2.回顧
「そこの角を左に曲がれば、対象Iがいる高級住宅地です」
ハンドルを握るランサーが、ハリアーを徐行させながら指差して説明する。
「引き継ぎ場所は」
「ここから200メートル先、空き地に車が停まっています。そこが拠点なので、ハリアーを交代相手に預けます」
「車が拠点なのか」
「中にモニターがあって、監視カメラの映像を収集しています。あとは通信システムの親機も搭載しています」
雑草がまばらに生える空き地には、銀のメルセデス・ビアノが停車していた。ランサーがハリアーから降り、後部ドアをノックする。
「本部付きです」
お決まりの合言葉。それに応えてドアが開き、中からスーツ姿の局員二人が現れる。
「ランサー?」
「はい。交代です」
「対象Iは自宅だ。出かける気配はない。直接監視に当たっている局員は三人で、一人は勝手口、一人は玄関、最後は家の庭が見える裏道にいる」
「ありがとうございます」
「装備品だ」
局員がジャケットの裾を上げ、腰からカイデックス・ホルスターを外す。中に収まっているのは、自動拳銃スプリングフィールドXDM。それを受け取り、右腰に提げてジャケットで隠す。
ビアノの中には椅子が二脚あり、モニターや親機と向かい合うかたちで並んで座る。四つのモニターは、それぞれ対象Iの自宅と付近の道を映していた。人通りはまるでなく、いつまで経っても皆が狸寝入りしているような雰囲気だった。ある種の異様な風景に目を光らせる。
「これを」
ランサーがインカムを差し出してくる。
「識別コードは、葉月さんが
「どうあがいても五人だけか」
「はい」
「...せめて監視要員だけでも増やせなかったのか」
「無理でした。非武装でもいいから、と打診したんですが」
小さくため息をつき、通信機のスイッチを入れる。
「R1よりR班各位、任務の引継ぎを完了した。引き続き警戒監視を続けろ」
〈R3、
〈R4、
〈R5、
全員からの返事を受け取り、姿勢を正してモニターに向き直る。調整する時間すらなかったのか、植え込みの葉が画角の半分を占めているなど、映像の質は悪い。このままではまともに監視することは不可能であり、無線での視覚共有が監視の肝となるのは明らかだった。
「カメラの映像は信用できん。常に無線を開いて、異常があれば報告しろ」
「昔は、もっとマシでしたか」
「まあな。カメラだって、もう少しまともな映像が来てたぞ。ラジコンを使うことだってあった。創意工夫で切り抜けてたし、任務完遂のためには人を惜しまなかった。ほかの局から呼び寄せて、七十人体制を敷いたことだってあった。二十年近く前だがな」
「2003年の‘‘アズマ事案’’ですか」
「よく知ってるな」
「‘‘史上最悪の後処理作戦’’として、機密情報保守局で必ず教わりますから」
「最初は北の工作員を追っているはずだった。それが中国の化けた
「奪われたリストの所在は、今もわからないとか」
「日本にいた各国の諜報員のリストだ。下手に探し回って怪しまれるより、情報が漏出した諜報員を前線から引き揚げさせることを優先したのさ。その方がダメージも支出も少ない。中国側に聞いてみても、‘‘そんな諜報員は知りません’’の一点張りだったからな。ただ、敵同士で嗅ぎまわっているはずの諜報員たちに、共通するリストがあったんだ。ビビったよ」
「もし」
「ん?」
「もし、そのリストが今見つかったら...」
「そんなわけねぇ。あり得ねぇよ」
「あり得ませんか」
「十九年前に出て行った情報だぞ。いくら当時一級クラスの諜報員だろうが、今は死んでいるか隠居しているかだ。お前が言っていた通り、もう昔の...俺たちが現役だったころの世界じゃない。仮に見つけた奴がいたって、2003年の表記を見たら気落ちして焚火にくべるだろ」
沈黙が訪れた。ランサーは口をつぐみ、澱んだ雰囲気に抵抗するようにモニターに食い入る。
〈R5より報告〉
突然、インカムから局員の声がした。すかさず通話ボタンを押す。
「こちらR1。報告せよ」
〈対象Iの自宅に接近する人影を確認。黒いスーツの三人組で、一人は女、二人は男です。我々の仲間ではありません〉
ランサーと顔を見合わせる。取引に現れた、ロシアの現地工作員の可能性が高い。
「すぐに行く。もし入ろうとしたら、構わず撃て」
〈...
「葉月さん待ってください、俺が行きます」
「人違いならどうする。判断を間違って銃を抜いたら終わりなんだぞ」
「でも‘‘撃て’’と...」
「それは‘‘無理やり入ろうとしたら’’の話だ!」
袖をつかむランサーを振り払い、ビアノのドアを開けて走り出す。
200メートル弱とは、これほど長い距離だったか。養成局の教官という立場になって以来、欠かさなかったはずのトレーニングが、まるで役に立たない。対象Iの自宅前の差し掛かった頃には、上がる息に肺が悲鳴を上げていた。
「...戻るぞ」
見知らぬ声がする。肩で息をしながら顔を上げると、R5の報告にあった通りの三人組が目の前にいた。全員が日本人で、リーダー格の女は腰に手を当てている。
「待て、お前ら」
「...」
「
探りを入れる。女の目が細くなり、右手がジャケットの下に入る。
「手を退け。桜田門とやりあう気がないなら、それが得策だ」
「馬鹿げたことを。お前たちと同じように、私たちにも任務がある」
「両国の然るべき機関が動いている。こんな住宅街でドンパチなんぞ、避けたいと思う方が普通じゃないか」
「ならば、そちらが介入しなければいいだけだ。私たちも情報を強奪するわけじゃない。決められた時間に、決められた分の札束と交換するだけだ」
「それが大問題だ。情報の中身を知っているのか」
「当然だ。日本における、未確認の対外諜報機関に関する計画文書。お前たちのような防諜部隊が、必死になって探すわけだ」
「そこまで知っているなら、今更文書など不要なはずだ。本国に一報入れて、回収を諦めてくれればそれでいい」
「私たちは非正規に雇われている立場。お前たちのような詳細非公開の公務員とは違う。現場の事情には身を任せられず、任務を与えられた以上、その成功は至上命令となる。他国の暗い一面まで知ってしまった私たちは、切り捨てられないように任務を完遂しなければならない」
「聞き分けがないな。ここは日本だ。出ていく情報は、徹底して追わなければならない。そうすることでしか、平和主義という薄いベールは守られない。見えない場所で暗躍する俺たちの間にも、譲歩は必要じゃないか」
三人との距離を詰めようと、左足を踏み出す。すると、今度は男が口を開いた。
「待て!」
男の声が飛び、反射的にその場で踏みとどまる。
「...
背筋が凍る思いだった。ドラグノフ狙撃銃・通称SVD。アンフェアだ。そんな思いが頭の中を跳ねまわり、自分たちには狙撃手のバックアップがないことに憤慨する。
「クソッ...!」
「一言でお前の頭を吹き飛ばせる。しかし、お前の仲間に撃ち殺されるわけにはいかない。今日のところは、手を退こう。行くぞ」
女が右手を上げ、背を向けて歩き出す。三人が路地から外れても、葉月はその背中をにらみ続けていた。
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