第6話 前座の前座

 「才能」


 それは希望。


 己の持つ全ての可能性を総称して、人々はそれを「才能」と呼ぶ。

 勉学の才か、政治の才か、運動の才か、はたまた存在そのものが才か。凡そ体系化されきったカテゴリの中で、我々人間は自身の立ち位置を探る。

 有り体に言えば「勉強ができる」、「スポーツが得意」、「絵を描くのが上手」etc…

 そういった才能を示す言葉が、我々の存在を規定する。

 勉強が出来るA君であり、スポーツが得意なB君であり、絵を描くのが上手なC君、というように。

 我々は「才能」の元に己を、他者を位置づけるとも言えるだろう。

 一方で、自身の才能を見つけられない人間は劣等感と嫉妬に駆られ、才能ある人間を拒絶することで己を救う。そうしてまた別の「才能」を探し始める。

 「才能」は常に私たち人間の財であり、個体識別番号でもあるのだ。

 才ある人間が「個体」として成立する一方で、「才能」が定義できない有象無象。彼らはずっと夢見人として「才能」を探し続けるか、「諦め続ける」。

 精々100年にも満たない一度きりの人生の中で、可能性の全てを測ることは出来ない。ゆえに才なき人間は自身の才能を夢に見て、希望を抱いたまま、死んでゆく。


 「才能」


 それは希望であり、絶望。


 人々は才能のない人のことをこう呼ぶ。


 「無能」と。


 だが、「無能」は結局のところ「才能」に気付けていないだけの状態にすぎない。己の中に眠る才能の片鱗に気付かず、気付けず、その真価を発揮できていない不完全な結果でしかないのだ。

 万事万物への「才能」を否定されるまで、その希望は、燦燦と輝き続ける。

 だから人々は死ぬまで「希望」を抱き続けられる。「希望」もまた輝き続ける。

 二者の間に齟齬は生じない。なぜなら「希望」が存在しないことを「無能」が証明すること自体が、不可能だからだ。


 「無能」な彼らは、幻影の希望の先に待つものが見果てぬ限りの絶望だということを知らない。――いや、実は気付いているのかもしれない。気付いて尚、気付かないフリをしているだけなのかもしれない。


 ――かつての、俺のように。


 俺は思う。


 ――才能を一切持たないと規定された人間は、一体何と形容されるのだろう


 そしてもし、自分の現状を、愚かさを、あるいは醜さを、全てありのまま受け入れることが才能であったなら、俺にも幾らかの救いはあったのだと思う。


 季節は桜舞う4月。

 無能な俺が、まだ無能で居られた頃。

 可能性という言葉が、その効力を失っていなかった、あの日。

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