【女子高生と探偵事務所】

【女子高生と探偵事務所】①

 次の日になった。時間は朝の十時になる数分前。パーカーとジーンズという格好の泉音は、貰った名刺を手に、目の前の建物を見上げていた。背中には、いつものリュックをかついでいる。

「……」

 名刺に書かれている住所はここで間違いないようだが、建物の窓や壁には何も書いていない。軽く周りを見渡しても、それらしき看板もない。

 泉音はもう一度建物を見上げた。どうやら地上部分から数えて六つのフロアがあるようだ。一階の左側には、上の階へ行くための外階段が設置されている。明るい大通りから一本入った路地にあるため、どこか陰気いんきな空気をかもしている。

 まあいいかと思い、名刺をポケットに入れたと同時。

「や、やばい! 今日もまた遅刻しちゃった! またタカコちゃんに怒られちゃうおおお!」

 大きな声を上げながら、一人の女性がばたばた走りながらこっちに向かってきた。

 女性は大きな胸を激しく揺らしながらせまってくる。相当そうとうあわてているようで、泉音には気づいてないようだ。

「やばいやばい! 絶対怒られる!」

 女性がせまってくる。ぶつかると思った次の瞬間には、顔面にバレーボールのような物体ぶったい激突げきとつしていた。

 泉音はそのまま衝撃で吹き飛ばされ、尻から硬い地面に着地する。咄嗟とっさに手をついたのでなんとか倒れることはけたが、地面と骨がもろに衝突し、激痛が走った。

「わわ、だ、大丈夫⁉ ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

 女性はようやく泉音に気がついたようだ。ばね人形のように、ぺこぺこと頭を下げて謝る。

「け、怪我とかないかなっ⁉ 骨とか折れてない⁉ 救急車呼ぼうか⁉ わ、私、昨日給料日だったから治療費ぐらいは払え…………あれ、二十三円しかない」

 女性は自分の財布の中身を見てそんなことを言っている。

「大丈夫ですから。怪我もないですし……」

 泉音は言いながら立ち上がる。手についた土と、服の汚れを軽く払う。

 ぶつかってきた女性は泉音よりわずかに大きい。身長は百六十二センチぐらいだろう。顔立ちは二十代ほどに見える。かけている赤いふちの眼鏡と、その奥にある青色の目。背中に垂らしている髪は淡い金色で、寝癖ねぐせなのか、頭頂部からは触角しょっかくのように二本のアホ毛が生えている。

 着ているのはカーキ色のタートルネックセーターに、スリットの入ったロングスカート。足元はブラウンのブーツ。六月には少し暑い格好だ。

「ほ、ほんとにごめんね。あ、あ、どうしようどうしよう。救急車を……だ、だからわざとじゃないってば!」

 女性は自分の横を見てそんなことを言った。彼女の隣には、明らかに誰もいない。

「うう、申し訳ないから、おびに私のぼんを……」

「いりません。大丈夫ですから、結構です」

「そ、そっかぁ……」

 泉音が断ると、女性はしょぼん、と肩を落とした。

「あ、あ、もしかしてうちの事務所に何か用だったのかな。お話があるなら一階に行けばいいよ」

 すぐに立ち去るのは悪いと思ったのだろう。女性は話しかけてきた。

 隠す理由もないので、泉音は答える。

「ここの名刺を貰ったのですが、どこに行けばいいか分からなかったところです」

「名刺? ああ……それはここの事務所の紹介状だね! てことはツクモちゃんだ。知り合いの人以外にそれを渡すのはツクモちゃんしかいないから」

 泉音は昨日の女性の姿を頭に浮かべる。どうやら、あの女性の名前は「つくも」と言うらしい。そして昨日貰ったこの紙は、事務所の紹介状だったようだ。

「ツクモちゃんは所長さんなの。今はお部屋にいるはずだよ。私、もう遅刻してるし……一緒に行ってあげようか?」

「その人と、あなたはどういう関係なんですか?」

「どういう……うーん……ツクモちゃんは所長さんだから、仕事で言うと上司と部下みたいな感じかなぁ。私はツクモちゃんのこと、お友達だと思ってるけど……」

「お友達……なるほど」

 泉音の脳内で、昨日の女性と、目の前にいるこの女性が線で繋がれる。

 泉音は言った。

「じゃあ、案内してもらってもいいですか?」

「うん、もちろん!

 あ、その前に、君の名前を聞いてもいいかな。私はシエスタ・ルードリヒ・シュタイナーっていうの。シエスタって呼んでね」

「シエスタさんですね。遠巻泉音です」

「イズネちゃんだね。じゃ、こっちだよ」

 シエスタが歩き出す。泉音は彼女の後ろについていく。


「ところでイズネちゃんは、どんなカップリングが好き?」

 三階の踊り場を上がったあたりで、突然前を歩く彼女が足を止め、振り向いてそんなことを聞いてきた。泉音には質問の意味が分からない。

「あ、ごめんごめん。どんな関係の二人が好きかってことね。

 たとえば高校のクラスメイト同士とか、大学生と高校生のカップルとか、社会人と大学生とか……。シチュで言うとね、私は結構けっこう現実げんじつりの物語が好きかな。たとえば攻めになってたほうが逆転されて受けになってはちゃめちゃにされるとか」

「はぁ……」

「ここで言うと、三階の子がほかのメンバーに対してドSを発揮はっきするんだけど、大人にはかなわなくて……ってシチュエーションを妄想もうそうしてるよっ! 立場逆転からのショタ受けっていうのがすっごく興奮するかな! 特に敬語攻めっていうのが最高!」

「は、はぁ……」

 呪文のような言葉をつらつらとべる彼女に、泉音は引きつった顔で返事をするしかできない。彼女が何を言っているのか、泉音には本気で分からなかった。

「あ、あ、今する話じゃなかったよね! ごめんね! また今度、イズネちゃんのしカプと好きなシチュ教えてねっ!」

 すごくいい笑顔を浮かべて言うと、彼女はくるりと振り向き、再び階段を上り始めた。泉音もとりあえずついていく。


 五階に到着し、シエスタが扉をノックする。

「ツクモちゃーん。お客さんだよー。ツクモちゃーん!」

「はいはい。そんなにたたかなくっても聞こえてるってば。いてるよ」

 帰ってきた声に、シエスタは扉を開けた。

 部屋は照明をわざと弱めているようで、少し薄暗い。

 広さは教室の半分ぐらい。入口を入ってすぐ正面には、応接間のようなソファとテーブル。その奥に大きなデスクと椅子があり、椅子にはこの前の女性が座っている。ペンを持っているところを見ると、どうやら何かの作業中だったようだ。

 よく見ると、奥にあるデスク横の壁には三枚ほどの絵がかざられている。

 一枚目は夜の無人駅を描いたような絵だ。二枚目は、一面いちめんに黒色が塗りたくられた真ん中に、ぼんやりと朧気おぼろげな白色が浮かんでいる。三枚目は右側に木の枝と、今まさに羽化うかしようとしているちょうえがかれている。赤の絵の具で強調された蝶はまるで、安全なさなぎから危険な外に出ようとしている痛みを叫ぶように、んだ青空に顔を向けている。

 そしてよく見ると、それら三枚の絵には右下あたりに数字で『99』と書き殴られ、その下に『K.T』と作者のサインらしきものがある。

「お客さんっていうのは、誰かな」

 机のところにいる女性が、椅子から立ち上がりながら言った。

「この子だよ。事務所の前で困ってたから、案内してあげたの」

 シエスタが横にずれ、泉音を紹介する。

「うわ。ほんとに来たんだ」

 女性は泉音を見るなりそう言った。

「まさか、ほんとに来てくれるなんてね。まあいいや、いらっしゃい」

 女性は優しく言い、にこやかに口角を上げた。

「ところでシエスタ」

 と、女性がシエスタに顔を向けた。シエスタはびくりと体を跳ねさせ、「は、はい」と声を上ずらせる。

「今は、何時かな?」

「ええと……朝の十時過ぎだね……。もうすぐ、十時半になるね……」

「そうだねえ。じゃ、君の事務所を開けるのは、何時からって助手は言ってた?」

「朝の……九時だね」

 シエスタは視線をさまよわせながら答える。黒髪の女性は柔らかい口調と、にこにこ浮かべる笑みを一時いっときやさない。

「あのさ、あんまり言いたくないけどさ。シエスタ、あんた最近、遅刻が多すぎると思わない? 朝の九時から事務所を開けるのに、その一時間後に仕事場しごとばに到着、じゃいかんのよ。遅刻するにしてもさ、三十分とかならまだ分かるけどなあ。

 あのねえ、せめて十五分前には、ここに来ておいてほしいところかなあ。これ言うの何回目だっけ? ていうか昨日も規格外きかくがいの遅刻をしたよね? 六時間の遅刻とか、あたしもうびっくりしちゃった」

「ご、ごめんなさい……」

「それを言うのはあたしじゃなくて、自分の助手でしょ。あんたが優秀なのは分かるけど、遅刻ばっかりされちゃあ、うちの信用も落ちるわけ。これ言うの何回目だっけ?」

「だ、だって、緑のウサギちゃんが私の横で騒ぐから……」

「言い訳しない。ほら、分かったらさっさと行く」

「うう、はあい……」

 シエスタは、しょぼん、と肩を落としながら振り返る。どうやら会ってすぐ、いきなり説教されるとは思っていなかったらしい。

「じゃ、私は自分の部屋に戻るね。二階にいるから、何かあったら呼んでね……」

 泉音にそう言うと、横を通り過ぎてきた道を戻っていく。

「うう……怒られちゃったぁ……。だって、みんなが『急がなくてももういいじゃん』って言うからだよお……。私、悪くないもん……」

 彼女はぶつぶつ言いながら階段を下り、二階の部屋の扉を開けて中に入った。

「じゃ、君はとりあえず適当に座ってよ」

 女性に促され、泉音は目の前のソファに腰を下ろした。自分の隣に、持ってきたリュックを置く。

「飲み物は……ここには置いてないんだよね。いるなら買ってくるけど」

「いえ。ないなら構いません」

「そう言ってくれてよかった。あたしも、あんまりここを離れたくないし」

 女性は言いながら泉音の向かいに腰を下ろした。

「そういえば、なんで来てくれたの? あの紙、捨ててもよかったのに」

 女性が言った。泉音は答える。

「だって昨日、私のこと、友達って言ってくれたじゃないですか」

「友達?」

「はい」

 泉音は当然のように頷く。

「……なるほど。確かに昨日そう言ったけど……まあいいか」

 女性はそう言うと、話を変えた。

「昨日はバタバタしちゃってたから、名前を聞いてもいいかな」

「遠巻泉音です。市立南原高校二年二組、出席番号八番。十六歳です。部活には入っていません。住んでる所は東三条町ひがしさんじょうまち五丁目2‐14。『遠巻』家です。中学卒業と同時に、今の遠巻家のおじさんとおばさんに引き取られて……」

「おっとおっと。もういいよ、それぐらいで」

「?」

 泉音はきょとんとした顔をした。なぜ止められたのか、泉音には分からない。

「イズネちゃんね。昨日は夜弦を手伝ってくれたんだって? ありがとね。あたしじゃ、色の導線なんか見えなかったし」

「見えない?」

「うん。こういうこと」

 泉音が聞くと、女性は顔を近づけた。そして、かけている眼鏡を少し上にずらす。隠されていた彼女の二つの目は黒でも茶色でもなく、ミルクのような乳白色にゅうはくしょくに染まっていた。

「あたしね、生まれつき目が弱くて、視力もすごく低くてね。光に弱いから、この遮光眼鏡がないとまともに外にも出られないの」

 そう言うと彼女はずらしていた眼鏡の位置を戻し、顔を離した。確かに、彼女がかけている物はサングラスには見えない。小さなレンズがフレームにもついており、黄色っぽい色がついている。

「名前を言うのも忘れてたね。あたしは神凪九十九かんなぎつくも。一応、肩書かたがきはここの所長だよ。よろしくね」

 と、女性……九十九も簡単に自己紹介をした。

「ここの所長……ってことは、探偵さんなんですか?」

「あたしは違うよ。

 ここはね、いろんな人間がそれぞれ専門の仕事を受ける場所だよ。まあここにいる人間は、探偵かと言われれば、全員そうなんだけど……」

「探偵事務所なのに、探偵さんじゃないってことですか?」

「ええと……多分、イズネちゃんのイメージは映画やアニメみたいに密室みっしつ殺人さつじんをかっこよく推理する、ってやつじゃないかな。キャラクターとしての『探偵』だね。

 でもね、そういうのはフィクションの中だけ。

 探偵ってね、依頼により第三者や関係者、いろんな人を調査したり、それを仕事にしてる人のことを言うんだよ。だからちょっと誤解されがちなんだけど、地味じみな仕事のほうが多いし、推理とかもしないよ。大げさなフィクションだけがひとあるきしてるから、実際の探偵も勝手にそんな風に思われてるんだよね」

 九十九は続けていく。

「ここで受けてる仕事はたとえば、いなくなった人を探す捜索そうさくとか、人を追う追跡ついせき。さっき来た金髪の子が、二階でこの仕事を受けてるよ。

 そのほかには事件に関しての推理や警察への協力とか。これは三階だね。昨日、イズネちゃんが取り残されてた体育館に入っていったのが、この担当だよ。

 で、その上の四階はストーカーとか男女問題の仕事を受けてるよ。ここの担当は今いないから、また今度にでも紹介するね。

 五階はあたしの所長室で、六階はあたしと夜弦の家って感じ。

 一階はどの階の誰に依頼をするのかっていう受付兼うけつけけん弁護べんご担当たんとう。地下もあるんだけど……そこが何を担当してるのかってのは、さすがにヒミツ」

 九十九は人差し指を自分の口の前に持って行き、軽く笑った。

「ここはね、だいたい一つのフロアに探偵が一人いて、助手が一人ついてるの。三階の夜弦のところは、事情があって今は助手がいないんだけど。

 ここはあくまで、それぞれ仕事を受ける人間たちが集まる場所って感じ。だからなるべく、ほかの階とは干渉かんしょうしないようにしてるかな」

 と、九十九は話を締めくくった。

「あ、そうだ。あのさ、イズネちゃん。昨日の話覚えてる?」

 思い出したように話を変える。

「ああ、はい。覚えてますよ。助手の話ですよね」

「うん。それさ『やる?』って聞いたら、ほんとに受けてくれるの?」

 九十九は少し口角を上げて聞いた。まさか本気で受けるとは言わないだろう、と唯一見える口元が物語っている。

 そんな彼女に、泉音は答えた。

「ええ。はい。やりますよ」

「……わお。即答そくとうだね。迷ったり、考えたりもしないんだね。もっと考えてもいいのにさ」

「? なんで考えるんですか? 九十九さんは私のお友達ですから。お友達が困ってるなら、助けるのが当たり前じゃないですか」

 泉音は素晴らしい返答をする。

「ふうん……ま、いいか。それじゃ、頼んじゃおうかな。さっそく明日から来てもらってもいい? 明日なら、とりあえず一階の人間も二人いるし」

「分かりました」

「基本的に三階はあんまり仕事がないんだけど、今日と同じぐらいの時間には来ておいてほしいかな。しばらく学校も休みでしょ?」

「はい。明日も十時ぐらいに来ますね」

「うん。それでよろしく。一階に行って、三階の鍵くださいって言ったら分かるから。鍵を開けたら、中に入ってていいから」

「分かりました」

「そこまで送るよ」

 九十九が椅子から立ち上がる。彼女に続き、泉音も席を立つ。

「さよなら、九十九さん」

「うん。また明日ね」

 部屋を出る泉音を見送る。階段を下りる音が、だんだん遠ざかっていく。

「まさか、即答するなんて思わなかったなあ」

 残った九十九はそんな独り言を言いながら、もしゃもしゃと頭を掻く。

「もしかして、変な奴スカウトしちゃったかなあ。また黒瀧くろたきに怒られる。別に無視してもいいんだけど……それで、変なことされると面倒くさいしなあ。

 まあいいか。言うことは聞きそうだし。いざとなったら全員でぶっ殺せばいいし。一応、調べといてもらおうかな」

 スマートフォンを取り出し、電話帳の画面を開く。『黒瀧 達臣』の名前をスワイプし、呼び出し音の鳴る端末を耳に当てた。


 同じ頃。扉越しに聞こえる誰かの足音で、九十九探偵事務所の三階……机に突っ伏して眠っていた夜弦は、静かに目を開けた。

 誰かが階段を下りている。覚えのない足音だ。四階は閉めているから、九十九の客だろう。夜弦はそんなことを考えながら体を起こし、まだ重いまぶたをこする。

 今の時刻はまだ午前中……だと思う。この部屋には時計が一つもないため、正確な時間は分からない。窓の外に見える空と聞こえてくる外の音から、夜弦は午前の十一時ごろか、昼のあたりだと推測する。

 首を動かして自分のスマートフォンを探してみるも、周りには見当たらない。おそらく九十九が持って行ったのだろう。彼女にはそういうところがある。持ち物を預かるといって勝手に持って行ったり、隠したり。

「……」

 夜弦はぼうっと考える。

 何か、夢……を見たような気がする。夢なのか、ただ過去のことを思い出していただけだったのかよく分からないが。

「……っ」

 その時、ズキリと頭痛を感じた。右手を頭に当て、思わず痛みに顔をしかめる。頭の中から、何かが聞こえてくる。

(……ろ。お前は……なのだから。観察しろ。学習しろ。推理しろ。お前は……)

 抑揚よくようのない低い男の機械音声だ。声は頭の奥からいてくるようだった。それがだんだんと、はっきりと聞こえてくる。ズキズキと、頭痛がさらに激しくなる。

(きみはすこし、ぼくのおかあさんににてる。きれいで、つよくて、かっこいい。おかあさんはいつも、ぼくの手をひっぱってくれたよ……)

 すると次は、違う男の声が頭の奥から聞こえてきた。子供っぽく、感情が乗っていない平坦へいたんな声だ。この声に覚えもなければ、この声の持ち主も知らない。

「う……」

 夜弦は右手で頭を押さえる。

 頭痛とともに、チカチカと、視界に身に覚えのないどこかの場面がフラッシュバックする。今にも崩れそうな廃墟はいきょの一室。目の前に立つ顔の見えない男。男の髪が、外の光を反射してきらきらと輝いている。

 痛む頭を押さえながら机の引き出しを開け、薬を取り出す。一粒口に入れ、砂糖をたっぷり入れた飲みかけのコーヒーで流し込む。

(……観察しろ。学習しろ。推理し……)

 薬を飲むと、頭痛と声はだんだんおさまっていった。夜弦はゆっくりと頭から手をどける。

 四年ほど前からこうして時折ときおり、頭の中で声が響くことがある。加工された機械音声と、生身なまみの人間の男の声だ。それと同時に、耐えがたい頭痛がする。痛みがくる箇所を探ると、後頭部の奥の方からだ。

 九十九から渡された薬を飲めば声も頭痛も治まるが、ほどなくするとまた再発する。原因を探ろうと考えを巡らせても、機械音声と刺すような痛みがそれを邪魔する。いったい何なのだろう。

「……」

 落ち着きを取り戻した夜弦はふと、自分の手を眺める。過去のことへと思いを巡らせる。

 ここの最初のメンバーは三人だった。自分と九十九と黒瀧だ。事務所を作ったのは四年前ぐらい前だと九十九が言っていたが、ここができる前に、何か、自分にはやらなければいけないことがあったような気がする。とても大事なことで、忘れてはいけないようなことだ。

『おい、泥棒ならよそに行けよ。ここにゃ、なんもねえぞ……』

 すると脳内に、男の声が響いた。同時に頭の中に景色が浮かぶ。コンクリートの壁がむき出しの、アトリエのような場所だ。

『……なんか顔色わりいな。大丈夫か、ぼうず』

 イーゼルスタンドの前に座っていた男が、立ち上がってこちらに近づいてくる。男の顔は影に塗りつぶされていて見えない。だが、この男は見覚えがあるような気がする。このアトリエも。

 思い出せそうな寸前すんぜんで、ズキリと頭に痛みが響いた。次の瞬間、花火がはじけるようにして、目の前に違う景色が広がった。

 磨かれた床と、小さなボストンバッグがちらちらと見える。空港らしき場所を歩く自分の視点と、視界に入る自分の両手。

『……に入ったな。言語げんごえろ』

 同時に頭の中に響いたのは、先程の機械音声ではない、男の肉声にくせい

『お前の役目は不具合を起こし、消息を絶った…………の後任こうにんだ。この国の警察本部とは話を……消息を絶った…………はこの国へ入る前、爆発物を扱うテロリストを…………発見次第……即刻そっこく処分しょぶん……』

 ズキズキと頭痛が激しくなる。こんなことは、初めてだった。何かを思い出せそうなのに、思い出したら自分が終わる気がする。

 痛みが、声が、頭の中に響いている。

(……ろ。考えろ。お前は探偵だ。思考を放棄ほうきしてはいけない。自分の存在理由を疑問に思ってはいけない。学習し、観察し、推理しろ。お前は探偵だ。それ以外は疑うな。お前は……)

 再び、あの機械音声が聞こえてくる。この声は何のことを言っているのか。なぜずっと同じことを繰り返しているのか。一つも分からない。

 分からないことは、考えなくてはいけない。自分は探偵なのだから。

 そうだ、自分は探偵だ。なぜそう思うのかは、分からない。なぜそう思ってしまうのかも分からない。分からないならば、考えなくてはいけない。自分は探偵なのだから。

(……は探偵だ。考えろ。考え続けろ。お前は探偵なのだから。お前は……)

(健闘を祈る。忘れるな。お前は探偵だ)

(しってる? みんなの中にはね、きれいな赤いろがつまってるんだよ。ちょっとさすだけで、シャワーみたいにふきだすんだ)

 頭の中で三つの声が聞こえる。それらの声が渦巻き、おかしくなりそうだ。

 夜弦はバランスを崩し、派手に椅子から転げ落ちる。

『い、いやだ、お母さん! お母さん! いや、いやだあああ!』

 今度は少女の悲鳴が頭の中に響いた。するとまた、違う光景が目の前で弾ける。

 今にも崩れそうな壁と床、割れた窓。両手を後ろに縛られ、身動きが取れないことを思い出す。割れるような頭痛と、鼻をつく血のにおいを夜弦は思い出す。

 視点は部屋の隅で固定されていた。自分の目の前で、一人の男が膝を折っている。男の白い髪が、外の光を反射して輝いている。

『きみは、まえにきたたんていさんとは、すこしちがうね』

 男の手が、自分に触れている。夜弦はその時の感触かんしょくを、自分の顔にれた男の指の体温を、その場所にただよっていたにおいを、はっきりと思い出す。

『きっと、きみはぼくとおなじことができるようになるね。だってきみは、ぼくのことをよくしっているから』

 男の後ろの壁にある割れた時計が、最後にかちりと動く。秒針が、夜の六時を刻む。

 夜弦は自分の意識が、やみに沈むのを感じた。

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