるほどの物を持ち合わせていない。
確かに連絡を取る頻度は落ちており、春の近況すらも知らなかったのだからそう言われるのも無理はない。
そこから選挙演説の会場へ移動を始めるまでは涼真と会話を続けながら片手間に机に詰まった配布物の整理をして時間は過ぎていった。
※ ※ ※
選挙演説の行われる体育館へ向かうと、壇上の中央には演壇と「生徒会長選挙立会演説会」と毛筆で書かれた立派な横書きの看板が吊り下げられていた。回数が書かれていないし、去年も見たような記憶がうっすらとある。使い回しだろう。
脩と涼真は演説が始まるギリギリの時間に体育館に着いたため、既に全校生徒のほとんどが集まっていた。昼休みの空気を引きづったままやってきた生徒たちに、広い体育館が浮かれた雰囲気が浸食される。
整然と並べられた一般生徒用のパイプ椅子に腰を下ろしたほんの少し後、司会者が演説会の開始を告げた。それに続いて全校生徒のほとんどが俯く中、校長が挨拶する。脩も校長が何を話題に挙げたのかなどその場に居なかったの如くまったく把握していなかった。そしていよいよ生徒会長立候補者の演説が始まる。
「それでは第一七代生徒会長候補、
「はい!」
「皆さんこんにちはっ!私は......」
一人目の演説が始まった。涼真が当て馬と言っていた候補の演説だが、聴衆に好印象を与えるに足る演説を展開している。脩はこの次に演説するであろう春がまた少し心配になった。
「ご清聴ありがとうございましたっ!」
中谷が聴衆へ謝意を述べ演説を締めくくると、会場から地鳴り――とまではいかないものの、大きな拍手が起こった。
「今の人、なんか結構本気だったな。」
「ああ、……しかしまわりの様子とか見てたら自分が当て馬に担がれたって何となく察しないもんかねえ。」
「......。」
小声で交わした涼真との会話の次に続く言葉として、脩は「相変わらず容赦ねえ。」と言いかけたが引っ込めた。和泉涼真という人間が身も蓋もないを言い出す性格であるのは確かだ。
親友のあまりに平常運転過ぎる言動に少し安堵していると、そうこうしないうちに春の番が回ってきた。
「続きまして、同じく第一七代生徒会長候補、
「はい!」
名前を呼ばれて演説へ向かう春が緊張しているのは、誰の目にも明らかだった。
春が演壇に立ってマイクの高さを調節する。
「ふぅ」
そして、小さく息を吐いて心の準備を済ませた。
「皆さんこんにちは。私は竹ヶ岡高校第17代生徒会長候補、二年A組の檀野春です。」
脩は順調に滑り出した春の演説を、無事に始まったことに対する安堵と、なんとなくの違和感を覚えながら聞いていた。
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