第39話 すとん。

 あの後、紬は雫に食い下がられて少しずつ話をした。

 駅の改札口でするのも気まずかったが、移動を許さない雰囲気があった。


 同じ高校で、同級生だったこと。

 花梨が当時入院していた雫に自分たち双子のことを話していたこと。

 そこから一時的に復学して、一緒に過ごしていた時期があること。

 三年生の、夏の前の少しだけだったが仲良くしていたこと。

 夏休み明けには雫が入院し、戻ってこないまま卒業式を迎え、彼女の両親から現状を聞かされて今に至ること。


『会うべきか、判断ができなかった』


『……そう……』


『俺と紡は、花梨ほど雫と付き合いがあったわけじゃない。記憶を無くしたお前は、俺たちに会ったってどうしていいかわかんねえだろ』


『……うん』


『俺たちも、話を聞いたからってすぐに受け入れられたわけじゃねえし』


『うん……』


 紬が花梨に恋心を抱いていたこと、花梨の話を聞いて雫が紬に淡い想いを抱いたこと、その辺りのことは話すことはできなかった。

 もとより話すつもりは、これっぽっちもなかったのだけれど。


『ねえ、それだけ?』


『……俺から言えるのは、そのくらいだ』


 嘘をついた。

 彼女は納得していなかったけれど、それ以上何も言わない紬に食い下がるようなことは、なかった。


 泣きそうな顔の雫を見て、ずきりと胸は痛んだけれど上手く誤魔化すような言葉は、何一つ思い浮かばなかった。

 そのまま、気まずい空気の中で、なんとなく沈黙を互いに守って――なんとなく、そのまま別れたのだ。


(泣きそうだった)


 けれど、彼女は泣かなかった。

 その表情は、あの時の雫と同じようでやっぱり違う。彼女は雫だけれど、同一人物であっても違うのだとまざまざと見せつけられたのだ。

 それなのに『同じだ』と紬は思ったのだ。そして間違いなくあれは、紬の中の『雫』なのだとすとんと理解した分だけ、妙に落ち込んだのだ。


 紡が帰ってきていない部屋はしんとしていて、そのせいなのか余計に思考の渦にはまっているような気がする。

 ついこの間、恋情でその渦に飲み込まれかけてようやく脱したと思ったというのにまたこれからと紬は思わずにはいられなかったが、それでもこうなるのは仕方がないと同時に諦めも感じていた。


(……俺は、何に悩んでるんだろうな?)


 根本的な疑問だ。

 雫という存在に対して感じている感情は、今だ一つの言葉に絞ることはできない。

 彼女が生きていることに喜びは感じているし、記憶を無くしたことには失望している。それと同時に覚えていないことで安堵を覚え、元気でいるならばなぜ、という八つ当たりでしかない怒りもある。


(俺ぁどんだけ勝手なんだよ)


 自嘲しか浮かばない。

 ちらりと、自分の机を見て、ため息が漏れた。


 あなたと、恋がしたいです。

 あなたと、恋がしたかったです。


 彼女が綴った、その想いを知っている。

 そしてそれに、応えられなかったどっちつかずの自分を言葉にするには、あまりにもどう伝えて良いかわからなかった。


 知りたいと言った、雫に告げることは、正解なのかと悩んでしまう。

 その影に、自分のみっともないほどに知られたくないという格好悪さが隠れきれずにあちらこちらに見え隠れしていることが辛い。


(……応えられもしないのに、その手紙を両方俺は後生大事に持っている)


 いや、違うだろう。

 そうふと自分の中でことりと何かが動くのを感じ取って、紬はベッドの上で体を起こした。


(ああ、そうか)


 雫は、雫だった。

 それにすとんと納得できたのは、自分の中が彼女でいっぱいだったからだ。

 彼女のことでいっぱいだったから、色んな感情がせめぎ合ったのだ。

 そもそもそれは、もしかすればもう大分前からそうだったんじゃないかと思い返してみれば、出てくるのは肯定だけだ。


 つまるところ、自分はどんな・・・感情であれ雫が必要だということなのだ。


「今頃、気づくかア……!?」


 自分の気持ちというものはままならないものである、と彼は散々思い知った。

 それだというのに、今度はいまさらとしか言いようのない感情に振り回されることになって、のたうち回りたい気分だ。

 赤くなる顔を抑え込むようにしてベッドに乱暴に横になれば、それが響いたのだろう。

 階下から母親が苛立った声で『うるさいよ、家の中で暴れないの!!』という説教が飛んできたが今の紬には何も答えられそうになかった。


(何が応えられない、だよ。そうじゃねえだろ、俺が花梨にフラれるのが怖くて告白できなかったのと同じで、紡に軽蔑されンのが怖くて黙ってたのと同じで)


 格好悪いと思うことが、選べなかっただけだ。

 それは常に、自分を守るためだった。


 傷つきたくない、そんな感情が働いただけの、誰でもあり得るものだった。

 だけど、それはあまりにも紬からしてみれば、お粗末だったのだ。


(クソッタレ)


 相も変わらず自分に悪態をつく。

 それで現状が変わるわけではないけれど、少なくともこうなった原因が自分にあるのだと思えば悪態をつくくらいは許されて当然だとも思った。


(雫に、改めて会わなくちゃ)


 とりあえず今後の作戦だとかそんなものは何もない。要するにノープランのままで、なりふり構っていないだけで、実際彼女を前にしたらまただんまりになってしまう自信があるのがなんとも残念だけれども。

 そうと決まれば善は急げというやつで、花梨からのメッセージが来ているのは知っていたが無視を決めて混んでいた紬はベッドから飛び起きると、机の上に放ってあったスマホを乱暴に掴んだ。


 雫と連絡を取るには、花梨を経由するしかないのだ。

 今の所は。


 そう思って開いたトーク画面に、紬は目を向けて息を呑む。

 そこには花梨からの着信履歴がいくつも残されていて、一番最後にはメッセージが残るだけだ。


『雫が倒れた』


『頭を抱えて痛がった』


『何を言ったの』


『なんで』


 なんではこっちのセリフだ、と紬は思うが呼吸が上手くできない。

 ああ、彼女は自分と言葉を交わして記憶を取り戻していく過程で、あの傷ついた日々を思い出したのだろうか。


 それとも思い出そうと無理をして、苦しんだのだろうか。

 或いは、別の何かだろうか。


 咄嗟に、花梨に電話をかけた。

 呼び出し音が鳴り出して即座に繋がる電話に、驚いたがせき込むように花梨に怒鳴られて思わず耳からスマホを遠ざけた。


『紬ィっ、アンタ雫になにをしたのよー!?』


「くっそウルせぇ! そもそもお前が変な企みして俺たちを二人にしたからいけねえんだろうが!」


『あたしはただ、アンタが雫に会いたがってるのに我慢してるみたいだったから……』


「……俺ぁただ、高校時代にメシ食う仲だったって言っただけだ」


 もしも、彼女にそれを告げる時にこの気持ちに気が付いていたならば、結果は少し違ったのだろうかと思う。

 だけれどそれはあくまでたらればの話であって、結局それは起こらなかった話なのだ。


 だからなのか、今の紬の気持ちは驚くほどに凪いでいた。

 勿論、雫のことが心配でそちらは荒れ狂うのだけれども。

 相反する感情は、もう慣れた。慣れたというか、これはもうどうしようもないモノなんだろう、自分の感情だというが自分の思い通りになったことなど一度としてないのだから。


 唐突に、理解する。

 制御なんてできるわけではなくて、思い通りになんかならないこの感情を、いなして宥めて上手く付き合っていく。

 それが多分、紬にとって“大人になる”ということだったのだ。


 ほかの人間がどうかなんて知らないし、いつそれに気が付いて、気が付いたからと実践できるかどうかは別だという話なのだけれども。

 それでも紬は息を吐き出して、花梨に向けて懇願した。


「雫の見舞いに行きてぇ」

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