第54話 日独伊三国防共協定
-イタリア:ローマ ヴェネツィア宮殿 会議室-
1936年11月4日
外交と軍事関係の話し合いが終わると内政の方に話が変わり、その中で農林大臣からの議題に移った。
「ドゥーチェ、農業政策を推進する中で穀物などを輸送するための民生トラックが現在不足しています。また南部の住民は北部に比べて給料が低くなっており、そもそもトラック自体が高くて買えないという住民が多いようです」
「成る程ね。安いトラックか...なら簡易設計にして大量生産で安くするしかないかなぁ...最悪既存のトラックを大量生産して少しでもコストを抑えて販売するっていう手段もあるけど」
「そうですね。その件は各自動車メーカーに相談してみましょう」
それに労働大臣が賛同した。
「南部にも自動車の保有世帯が増えるだろうから今のうちから南部の交通網の整備をしておこうかな」
「そうですね。南部にはレーダー網構築の為に労働者が多数いるので、レーダー施設の建設を終えたところから、労働者を交通網の整備に従事させるのがいいと思います。新しく鉄道網を構築するのも良いかもしれません」
「わかった。その通りに進めておいて、鉄道網もやるのなら機関車の増産も追加しておいて」
「わかりました」
「それと、リビアでの油田開発が順調に進んでいるから、リビアにも製油場を追加で幾つか建てないとね」
「そうですね」
「次に工業規格の統一について、各企業への話はついた?」
工業規格の統一は史実でドイツの※①シュペーアが実現した物だ、この事でドイツは大戦中盤にシュペーアの奇跡と称させる程、工業規格統一による生産体制の効率化できていた。
イタリアも史実で、工業規格が統一されてなかった事で兵器の大量生産できなかったからそれを避ける為に私が転生した当初から話を進めていたんだけど、各企業や王侯貴族、各省庁等の様々な利害関係や職人が難色を示した事があった為、
初めの頃はファシスト政権...特に私をよく思っていないシチリアマフィア等に妨害されたりもしたけど、丁度その時期に内務大臣へと就任したモーリさんが再び警察とカラビニエリを総動員して、マフィア狩りを再開した事で妨害どころかシチリアマフィアが壊滅状態にまでなったから、マシにはなったなぁ。本土のマフィアに関しては全て殲滅したらしいし、改めてモーリさんは凄いわ...
まあ、そのおかげでもあって、今では工業規格統一の交渉が最終段階まで来ている。
「はい、ほぼ話は
「そう。ならもっと安くトラックを作れて南部の人達にも供給できそうだね」
「そうですね」
-ドイツ:ベルリン リッベントロップ事務所-
1936年11月25日
この日、ベルリンのリッベントロップ事務所に日本の全権大使である武者小路駐独大使とイタリアのチャーノ外務大臣が集い、日独伊三国防共協定に署名した。
この協定は史実と違い、実効性を持たない骨抜き条約とならず、日本が極東ロシア大公国と軍事同盟を結んでいる為、はっきりと対ソ連を意識した協定となった。
独伊に関しては、史実以上の戦力をスペイン内戦に早期から派遣し、人民戦線への対応に当たっていることもあって、三国間のコミンテルンに対する危機感は非常に高いものだった。
更に史実とは大幅に違う事がもう一つあった。それは条項の中に協定加盟国のいずれかが、ソ連よる挑発による攻撃・攻撃の脅威を受けた場合、史実ではソ連を援助せず、締結国間で話し合いが行われるのだが、この世界線では攻撃を受けた場合、全ての加盟国がソ連から攻撃を受けた加盟国の戦闘を支援する事になっていた。
そして、全面戦争となった場合は、ソ連に対して加盟国が宣戦布告するとの記載されていた。この後に極東ロシア大公国と満州国、スペイン王国にオーストリア=ハンガリー二重帝国とフィンランド、ルーマニアとブルガリアが加盟した。
この協定の締結以降、ソ連による極東ロシア大公国と満州国との国境紛争が少なくなり以前の半分以下となったのは有名な話ではあるが、大規模衝突の時、日独伊が共同でソ連軍と戦うことになるのは、まだまだ先の話である。
1936年12月11日
この日の早朝、史実で※②西安事件の首謀者である※③張学良が
その当の本人である張学良は、その2日後に満州国にある施設の尋問室で目を覚ました。目の前には2人の日本陸軍の将校と2名の憲兵の4人が居た。目を覚ましたのに気付くと丸眼鏡をかけた上級将校が口を開いた。
「こんにちは、張学良…まさか蒋介石行政院長兼軍事委員会委員長を連行し、条項8項目を認めさせ、抗日の為に第二次国共合作を画策するとは...呆れますね」
「何故わかった...まだ私は部下や家族にも言っていないんだぞ...」
「我々の偉大なる永田閣下が事前にこの計画の事を教えて下さったのですよ。それに我々が長年取り組んできた対ソ連戦の為の日中関係に亀裂を入れようとする危険人物を放置するとでも思いましたか?」
「父を殺した貴様ら日本人を満州の地から追放する為ならば、私は悪魔にでもなってみせる...」
張学良はその上級将校を力強く、憎しみを込めて睨みつけていた。
「そうですか...なら話し合いは無用ですね。後は任せます」
そう言うと隣にいた別の将校に席を譲り、尋問室から上級将校は去っていった。尋問室を出たその人物にある人物が話しかけた。
「すいません。東條少将、私が起こしたことの最終的な後始末までさせてもらって」
そう声をかけた人物は、石原莞爾である。そして、その石原が声をかけた人物は、史実で大東亜戦争中の首相であった東條英機であった。
「いえいえ、私は永田閣下からのご指示を実行したまでに過ぎません。むしろ石原少将の様な優秀な方を満州に寄越して下さって有難いです。関東軍に大きな影響力を持つ石原少将がいれば、※④満洲産業開発五カ年計画が順調に進みます」
「ええ、第二次国共合作を阻止出来た事で中華民国との戦争が起きませんからね。それに私が望んだ満州国の完全な独立と対等な
「そうですか...永田閣下は有言実行する方ですからね。仮に意見が違ったとしても私は永田閣下の忠実なイエスマンですから、何時までも永田閣下についていきます」
その言葉に石原は苦笑いする。
「まあ、来年からはお互い関東軍参謀長と副参謀長という立場ですから、来年もまたよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
「それにしても...」
「はい?」
「あの
「それは永田閣下から、絶対に辞める様に言われてましたよね!!下手したら国際問題に発展しますよ!?」
「いや、それとこれとは幾ら永田閣下でも話は別だ...男と男の決闘で勝負をつけなければならない...永田閣下の夫となる者がどちらが相応しいかを」
その言葉に石原は頭を抱えながら呆れていた。
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イタリア王国軍記〜美少女ムッソリーニに転生したのでイタリアを改革しイタリア軍にやる気を出させイタリアを勝利に導く〜を
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補足説明(ウィキペディア参考)
① ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーア
アドルフ・ヒトラーのお気に入りの建築家で全国党大会会場等の設計を手がけた。彼が本領を発揮したのは1942年の軍需相就任からで、部品の共通化を推進し、半年で全体の生産量が27%増加し、1943年には飛躍的に増加シュペーアの奇跡・装甲の奇跡と呼ばれた。
②西安事件
1936年12月12日に中華民国陝西省西安で起きた張学良・楊虎城らによる蔣介石軍事委員長拉致監禁事件。この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。後世の評価ではこの事件が起こらなければ、このまま中国共産党は敗れ、ソ連に亡命するしかなかったと言われている。
③張学良
奉天軍閥の総帥である張作霖の長男。当初は大日本帝国に協力的だったが、張作霖爆殺事件で日本に対して、心の底で恨みを募らせていた。満州事変では国民政府の方針通り日本と積極的に戦わずに不抵抗を指示したが、満州全域を占領された。その後、アヘン治療をかねてイタリアのムッソリーニとドイツのゲーリングに面会し、ファシズムに影響を受けて中国にも力強い指導者が必要だと考えるようになりなった。イタリアの訪問最中にムッソリーニの娘でチャーノ外相の妻のエッダと愛人関係になったとされている。帰国すると中共内戦に東北軍を率いてたが連戦連敗し、1936年4月6日に周恩来と極秘に会談して、抗日救国停戦を結んだ。10月2日に蒋介石が訪れ東北軍を福建に移して、張学良を警告した。12月4日に蒋介石が再び訪れ、北西軍と東北軍を督戦する為に10日に軍首脳部を収集して、張学良の解任を決定した。12月12日に張学良は西安事件を起こして、中共合作を認めさせた。その後、反逆罪で逮捕され1975年の蒋介石が死去するまで、軟禁されていた。2001年に100歳で死去するまで西安事件のことについて語らなかった。
④満洲産業開発五カ年計画
1936年の2・26事件以後日本は軍部主導のファッショ化、準戦時体制化に向かい急速に経済の軍事化を進めた。本計画は、満鉄「日満財政研究会」の案をもとに、関東軍、満洲国政府、満鉄の関係者による1936年10月の協議を経て具体化し、1937年1月、関東軍の「満洲産業開発五カ年計画要綱」にて確定され、同年4月から開始されることになった。1937年2月に関東軍司令部が作成した計画要綱によれば、この政策の目標は、有事の際必要な資源の現地開発に重点をおき、あわせてできるだけ満洲国内の自給自足と日本の不足資源の供給を図るというものであった。端的にいえば、対ソ戦に向けての経済基礎を構築することが目的であった。そして同計画は、満蒙開拓団に代表される日本人農業移民の計画的大量送出計画、ソ連国境地帯の戦略的整備と開発を目的とする北辺振興三カ年計画とならぶ「満洲国」の三大国策となり、1939年からは日本の生産力拡充計画に組み込まれ、強力に推進されることになった。しかし、日中戦争開戦により計画は白紙になってしまった。この世界線では永田が生きていること、極東ロシア大公国と同盟関係にあることでより、対ソ連を意識した計画となっている。そして、史実より国力がある日本の莫大な投資等も相まって、満州は急速に発展している。
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