第11話 紬と花梨

 次の日。

 紬と紡がいつも通りバスで登校して、いつものように花梨が笑顔で二人のことを待っていた。

 その花梨の隣に、雫がいるのも当たり前の光景になっていたし、紬にとっての息苦しさはそのおかげで大分軽くなっているそんな日常の光景で、それでもほんの僅かに苦さは常に紬の喉にあった。


 昨日の花梨とのSNSでのやり取りは撤回されることもなく、夜になって「やっぱりさっきの、ナシで!」とメッセージを送って来てくれることを期待していた紬としてはため息を盛大につきたいところだ。

 だからと言ってはっきりと突き放すこともできない己の甘さがこの苦さと息苦しさを生んでいることを紬も理解していたが、どうしても割り切ることは彼にはできなかった。

 好きな人に、頼られているという喜びと。

 好きな人の相談が、自分にとっては嬉しくないものであろうという、その両面を理解している。


 それでも、紬は花梨のためになにかしてあげたいと、今でも思う。

 こんなにも苦しいのに、と自分でも笑ってしまいそうだがそれが現実だった。


 紡と腕を組んで歩く花梨が、ちらりと彼の方に視線を投げかけてきたことに紬は視線を思わず逸らした。

 眉間に思わず寄った皺を見られたくなくて、だからといってそっぽを向き続けることも不自然で、紬の眉間の皺は深くなるばかりだ。

 幸いなことに紡は前を向いたままだったし、花梨もそれ以降振り向く様子もなければ話しかけてくる雰囲気も無い。

 そのことに少しだけほっとして息を吐き出したが、隣の雫がじっとこちらを見ていることに気が付いて紬はぎくりと身を強張らせた。


「どうかしたの?」


「ん、ああ……なんでもねェよ。大したことじゃない」


「なら、いいけど……」


「それより、お前の方が顔色良くないんじゃねえか。具合悪いとかあれば、無理すんなよ?」


「えっ、ほんと? やだなあ、昨日ちょっと夜更かししたせいかも」


「あー、あるよなそういうこと」


「うんうん」


 顔色が悪い、と口から出たのは別段誤魔化しでも何でもない事実だ。

 雫の顔色は平素に比べれば若干白く、よくよく見れば彼女自身気だるげだ。


 夜更かしが原因で体調が悪いことは紬も経験があったために彼女の言い分になんらおかしなところは感じなかった。それに雫が照れくさそうに笑ったことで自分の後ろめたさも隠せた気になった紬もよくやく笑うことができたのだ。


 いつも通りの朝で、いつも通りの学生の流れ。

 そしていつも通りに上履きを履いて、授業を受けて、昼ご飯を変わらないメンバーで食べて、おかずのやり取りをしてくだらないことをして笑って。

 それで済めば良いものを、当然時間は止まらない。止まらずに、進んでいく。


 刻一刻と、放課後が近づくことに紬は胃が気持ち悪いと小さく摩った。

 チャイムと同時に出て行くクラスメイトを見送って、人に気付かれない程度に息を吐きだす。厄介なことになったもんだ、と口には出さず、それも断れなかった自分のせいで今こんなにも奇妙な気分を味わっているのだから自業自得かと今度は苦笑した。


 紡はアルバイトで忙しいということできっとホームルームが終わった途端に飛び出して行ったことだろう。雫も今日は委員会だと先程教室を後にした。

 花梨がいつこちらに来るかわからないが、もうしばらくだけ待ってみて現れなければそのまま帰ろう。

 それなら角も立たないし、ちゃんと待ったのだからと言い訳だってできるのだ。

 こちらから彼女を探しに行くという選択肢をあえてなかったことにしているのは、紬もずるいなと思うのだがそれでもそれは選べそうになかった。


 鞄に教科書とノートを詰めた状態で机の上に置いて、窓の外を眺める。

 クラスにはもう、紬しかいない。

 しんとした教室内に、外の賑やかな音がやけに響いた。

 廊下にはまだ残っている生徒もいるのだろう、楽しそうな声も聞こえてくる。


 それでも、教室内に一人、というのは随分静かなものだなと紬は誰に言うでもなく胸の内で呟いた。

 このくらい静かだと、ちょうどいいのに。そんな風にも思った。


「……いてくれたんだ」


 ぺたぺたと、摩耗した上履きの音をさせて寄ってくる人の気配に紬がぐっと眉間に皺を寄せた。

 違う人であって欲しいと思いながら、その足音の主が誰なのかくらい、彼にだってわかっていた。

 そして続けられた言葉と、その声も。


「約束したからな」


 できれば、来ないで欲しかった。

 そんな言葉を飲み込んで、いつもの表情で振り向けばそこには何とも言えない表情で、むりやり笑顔を作った花梨の姿があって思わず紬は息をのんだ。


「……どう、したんだよ」


「あのさ。紡の事なんだけど、さ……」


「ああ……」


「あたしのこと、本当に、好き、かな……って最近、すごく思うようになってね」


「大丈夫だろ、紡のヤツだって好きじゃねえ女と付き合う程暇じゃない。そんなことなら俺ぁ帰る」


「待ってよ!」


 相談事は紡のことだと勿論わかっていた。

 その内容によっては真摯に向き合うつもりでもあったし、苦々しくとも応援だってするつもりだった。


 だがその内容がお粗末なまでの、『好かれているかわからない』程度なら紬だって付き合わされるのはごめんだった。

 流石にそれは人を馬鹿にしている、と吐き捨てたいくらいだった。


 紡からしてみれば、紬の友人ということもあったから花梨に対して最初の内は遠慮もあっただろうことくらい想像できる。

 だがだからといって好きでもない女と恋人になるほど、軽い男ではないと紬は知っている。


 だから、花梨の言い様は紡を馬鹿にされたようで腹が立つのだ。

 そして、そんな不和をほんの少し、本当に、ほんの少しだけ嬉しく思う自分の仄暗い感情に吐き気を覚えるのだ。


「だって! 部活ももう引退なのに、ちょくちょく顔出して……あたしとの時間よりそっちが大事だって! バイトだって増やしてて、ラインとかだって最近は全然返してくれなくて……っ」


「軽音部は紡にとって楽しい場所だって知ってンだろ、バイトは進学のためだ。その辺、ちゃんと前にお前ら話し合ったって言ってたじゃねえか」


「そう、だけど。……そう、だけど……!!」


「軽音部の連中は馬鹿ばっかだけどよ、ヤローだらけの部活だし紡はモテたかもしんねぇけど女と二人で出かけるとかそういう真似は一度だってしてねえだろ」


「……でも、いつも、ニコニコして。囲まれて。あたしの、気も、知らないで……」


「お前だってその囲んでた一人だった。そうだろ」


「……」


 冷たい物言いだと紬は自分でも思った。

 それでも事実を述べるだけだ。


 相談でも何でもない、これはただ花梨が、自分の思い描く紡との恋愛ができていないことに対する愚痴なんだろうとわかったからこそ、この態度になるのだ。

 それを花梨も気付いている。

 気付いていても、食い下がるのは彼女にしてみれば本気で苦しいから、だろう。

 帰ろうとする紬の袖を掴んで離さない花梨の、ぽつりぽつりと溢される愚痴をとりあえず黙って聞くことにして適当にそこらの机に腰掛ければ、彼女も紬が聞く態勢に入ったと安堵して同じように近くの机の上に座った。


 きっと聞き終えれば花梨も落ち着くのだろう、そう紬は思う。

 彼女の口から出てくるのは、切々とした恋心。

 自分勝手で、わがままで、可愛らしい。

 そんな紡への恋心。


 どれだけ、それが、紬の心を傷つけるのか花梨は知らない。

 それでも紬は聞き流すようにしていながら、一言一句逃さず聞くのだ。花梨の想いだから。


「……ありがと」


「ああ」


 ひとしきり愚痴を言った花梨が、落ち着いたらしい。

 一時間以上彼女はしゃべり続けていたからか、少しだけ枯れた声をしていた。途中で何度か涙ぐんだせいかもしれない。

 それでも、紬は慰めの言葉をかけれなかった。

 紡が羨ましい。その想いはどうしても拭えなかったから。


「帰るか」


「……なんで」


「ん」


「なんで、あたし、紡のコト、好きになっちゃったんだろね」


「……知らねえよ、そんなこと」


 嘘だ、本当は知っている。

 彼女がいかに紡のことが好きなのか、ずっと聞いてきたし見てきたから。


「もし紡じゃなくて、紬を選んでたら――」


「止めろ」


 言いかけた花梨の言葉を、紬が遮った。

 聞きたくなかった。

 それは、もしもあったら良かったと、紬自身が何度も思ったことだ。


 だが、それを花梨の口からは聞きたくなかった。


 なぜならそれは。否定だからだ。

 もし、だなんて言葉が出る段階で、違うのだ。選ばなかったことにも、理由は存在する。


「それ以上、言うな。お前自身も、紡のことも、馬鹿にすんな。……俺ぁ何も聞かなかった」


「紬」


「……帰る」


 足早に、そこを後にする紬を花梨は追ってこなかった。

 残念にも思えたが、それが当然のことなのだと紬は思う。


 だけど、そこには確実に苦い気持ちばかりが埋め尽くしていて、そしてまたどろりとした何か・・が胸の内を満たすのだ。

 どうして、どうして、と紬の中で怒りと失望で満たすのだった。

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