第10話 アレクサンダル1世暗殺 緊張する連盟理事会

前書き 

8話では10月20日にSM.79の原型機が初飛行(史実で10月日付は不明)したといったのですが、9話は1934年10月9日の話なので8話の日付を変更します。

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-イタリア:ローマ ヴェネツィア宮殿 世界地図の間-

1934年10月9日


 何時もより早くドアをノックして、アンナが慌ただしく部屋に入って来た。


「ドゥーチェ失礼します」


「どうしたの?」


 アンナが報告書を読み上げる。


「駐仏大使館から緊急の報告が有りまして、フランスのマルセイユを訪問中だったユーゴスラビア王国の国王、※①アレクサンダル1世が暗殺されたそうです。それとフランス外務大臣の※②ルイ・バルトゥーが流れ弾で重症だそうです」


「そう」


 そう言えば、今日だったんだ…確かこの後にルイ・バルトゥーも手当てが遅れて亡くなってしまうんだよね。そう言えば、この事件の犯人は誰だったっけ…?


「それで犯人は捕まったの?」


「いいえ、その場で警官に射殺されたそうです。所持品からチェコスロバキアのパスポートを所持していたそうですが、偽造品である可能性が高いそうです」


 あぁ思い出した。確か犯人はクロアチア人の※③ヴラド・チェルノセムスキーでアンナが言ってたパスポートはハンガリーで裏書きされたものだったはず…そして、黒幕は不明だけど、彼の所属する組織がハンガリーにあったことで、ユーゴスラビアがハンガリーに国際連盟で弾劾する訴告したんだよね。史実ではイタリアがハンガリーの支援に、フランスがユーゴスラビアの支援について連盟理事会が一時緊張したんだよね。そこへイギリス代表の※④アンソニー・イーデンが「連盟理事会は責任重大であると自覚すべき」と論じて両国が態度を軟化させて落ち着いたんだよね。


「ドゥーチェ?」


「ん?あぁごめんね。考えごとしてた。ユーゴスラビア王国に弔電を送っておいて」


 まぁでも、この時期のイタリアって、ユーゴスラビアと仲が悪いんだよね。ハンガリーを史実通り支援するとして、どうするか…


「わかりました。それと先程、オーストリアのドルフース首相から連絡が来ているのですが、ご覧になりますか?」


「ドルフース首相から?勿論見るよ」


「わかりました。今取りに行くのでお待ちください」

 

 そうして、アンナが部屋から出ていた時に私は一人部屋で呟いた。


「オーストリアか…良い方法があったね。ハンガリーがピンチの時、イタリアとオーストリアが支援する。二重帝国を再建させる動きを加速させるには、この事件を利用しない手はないね」


 その後アンナが戻って来てドルフース首相からの連絡書を渡してを一通り読んだ後


「アンナ。連絡の返信ともう一つ別にドルフース首相へ伝える事が有るから、駐墺大使館に送っておいて」


「分かりました」


 そうして、史実通りユーゴスラビアがハンガリーを国際連盟で弾劾の訴告をした。それを外務大臣を殺されたフランスが支持して、イタリアとオーストリアがハンガリーを支持して連盟理事会が史実以上に緊張した。まあ、その後は史実通りイギリス代表のアンソニー・イーデンが「連盟理事会は責任重大であると自覚すべき」と論じて伊仏墺が態度を軟化させて、事態が落ち着いたんだけど、史実にはないオーストリアがハンガリーを支持したことで、歴史が大いに狂い始めたのは言うまでもない。


 そこへイタリアとオーストリアの影響を受けるファシスト系の新聞を中心に今回の出来事がハンガリー中に広まり、更にそこへオーストリアから提案されていた二重帝国の再建についての話がハンガリー国民にも広まり始めた。その結果、ハンガリーの二重帝国の再建への動きが加速し始めた。



−オーストリア:ウィーン−


「やはり、ハンガリーとの交渉は難航しているのか?」

とドルフース首相は外務大臣に問う。


「はい、それとアレクサンダル1世の暗殺については、どうしますか?」


「それは、弔電を送るに決まっている」


「分かりました」

 

 その後も報告が続いたが特に何事もなく終わり外務大臣が首相室から出ていった。


 出ていった後に首相室に入って来た秘書が言う。


「首相、イタリア大使が来ていますがどうしますか?」


「あぁわざわざ大使殿が来なくても良かったのに…すぐに会う」


「わかりました」


 そうして秘書がイタリア大使を呼びに行き。イタリア大使が首相室に入って来た。


「そろそろ夕食だと思います、がすいません。ドゥ…失礼、ムッソリーニ首相から連絡の返信と、もう一つ連絡がドルフース首相宛に届いて来たのでそれを渡しに来ました」


 そうして、書類(ドイツ語に翻訳した連絡紙)をドルフース首相に手渡した。


「ご苦労さま。しかし、随分早く返信してきましたね。昼頃に連絡をしたというのに」


 そうして渡された書類を読み始める。そして、読み終わった時にドルフース首相は感心していた。


「なる程…確かにこれを利用しない手はないですね。これが終わった後にハンガリー国民を煽り、二重帝国再建の声が大きくなれば、流石のホルティ摂政でも同意せざる負えなくなるでしょう。元々ホルティ摂政と私の考えは似ているのですから」


 その時のドルフース首相の様子を後にイタリア大使はこう述べている「まるで悪魔のような微笑みであった」と



−ハンガリー:ブダペスト−


 ホルティ摂政、並びに大臣達も困惑していた。


 まず、ホルティ摂政の海軍時代からの副官が報告する。


「イタリアとオーストリアが支援してくれた事で難とか弾劾訴告は免れましたが、国民にオーストリアとの二重帝国再建について乗るべきとの意見が広まっており、決断をしなければならない程にまで我が国は迫られています」


「報告ありがとう…皆はどう思っている?」


 まず、内務大臣が言う。


「ここ迄国民に広まっていますと、火消しは不可能かと思います。それに再建がなれば、ハプスブルク家の帰還が叶います。なので、私は賛成です」


 その後も次々と賛成の意見が上がった。


 そして、ホルティ摂政も大臣達の意見を聞いた上でホルティ摂政が話し始めた。


「元々、私も迷っていた。オーストリアが始めて二重帝国再建の話を持ち込んだ時からな、大臣達のみならず国民も二重帝国の再建を望むのならば、私は何も止めはしない。偉大なるハプスブルク帝国を再建出来るのならばいいだろう。それに今回はイタリアとオーストリアがついている。※⑤10月危機の様にチェコスロバキアが軍で脅そうものなら、オーストリアと共同であたり、イギリスはイタリアとの戦争を避けるであろう。何より先の世界大戦の様な事をイギリスは起こさせたくないだろうからな。ユーゴスラビアは国王の暗殺によって混乱しているから、まともに軍を配備出来ないであろう...邪魔の入らない今が好機だ。外務大臣、オーストリアとの交渉を纏めてくれ。それからハプスブルク家方々の帰還を頼む。そして、陸軍大臣は万が一の為にチェコスロバキアとの国境近くに軍を配置してくれ」


「「分かりました!」」

 

 外務大臣と陸軍大臣が声を揃えて言う。


 そして、誰もいなくなった会議室でホルティ摂政は呟いた。


「双頭の鷲が再び飛び立つか…」

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イタリア王国軍記〜美少女ムッソリーニに転生したのでイタリアを改革しイタリア軍にやる気をださせイタリアを勝利に導く〜を

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※補足説明 ウィキペディア参考

①アレクサンダル1世

第一次世界大戦前はセルビア王国の王太子で第一次世界大戦中にセルビアが占領されるとユーゴスラブ統一を掲げて運動し戦後のユーゴスラビア王国の形成に貢献した。1921年にセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の王位を継承しセルビア人の専制主義を築いてクロアチア人の激しい反発を招いた。こうしたクロアチアの抵抗運動を抑える為に更にセルビア人の専制権力を強化した。1928年6月20日にユーゴスラビア国会の議場でクロアチア農民党指導者が射殺されたのをきっかけに民族対立により議会が機能しなくなると翌年の1月6日にクーデターを敢行、独裁政治を布き10月3日に国名をユーゴスラビア王国と改めた。1932年11月7日にクロアチア自治派とその他在野派がザグレブで完全な自治権を求める決議を表明すると、ユーゴスラビア政府はセルビア系以外の政治勢力を弾圧して多くの政治家が投獄・幽閉・流刑・国外追放された。1934年10月9日にフランスのマルセイユを訪問した際に②と乗車していた際に③に射殺された。


②ルイ・バルトゥー

フランス外務大臣。1934年10月9日に射殺。


③ヴラド・チェルノセムスキー

①と②を射殺した人物。暗殺後にその場で警官に射殺。犯行の黒幕は不明。


④アンソニー・イーデン

1935年12月に国際連盟担当の無所属大臣となり22日には外務大臣に就任したが次のチェンバレン内閣で対イタリア政策における意見の対立が解消出来ず辞任した。その後ウィンストン・チャーチル等と共にドイツ・イタリア強硬策を唱えるグループを形成する。少佐として軍務に復帰した。第二次世界大戦勃発後にチェンバレン内閣の自治領大臣として入閣した。その後チャーチルが首相になると陸軍大臣となり1940年12月に外務大臣に復帰した。大戦集結後に首相となったがスエズ運河危機対処の失敗にポンド下落を招いたことにより大英帝国の凋落を招く直接的な原因となった。


⑤10月危機(カーロイ4世復帰運動)

1921年に起きたハンガリーの王政復古運動。カール1世がハンガリー王国に帰還し王位につこうとした事件。国民軍や政府と国民が支持しホルティと8月に話し合い支持を表明したが小協商(バルカン)諸国が反発しチェコスロバキアとユーゴスラビアが国境に軍を配備しハンガリー王国軍が応戦する立場をとったがハプスブルク家の復活を認めないイギリスがアドリア海に艦隊を派遣し圧力をかけ、カール1世を逮捕した。ハプスブルク家の帰還が不可能になった事件。

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