第40話 変わる、変わる

 紬の言葉に、花梨は盛大に驚いた後、彼の願いを一旦は拒否した。

 それは勿論、唐突なる紬の心の変化を訝しんだからでもあったが、なにより雫の両親がどんな反応をするのかわからないというのが大きな理由だった。


 それらを正直に言葉にされて、紬は電話口でぐっと眉間に皺を寄せる。

 当然と言えば当然だろうと思う。


 ようやく外に出れるまでに心が持ち直した、記憶を無くした娘が旧知の人間に出会ってショックを受けて倒れてしまったのであれば両親とすればその原因となった人間と、雫を会わせたいと思うはずがないのだ。

 花梨の言葉にも、上手く答えることはできない。


(コクられてフって、そんで実はいつの間にか惚れてました……とかどんだけ都合良いこと言ってんだってハナシだよな)


 実際問題、彼女のことで頭がいっぱいでそれは恋心じゃないと思っていたがどう考えてもそうだろうってようやく自分で負けを認めたというだけの話。

 正確にいつから・・・・なんて答えられるほど器用な人間でもない紬は口をへの字に曲げるぐらいしかできない。


 とはいえ、気が付いたのならば今、ここで尻込みをする理由はなかった。

 雫と改めて会って、彼女が記憶を無くしていようがいまいが自分が知っている彼女だったというような旨を花梨に伝えれば、ほどなくして花梨が『安心した』とだけ返信をしてきたのだ。


 その後はメッセージは未読となり、紬はもう自分にできるのは待つことだけなのだと思ってまたごろりとベッドに転がる。

 自覚した感情は、まるで暴れ馬のように紬の中を駆けまわる。

 ああ、ああ、そうだったのかと体の隅々までにその感覚が追い付く頃には紬の眦から、涙の粒が零れ落ちた。


(俺は、いつだって、……遅すぎる)


 花梨への恋心の時も、それが成就しないとわかってから己の気持ちに整理をつけることも。

 差出人のわからない手紙を、後生大事にしておきながら本当のことを知るのを恐れて行動をしなかったことも。

 雫の言葉が嬉しかったのに、あの時自分が楽になりたいばかりに肝心の、自分の気持ちがまるで見えなかった。


 もし、あの時に愚かしいながらも彼女への気持ちを、少しでも自覚できていたら。


 そうしたら、あの日あんな表情かおはさせずに済んだはずだ。

 もしかすれば、忘れてしまうことを恐れた雫に拒絶されることはあっても、ぎりぎりまで彼女の側にいられたはずだ。


 忘れられてからも、きっと早くに会えて、彼女に寄り添うことができたはずだった。


 遅すぎた。

 なにもかも。


(だから)


 結局、自分勝手になるしかないのであれば、今度こそ間違えてはならないのだと思う。

 それが間違いだったとしても、今みたいな間抜けな想いは、もうたくさんだった。

 とはいえ、今まで後手後手に回っていたせいで彼女との連絡先一つ、自宅の場所も何もかも知らないのだ。

 花梨を通じてどうにかする以外、紬には手立てがない。

 それが現実なのだ。


 苛立とうが焦ろうが、結局連絡を待つしかない。そうしたのは自分だという自覚もある分、紬としてはその苛立ちすべてが自分に返ってくるだけの話でもあった。

 

 だがイライラするだけで、なにができるわけでもない彼はただベッドの上で転がって自己嫌悪に身を浸すだけだ。

 ただ違うのは、今まではその自己嫌悪の中にあってそれで満足していた。

 今度はそれをどう変えていくのか、その気のもちようはかなりの変化であると言えた。


 紬自身に、その変化はまだ掴めていない。

 ようやく理解できた恋心と、遅すぎたあらゆること、これからの困難さに目を奪われている彼には周囲が変化していくことは見えても、自分のことはまるで見えないのだ。


 季節が当たり前のように巡るのと同じように、人は時間と共に齢を重ね、小さな変化を重ねていく。

 それは誰しも当たり前のことであると同時に、葉の一枚一枚が違う色づきを見せるように、紬もまた新しい紬になろうとしている。


 あたかもそれは、紬が雫に抱いた感想のようでもあった。


 何度目かになるのかもわからないため息のまま、既読にならない画面を見てはまたため息、そして自己嫌悪、それの繰り返しだ。

 花梨は紬の言葉に否定的ではなかった。

 安心したということは、少しは協力してくれる気になったのだと紬は思う。


 だが楽観できないのも現実なのだ、そこは見誤ってはならない。


(どうすりゃいいのかな)


 もし、見舞いに行くことを許されたとして。

 そうすれば、必然的に雫の両親とも顔を合わせるかもしれない。


 卒業式のあの時以来、会っていなかった夫妻は娘のことでどれほど辛い思いをしたかもわからないが、そこにきてぶり返すような真似をした紬はどんな顔をすれば良いのか、まるでわからない。

 会わずに雫にだけ、なんてズルい考えが思い浮かんで、消えた。


(違ぇだろ、俺!)


 そんなことをして、どうして雫と向き合えるのだと自分の顔を乱暴に叩いて紬は頭を振る。

 雫に会ったなら。

 まずは、きちんと見舞いなのだから具合を心配するのが筋だ。

 見舞いの品だって持っていくべきだろう。

 

(……あいつ、何が好きなんだっけ。いや待てよ、記憶を無くしてンだから前と完全に同じかどうかもわかんねえのか。……まあそこは花梨に聞きゃなんとかなるだろうが……)


 何も知らないんだな。

 ふとそんな自分が間抜けで、紬は笑わずにいられない。

 おかしいのではなく、呆れを通り越して笑うしかないという状態だった。


 雫が笑った顔を知っているし、苦しくて複雑な感情に、泣きそうで泣かなかった顔も知っている。

 花梨ですら知らないんじゃないのかというそんな表情を見ておきながら、紬は彼女のことを何も知らなかった――或いは何も知ろうとしていなかったという事実に、また落ち込むのだ。


 自覚して、自分がしてきたことを振り返れば落胆する。

 雫と向き合うだのなんだの耳障りの良い言葉を並びたてた所で、結局のところ紬には何一つ・・・できていないのだ。

 これからだと喚いたところでその手立て一つ持っていなくて、どうしてそれを信じてもらえるというのだろう。


 そのことが、ぐっと胸を苦しくさせた。

 それでも、何かしたくてたまらなかった。少なくとも、今度はきちんと想いを伝えたいと思ったのだ。

 あの時、雫のことが眩しく見えた。なんて勇気があるのだろうと感嘆もした。

 それが苦しくてたまらなくて、どうしようもなかったからだと知った今だからこそ、自分もそうすべきだと思い知ったのだ。


 じゃあ会って見舞いの言葉を述べて即告白かと聞かれると、勿論そこまで非常識じゃないと紬は考えている。

 見舞いをして、雫の状態を見てから過去を話して、詫びて、その上で受け入れてほしいと願い出るつもりだ。

 だがもし今回のことで彼女が過去と向き合うことを拒絶するならば、ハジメマシテからやり直したい旨を告げて食い下がる、そのくらいしか今の彼にはないのだ。


(どっちにしろ、雫には負担をかけてるじゃねーか、クソか俺は)


 自己嫌悪から、また知らず知らずにため息が漏れた。そればかりが繰り返される。

 ため息をつくと幸せが逃げるなんてよく聞く話だが、とっくの昔に裸足で逃げ出しているんじゃないのかと思わずにはいられない。


(結局のところ、花梨の返事待ちか。……お、噂をすれば)


 ぽこん、とこの状況とはそぐわない可愛らしい音とスタンプが見える。

 どうやら花梨の方でもひと段落着いたようだった。


 何が紬の気持ちをそうさせたのかはわからないけれど、そう前置かれた花梨からのメッセージを読み進めていくうちに、紬の顔が険しくなっていく。


 そして花梨からのメッセージの最後は、病院の名前と、病室番号だった。

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