第20話 第二次エチオピア戦争への最終準備
-イタリア:ローマ ヴェネツィア宮殿 世界地図の間-
1935年8月13日
その日、首相官邸について仕事を始めようとしたときにチャーノ外務大臣が会いに来た。
「ドゥーチェ、今朝の新聞は見ましたか?」
「まだ見てないね。なんかあったの?」
「ドゥーチェが一月ほど前に永田少将に礼を言えとの事で、言われた通りに駐在武官に会いに行かせたのですが、その時に永田少将が襲撃されていて駐在武官が助けたそうなのですが.......」
相澤事件を防いだのか良かった。これで太平洋戦争時の首相が東条英機になることはなく統制派のトップの永田鉄山になるね。東条英機なんて永田鉄山が暗殺された事で後任についたに過ぎないし、永田鉄山が優秀すぎて他の統制派の人物が後を継ぐ程の能力がなかったって言われる程だったから、これで日本が史実よりも上手い立ち回りをするかもしれないね。
......ん?
「で?その後に何かあったの?」
「はい、実は襲撃者を倒した後にその駐在武官が永田少将に告白したそうなのです。永田少将は断ったそうですが...」
「...は?」
えっ?どうゆうこと?駐在武官が男色だったとか?いや…同性愛って世界的には受け入れられて来ていた前世とは違って
「ねぇ、永田少将って女性だったりする?」
「はい、そうですが知らなかったんですか?」
やっぱり、という事は永田鉄山が日本に居る転生者か…永田が生きていることで東条英機が首相になることはないから、事実上の日本の次期首相になるね。同じ転生者としても今の内に関係を築いた方がいいかもしれない。相手が結婚しているかどうかは知らないけど、日本では女が家事・育児で男が仕事って言う昭和の考えがあるから、もし結婚なんてしていたら軍人になっていないと思う、だから恐らく未婚かな…だったら都合のいい人がいるから、それを使うしかないね。
「チャーノ。日本に居る駐在武官に言っておいて、相手が折れるまで何度も告白しなさいってね。これは私からの命令だから」
「わかりました」
まあ、私の指示がなかったとしても、イタリア男なら普通にやりそうだけどね。
1935年9月15日 午後
「ドイツが新しい国旗を制定か…」
ドイツで
「同じ日に制定された筈の※①ニュルンベルク法がないね…」
やっぱりヒトラーが転生者だからか、ニュルンベルク法が制定されなかった。まあこの世界では※②職業官吏再建法暫定施行令と※③アーリア条項が出されてないから大丈夫だとは思っていたけどもし仮にあったら、我が国と保護国のアルバニアと中立国のスウェーデン、永世中立国のスイスと史実の第二次世界大戦でユダヤ人を保護したポルトガルとブルガリア、ユダヤ人に対して差別意識が無い日本に協力要請を出そうかと思っていたんだけど、大丈夫だったみたいだったね。この11日後に日本で第四艦隊事件があるけど日本に居る転生者はどの様に対応するんだろう?
1935年9月27日
昨日に史実通りに第四艦隊事件が起きた。但し史実と違うとすれば陸軍の統制派が事前に海軍に忠告していたと言うこと位か、恐らく統制派の影響力を海軍にまで拡大させるつもりなんだろうけど、日本の陸海軍の関係悪いから、どれ程影響力が広がったかはわからないけど。そのような事を考えていると目的地に着いた。
「ドゥーチェ、国防省につきました」
「ありがとう」
国防省(※まだ庁舎が出来てない為、臨時で戦争省が国防省となっている)の参謀本部に来ていた。そこには既に国防大臣のバルボや前軍務大臣、陸海空軍(主に陸空軍)の参謀達が集まっていた。そして、私が来てから数分後に国王陛下が到着してから、軍の作戦会議という名の国王陛下と私へ対エチオピアの侵攻計画を軍部が発表する事であった。
「国王陛下並びにドゥーチェ。この場に来て下さりありがとうございます。早速ですが、この地図をご覧下さい」
本来、第ニ次エチオピア戦争初期には戦争に関わってないはずの参謀長の※④バドリオ元帥が発表する様だ。机に広げられたエチオピアが描かれた大きい地図を指し示し棒を使って説明してくる。
「まず北部のエリトリアに※⑤ボーノ元帥を司令官とする約20万人が展開しています。指揮下には4個歩兵師団並びに1個山岳師団、エリトリア植民地軍所属の2個歩兵師団、2個黒シャツ師団と3個騎兵連隊、1個快速師団と第一空挺師団他多数の補給部隊が展開しています。開戦後の2週間後には4個山岳師団が加わる予定です」
「そして南部のソマリランドには※⑥グラツィアーニ大将を司令官とする約8万人が展開しています。指揮下には1個歩兵師団並びにリビア植民地軍所属の1個歩兵師団、ソマリランド植民地軍所属の1個歩兵師団、1個黒シャツ師団と8個騎兵連隊、1個快速師団他多数の補給部隊が展開しています」
史実よりも展開している部隊が増えてる。史実よりも早く創設させた空挺師団と快速師団が追加されているのとベットーニ少佐との会話で騎兵連隊の多くの将兵が活躍出来る最後の戦いって思っている部隊が多いって聞いたからバルボに頼んで多く派兵してもらった事が影響しているんだろうけど
「そんなに多くの兵を展開しているけど補給は大丈夫なの?」
「大丈夫です。イタリア本国並びに保護国のアルバニアの軍需工場をフル稼働して戦争継続出来る武器弾薬は1年くらい平気で戦えるように蓄えています。これからも作り続けるので問題はないです。石油等も自給出来るので戦争継続出来ます。輸送も海軍が輸送艦をほぼ全て貸し出してくれるので問題ないです」
「ありがとう。経済制裁を受けた場合の備蓄はどの程度あるの?」
「はい、ドゥーチェの※⑦小麦戦争政策で国内の小麦の自給率は100%を超えていますのでパン等は大丈夫です。その他は多少影響はあるかもしれませんが、英仏との不可侵条約に盛り込まれた内容で5年間お互いに経済制裁等を行わないと記述している為、問題ないと思います。それとドイツ、オーストリア・ハンガリー二重帝国、トルコとの全ての貿易は継続すると決まっていますので問題ないです。それに満洲事変での国際連盟が日本に対して制裁が出来なかった前例がありますので、仮に行う事が出来たとしても強力な制裁を行えないのは明白ですのでそれ程心配はないです」
「ありがとう。補給と備蓄は問題ないか…侵攻ルートはどのような感じになっているの?」
「はい、10月2日の宣戦布告後の一日後にエリトリアの3個軍団で攻勢を開始します。既にオーッサ・スルタン国に1個軍団が入っていますので此処を北部戦線の補給地点とする予定です。南部戦線では暫く国境での守備が中心です。攻勢開始はドゥーチェの指示で始まるようにしています」
「ありがとう。ソマリランドにいる部隊には2ヶ月程待ってもらうから、そのつもりで」
「わかりました」
その後も色々話し合ったけど、事前にある程度内容は聞いていたので、特に大きな問題等はなくスムーズに進んだ。会議が終わった後に私はバドリオ元帥を呼び出した。
「失礼します。お呼びでしょうか?」
「ええ、2ヶ月後には貴方が北部戦線の司令官になることの報告よ」
その時、バドリオ元帥は目を大きくして驚いた後に私に聞いてきた。
「司令官は、国王陛下が任命するので、いくらドゥーチェでも勝手に司令官を変更することは無理だと思うのですが?」
「ボーノ元帥の性格から考えて伝統的な植民地戦争のやり方で戦争を進めると思う。昔ならいい選択だとは思うけど、そんなやり方では時間がかかる。国際連盟の制裁が強まる前に我が国は出来るだけ早くエチオピア帝国を降伏させたい。そのような行為が見られたら後任の司令官にバドリオ元帥にすることは既に国王陛下に話をつけている。だから、何時でも司令官に代われる様に準備しておきなさい」
「わかりました」
「それと恐らくだけどエチオピア軍が攻勢を仕掛けるとしたらクリスマスだと思うの、私達にとっては祝日だけどイスラム教ではただの平日よ。そんな絶好な機会を相手が見逃すとは思えない」
「わかりました。司令官に代わり次第防衛線を構築し兵にもクリスマスであっても警戒するように厳命致します」
「ええ、頼んだよ」
1935年9月28日
史実通りエチオピア帝国が総動員令を宣言した。
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イタリア王国軍記〜美少女ムッソリーニに転生したのでイタリアを改革しイタリア軍にやる気を出させイタリアを勝利に導く〜を
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補足説明(ウイキペディア参考)
①ニュルンベルク法
1935年9月13日のニュルンベルクで行われている党大会中に突如ヒトラーは、二日以内にユダヤ人から公民権を奪う法律を起草する様に内務省に命じた。4つの候補となる法案が作成されてヒトラーに提出された。その中から2つ選び修正を加えた後、9月15日に緊急に招集した国会で可決された。可決された法律の名前は「帝国市民法」「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」この二つをあわせて「ニュルンベルク法」と総称された。前者はユダヤ人は政治的権利は一切ないとされた。ユダヤ人を2等国民に落とした。後者はユダヤ人がドイツ人との婚姻等を禁止し雇うことやドイツ国旗を掲げることを禁止した。この法律制定後にドイツ中の店に「ユダヤ人お断り」の看板がかけられるようになった。アーリア人とユダヤ人で分けられていた。但し例外があり書類を偽造すればユダヤ人であろうとアーリア民族認定を受けることが可能であった。例としてヘルマン・ゲーリング国家元帥が出生の関係書類を改ざんしアーリア人としていた。
②職業官吏再建法暫定施行令
1933年4月7日に制定された。非アーリア人種並びに政治的に信用できない人物(左翼)を公務員から追放した。この法律は、非アーリア人種がユダヤ人を指していることは明らかだったが、肝心の非アーリア人種(ユダヤ人)を定義していなかった。
③アーリア条項
ヒトラー内閣内務大臣ヴェルヘルム・フリックは、「ユダヤ人とは『宗教』ではなく、『血統』『人種』『血』が決定的要素であり、ユダヤ教徒出ないものにも『ユダヤ人性』を追及しうる」と述べた。この法令により非アーリア人種がユダヤ人であることが明言され、両親・祖父母のうち誰か一人でもユダヤ教徒であれば全てユダヤ人となると定めた。その後の修正でユダヤ人、第一級ユダヤ人混血(ハーフ・ユダヤ人)、第二級ユダヤ人混血(クォーター・ユダヤ人)と分けられた。第一級・第二級ユダヤ人を合わせると150万人近くになり問題が多かったのでそれだけの数を兵役対象から外すのは国防軍から難色を示された。その事はヒトラーも同意して「非アーリア人種の中でも第一級ユダヤ人混血と第二級ユダヤ人混血については、これまでに政治的(左翼活動等)がなければ、ドイツ国防軍の兵役に服すことができる」と定めた。
④バドリオ元帥
本名は、ピエトロ・バドリオ。1935年から始まった第二次エチオピア戦争では当初はこの戦争に関わっていなかったが、11月に入り慎重策をムッソリーニから非難されていた。ボーノ元帥の目付け役として参加した。ボーノ元帥が罷免されると後任の司令官となった。バドリオは着任して間もない12月25日にエチオピア帝国軍が19万人で攻勢をかけた(クリスマス攻勢)。この攻勢をなんとかしのいだバドリオ元帥はムッソリーニから攻勢許可を得た南部戦線司令官のグラツィアーニ大将の活躍に誘発され、各軍に強行軍で進撃させた。頑強な抵抗をする地域や主力が集まるところには、毒ガス散布・焼夷弾爆撃を行ってムッソリーニの要望に答え早期征服を実現した。翌年の5月5日にバドリオがアディスアベバに入城した。その後、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によってイタリア領東アフリカ帝国の副王並びにアディスアベバ公爵位を賜った。第二次世界大戦参戦前に反対した為、隠居生活を送ったが1943年にムッソリーニ失脚後の首相に任命された。バドリオは国王の意向を受け連合国側と秘密裏に休戦交渉を行った。9月3日に休戦協定が結ばれた。ところが9月8日に連合軍司令官のアイゼンハワーがイタリアの了承なしにイタリアの降伏を宣言した為、ドイツ軍がローマに迫った。国王一家とバドリオ政権の閣僚は南部に逃走した。ムッソリーニが北部でドイツの支援の元、イタリア社会共和国を樹立し内戦に突入する。その後連合軍によるローマ奪還時にローマに帰還したもののローマを捨てて逃亡したとして国民からの支持を失っていた。このため首相の座を譲った。
⑤ボーノ元帥
本名をエミーリオ・デ・ボーノ。ファシスト四天王の一人。第二次エチオピア戦争で慎重な用兵で進軍が遅れたことからムッソリーニの不興を買って同年にバドリオ元帥に指揮権を移した。
⑥グラツィアーニ大将
「フェザーンの屠殺者」「リビアの調停者」のあだ名で敵からは恐れられ国民からの支持が厚かった。第二次エチオピア戦争ではソマリランド総督であった為、ソマリランド方面軍司令官となった。トルコの援助で建設された要塞戦「ヒンデンブルク壁」に立て籠もるエチオピア帝国軍を退けて突破しオガデン州を制圧してアディスアベバを進撃を強めた。既に主力が壊滅し統率された軍がいなかった為、帝都アディスアベバ占領の名誉をバドリオ元帥と争い帝都アディスアベバに向けて進撃したが1935年5月5日にバドリオ元帥が一歩先に帝都アディスアベバに入城していたことを知った。戦争後に陸軍元帥に昇格した。1940年に英連邦軍のコンパス作戦で11万5000人の捕虜を出した責任を取り軍を退役した。北部でイタリア社会共和国が樹立すると軍に復帰して国防大臣並びに軍集団司令官として連合軍と戦った。1945年4月29日に連合軍と休戦交渉を行い、国防大臣並びに軍集団司令官のグラツィアーニの署名で武装解除された。
⑦小麦戦争政策
農村部で貧農が都市部に職を求めて流れ込み社会問題になったことから、農村部の開拓による公共投資で農村の失業率改善や小麦の増産を目的として「小麦戦争」と題した大規模な開拓政策を実施した。5000箇所の小麦農場を整備しそれを中心に5つの農業都市を建設する構想を立てた。農業都市の建設は国家ファシスト党の支援団体の一つである全国兵士協会の協力を得て行われ、農地開墾を行った。小麦戦争は開拓事業で農業従事者を増やすことと穀物の増産には成功したが、小麦増産にこだわったことで開拓地に不向きな土地であっても小麦生産を強制した。但しこれは最終的に失業対策や農業増産・公衆衛生の改善に繋がった。この結果小麦の自給率が75%上昇し自給率が100%を超えた。しかし、開拓と農業政策は政府が農家に支払う助成金の増額に繋がり、失業率改善と農業生産力向上を果たし人工の増加には効果がでたものの経済回復には寄与しなかった。
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