第41話 始まってもいないのに、繰り返す

 それは、簡素で清潔な、独特の香りがする部屋だった。

 特別器具に繋がれているわけでもなく、ただ簡素なベッドに横たわる彼女を前に、紬は椅子を引き寄せて座る。

 個室であることも手伝って、とても静かだった。

 恐らく紬が来る前に、彼女の両親が活けたのであろう花が一輪、飾られていた。


(なんて花だっけか)


 よく見かけるような花だとは紬も思うが、残念ながらそれを知っているほど興味があるわけでもない。

 こんな時、改めて紬は思うのだ。

 自分は何も知らないのだ、と。


 昨日、花梨経由で雫の入院先を知った紬はベッドから飛び起きて派手に転び、母親からまた怒鳴られた。それでもそれを気にしている場合でもない彼は、翌日の予定をすべてキャンセルして今に至る。


 面会の許可が彼女の両親から出た旨を受けた紬はすぐさま行動したのだ。今度ばかりはこれを逃せば、次がいつ回ってくるのか……或いは二度とないかもしれないという焦りがあった。

 電車に乗ってバスに乗って、緊張しながら面会の手続きをして。あまりに緊張しすぎて受付で名前を書く時に、ボールペンを持つ手が震えたのは紬自身驚いた。


 だが、彼の緊張はそこで終わらない。

 そこには雫の両親が待っていたからだ。


 なにかを言われると思っていた。その覚悟はしていた。

 だが、何も……本当に、何一つ言われなかった。


 よく来てくれた、とか。来てくれてありがとう、とか。

 彼らは高校の卒業式の時と同じように、どこか疲れた笑みを浮かべて紬を迎えてくれたのだ。


(……言われない方が、堪える)


 詰られた方がずっとましだ。そう思うがそれを許されないだけのことをした自覚はあった。


 ようやく回復した娘、記憶を無くしたところからようやく立ち直った娘。

 どれだけの心痛を、あの老夫婦が味わったのかと思いを馳せた所で紬にはわからない。

 ただ、その原因となってしまったことを申し訳なく思うだけだ。

 そして、それを咎めることもなく、彼女に会うことを許してくれたその優しさに、今は甘えるしかできないことを感謝と敬意をもって頭を下げることしかできなかった。

 

 それでも、紬は睨まれたりひどい人間だと言われた方がマシだと思わずにいられなかった。

 もしそうしてくれていたならば、自分は悪いやつなのだ、責められて当然なのだと悲劇の主人公を気取ることが許されたのだ。それを許されないということがどれほどきついものなのか、身をもって体験するなんて誰が思うだろうか。

 少なくとも紬の中では想像すらしたことがない、遠くの世界の話――それこそ、教科書で見た文学作品や、どこかのアニメで見たような気がする程度のレベルの話だ。


(……俺はどこまでもちっちぇ人間だな)


 誰かに悪者にしてもらって、楽になりたかった。

 それをよりにもよって、苦労しっぱなしである雫の両親に押し付けたくなるだなんて、そんな考えの自分が嫌でたまらなかった。


(くそったれ)


 自分の矮小さを突き付けられて嬉しい人間はいないだろう。

 紬は特に、それを受け入れるにはまだどこか格好つけたがっている自分に気が付いていたから辟易する思いだ。

 なんとかしなければともがいているのに、結局変わっていない自分を見せつけられた気分だ。


 何度となく後悔して、自分が理想とまるでかけ離れたとんでもなく格好悪い男で、そのまま・・ならなさに苛立って、誰かにそうじゃないと慰めてほしいと思っていたり、誰かにそうだと叱り飛ばされたいだなんてどこまでも甘ったれた思考が捨てきれないのだ。


(要するに、駄々っ子みてぇなもんじゃねえか)


 ベッドで眠る雫の顔色は、あまり良いようには見えない。

 とはいえ、パッと見ただけでわかるほど紬は人の顔色なんてものはわかっていなかったし、ただ彼女の肌が日に焼けておらず白いからそう見えたのかもしれなかったけれど。

 眠る女性を観察するというのは、背徳的な気がした。

 それも付き合っているわけでもなければ、彼女からすれば知り合い未満と言ったところだろうか。正直倫理的にどうなのかと紬は思うが目覚めるまで待つ以外、彼の中に選択肢はなかった。


(……雫)


 一瞬、生きているのだろうか心配になった。あまりに眠る雫が身動きをしないものだから、変な気持ちになった。

 しかし、彼女の胸辺りが穏やかに上下しているのがじっと見てようやくわかったのでほっと紬は息を吐く。


 どうして倒れてしまったのか、彼女の病状はどうなのか。

 そういった情報を、紬は聞けていない。

 聞けなかったのも、ある。雫の両親を前に、緊張しきって挙句に自己嫌悪の波にのまれてこの病室にとっとと逃げてきてしまったからだ。

 雫の両親は、帰ってしまった。

 気が済む迄いたらいいと告げて、帰って行った。


 まあ気が済む迄とは言うものの、面会時間は定められているのだから今日は顔が見れただけでもましだなと紬は思う。

 だが帰るまでに彼女の目が覚めないようであれば、どうにか接点を作っておかなければまた面倒になるのは目に見えていた。


(どうすっかな)


 このまま眠る彼女を眺めているというのは罪悪感もある。

 紬は誤魔化すように己の持ってきた鞄を探り、ふと手を止めた。

 鞄の中にある、それをなぜ持ってきたのかと問われれば紬自身、明確な答えは持ち合わせていなかった。


 それは、雫がくれた手紙。

 二つの、異なる意味を持つ、手紙。


 どちらも今の雫からすれば、あずかり知らない、彼女の心そのものだ。

 紬が預かりっぱなしの彼女の心だ。

 鞄の中のそれに視線を落としたまま、紬は手を止めて小さく息を吐き出した。


(メモ帳に、電話番号と……メアドと、それにアプリの連絡先の方もいるか? それとも花梨経由でいいからIDを交換したいって言うべきか)


 手紙をそっと避けて、手帳を取り出して乱雑に破る。

 そして書き殴って、ふと気づく。

 以前に雫と話がしたい時とった自分の行動とまるで同じであることを思い出して紬は小さく笑みを浮かべた。

 あの時も、雫と話したい、その一心だった。

 今もまた、同じことを繰り返しているだなんてお笑い草だ。


(ああ、本当に)


 あの頃から、何も変わってはいないのだ。

 彼と彼女の関係は、始まってもいないのに気持ちだけが先走る。

 

「……!」


 彼女の枕元、花瓶の下にでも挟んでおけば良いだろう。

 そう思った紬はメモを片手に立ち上がって、ぎくりと身を固めた。

 薄く、本当に薄くだけれど眠る雫の瞼が震えて開いたからだ。寝ぼけているのかと思ったが、どうやら覚醒するらしい。


 いつ目覚めるのだろうと思ってはいたし、目覚めてくれなければ勿論困る。

 だが心構えができていなかったと紬は思う。じゃあいつ心構えができるのかと問われればきっといつでもだめなのだろうけれど。


 雫はぼんやりとする意識の中で、人の気配を感じたのだろう。

 何度か薄く開けた目を瞬きさせて、次第にはっきりしてきた頭で誰がそこにいるのかを近くしたのだろう。


 がばりと跳ね起きた彼女の表情は、ひどく困惑していて――まるで亡霊でも見たかのような怖れ具合だ。

 紬はそんな彼女の様子に呆気に取られていたが、起き上がった途端に「はっはっ」と浅い呼吸で苦し気に胸を押さえ始めた雫にようやく体が動いた。


「まて、落ち着け、大丈夫だ! 今ナースコールする。落ち着け。俺ぁなにもしねえ。悪かった、驚かせたんだよな……!」


 自分の存在が原因で倒れたのだ。

 目覚めた時に、その原因と二人きりで彼女が不安にならないはずがない。

 そのことを失念していたことを、紬は大きく舌打ちしたい気分だった。


 それでも苦し気な雫が万が一にもそれを耳にして、余計に状況が悪化することだけは避けたくて、紬は彼女の背をさすりながら一刻も早く看護師が来てくれることを祈るのだった。

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