業火の独り言

 死がこれほどまでに恐ろしいなんて。

 業火の中、男は独り思う。

 子供の頃から、死を受け入れていた。なのに――。

「死にたくないなぁ」

 男は呟いた。

 熱い。もう、死が目前に迫っている。

 男は最期に言葉を残した。


   *


 コキノの一族。それは、島国レシの少数民族のことだ。赤い目と赤い髪を持ち、魔王の一族とも呼ばれる。国の最西端。名もない深い森の中、彼らは自給自足の生活を営んでいた。

 エレフセリアはその一族の族長の長男として生まれた。

「次の魔王はお前だ」

 幼い頃から父に聞かされていた。

 この国には百年に一度、魔王が現れる。

 魔王はコキノの一族から選出される。大概は族長の息子。エレフセリアも慣例に倣い、役割を与えられた。

 幼いエレフセリアは大人達の噂話から、魔王である自分は勇者という者に殺される運命にあると知る。

 年端も行かない頃からそんなことを耳にしていたため、エレフセリアは抵抗もなく死を受け入れていた。そして、決めていた。

 誰にも深く関わらない。そう、空気のように生きよう。自分が死んだ時、誰も悲しまないように。

 エレフセリアは何も持たないように努めた。


 十五歳の春。父からレシの国の真実を告げられる。

 この国は物語で出来ている。

 百年に一度、魔王が現れる。その魔王は勇者に殺される。それがシナリオ。レシは自作自演の物語で国を守っている。コキノの一族はその芝居に使われる人形なのだと。

 父は憎々しげに言った。エレフセリアは大いに呆れた。そんな子供だましがまかり通っているこの世界にだ。

 コキノの一族の大人は皆、この真実を知っていた。だが、抗おうとはしなかった。敵はあまりに大きい。コキノの一族が生かされているのは、物語があるからだ。

 赤い髪に、赤い目。視覚的に分かりやすい恐怖の対象としての記号。レシの者たちはそれが欲しいだけだ。彼らがその気になればいつだってコキノの一族は滅ぶ。それは、エレフセリアも理解していた。

 先代の魔王は村人から大変慕われていたそうだ。彼の死を拒んだ村人は、国に反旗を翻した。そして、粛清された。何十人も死んだ。

 存在を消そう。誰にも慕われず、誰の心も動かさないように。

 エレフセリアは更に強く心に誓うようになった。

 だけど、狭い村の中だ。皆エレフセリアのことを気に掛ける。それは困るのだ。

 エレフセリアは一つの打開策を思いつく。


「頼みがある」

 同じ年の頭のいいデイリアという男を訪ねる。彼は目を見開く。

「お前が頼みとは珍しい」

「うん、そうかも」

「何だ?」

 デイリアは嬉しそうに尋ねる。エレフセリアは頼みを口に出した。

 それは、赤の髪を黒く染めるための染料作りだった。コキノの森にある特殊な材料を使った染料。森の外で交渉を行う大人が使っていた。

 デイリアはその場でそれを作り出してくれた。感謝の言葉を述べると、デイリアは不安そう目でエレフセリアを見やる。

「何のためにこんなものを……」

「旅に出ようと思って」

「はあ⁉」

「声が大きい。皆には秘密なんだから」

 エレフセリアは辺りを窺う。一方、デイリアは慌てふためいている。

「な、何を言っているんだ⁉ 外の世界はコキノの一族を憎む者がわんさかいるのだぞ! 死んでしまう!」

「大丈夫だよ。僕の剣の腕を知ってるだろ?」

「だけど、死ぬ……」

 しょぼくれたデイリア 彼らしい。

 エレフセリアは微笑む。

「お前は臆病だからなぁ」

「そうだが……」

 デイリアは不服そうに答える。エレフセリアは小さく首を横に振って見せる。貶すつもりではない。

「臆病はいいことだよ」

「は?」

「僕は、お前のそういうとこ信用してるんだ。だって大胆なやつより慎重なやつの方が生き残るだろう?」

 三年前の話だ。山賊が村を襲った。エレフセリアが最前線に飛び出た一方、デイリアは真っ先に村の奥に逃げた。エレフセリアは傷を負った。ボロボロになったと言っても過言ではない。もちろん、デイリアは無傷だった。

 デイリアが小さな声で呟く。

「お前は……?」

「ん?」

「お前は生き残らないとでもいうのか?」

「何を言ってるんだい? 僕は死ぬんだよ」

 当たり前のことを言うと、デイリアは俯いた。

「必ず……。必ず、帰って来いよ」

「うん。いってきます」

 彼に手を振り、エレフセリアは旅に出る。


  *   


 髪が黒いと案外目立たない。目元を隠す布をすれば完璧だ。

 エレフセリアはフードをかぶりながら悠々と旅を楽しんでいた。

 森を抜けた世界はとても面白かった。

 美しい景色を見た。美味しい物を食べた。優しい人にも会った。

 にぎわう街。エレフセリアは辺りを見渡す。

 子供の手を引く母親。仲睦まじい恋人。街角でお喋りをする若者達。

 皆、大切なものを持っていた。だから、不幸を知りながらも、笑顔でいられるのだ。

 彼らは物語のことなど知らない。

 レシの国の人間は、コキノの一族では憎悪の対象だった。

 この国はそもそもコキノの一族が統べる国だった。それを大陸から渡ってきたレシの者達が一族を虐殺し覇権を奪った。コキノの一族は追いやられ虐げられ、挙句の果てには魔王という役を押し付けられた。

 確かに恨むべきなのかもしれない。だけど、大切な何かに支えられ、懸命に生きる人々を恨む気にはならなかった。

 

「ここが王都かぁ」

 夏ごろには、あっさり王都に忍び込むことに成功したエレフセリア。

 青と白を基調にした荘厳な城を前にし、エレフセリアはわずかばかり眉をしかめた。この城に住む王族がコキノの一族を使い、物語を仕立て上げているのだ。

「おかしいとは思わないのかい?」

 エレフセリアは声に出さず、呟いた。答えがあるはずもない。

 エレフセリアは城に背を向けた。

 ふらりと立ち寄った酒場。何を食べようかと悩んでいると、端のテーブルの青年と目が合う。そのテーブルには、若者三人。青年二人と少女一人。

 目つきの悪い方の青年がエレフセリアを凝視し、そして、手招きした。エレフセリアは不思議に思いながらも青年の方へ歩みを進める。

 彼は小さな声で言った。

「お前、目が赤いな。まさか、コキノの一族か?」

 エレフセリアは驚いた。しかしながら、隠せることでもない。

「うん、そうだよ」

 正直に答えた。

 青年はアウトリタと言った。城に仕える人間。もう一人の優し気な青年は国の北部ノルド出身の旅人ディニタ。そして、もう一人は驚くことに王族の少女だった。

「はじめまして。私はフィア。王の娘よ」

 フィア、アウトリタ、ディニタはこの国の真実を知っていた。王族の者の大半は真実を知らされるらしい。そして、その側近の血筋のアウトリタもまたしかり。ディニタはこの二人に信用され真実を告げられていた。

 彼らはレシの国の物語に否定的だった。エレフセリアは目を丸くする。

「君は王族の人なのに?」

「王族が皆同じ考えとは思わないで」

 フィアは口をとがらせた。

 三人はこの国の物語を終わらせる計画を練っていたようだ。概要だけを聞いた。だが、それでも分かる。それは十数年をかけた壮大な計画。

「手を引くなら今だぞ」

 アウトリタが言った。

 今まで、世界を変えるなんて考えて事もなかった。自分はただの駒。その死に意味はない。だけど――。

「ねえ。僕が協力すれば、コキノの皆を救うことはできる?」

 エレフセリアの問いに、フィアが答える。

「ええ、必ず」

 ディニタが頭を抱える。

「フィア。必ずという言葉を使わないでくれ。また、僕の頭を悩ますつもりかい?」

「でも、貴方なら答えを見つけ出してくれるでしょう?」

 フィアが屈託なく笑った。ディニタも言葉とは裏腹に顔は笑っている。アウトリタもわずかながら微笑んでいる。

 彼らはこの計画を立てながらも、大切なものを持っているようだった。


 エレフセリアは彼らの仲間に加わった。

 彼らの目的は一つ。この国の物語を終わらせること。

「でも、それだけじゃない」

 ディニタが笑う。

「物語を終わらせ、新しい世界を作るんだ」

 それは途方もない話だった。今、そして、未来の多くの人を救うための計画。膨大な犠牲も伴う。それを分かりながらも四人は計画を練った。

「エレフセリア、君は……」

 ディニタはその先を続けない。エレフセリアは計画書を見て理解した。

「うん。どうやっても死ぬね」

「そんなの!」

 フィアが声を荒げた。

「ディニタがそう言うんだ。間違いないだろう」

 アウトリタがいつもと変わらない声で言った。フィアが机の上の紙を睨む。

「どうにかして――」

「フィア」

 エレフセリアは彼女の言葉を遮り、穏やかに告げる。

「僕は死ぬ。ずっと分かっていたことだ」

 フィアは唇を噛んだ。ディニタはエレフセリアを見つめる。エレフセリアが頷くと、彼は机の上の手を握り締めた。アウトリタが立ち上がり、頭を下げる。

「よろしく頼む」

 アウトリタはプライドが高い。そんな彼が頭を下げる。エレフセリアは彼の覚悟を見た。

 やり遂げよう。自分の為すべきことを為し、死のう。

 エレフセリアは思った。それは意味のない死をぼんやりと待つ日々より、幾分もよかった。

 エレフセリアは笑顔を浮かべる。

「僕は死ぬ。だから、未来のことは君達に託す」

 たったそれだけの言葉。事実と、計画を共にする同志への頼み。なのに三人の瞳には涙が浮かんでいた。

 エレフセリアはその意味がよく分からなかった。

 自分はただの計画の一員。たったそれだけの存在なのに。


   *


 旅から戻り、何年かが過ぎた。その間に、エレフセリアとその同志達は秘密裏に連絡を取り合い、動いた。

 フィアは女王候補となり、アウトリタはその側近となる。ディニタは勇者を導く賢者となった。そして、エレフセリアは魔王となる。

 国の者がやってきた。

「次期魔王、エレフセリア様をお迎えに上がりました」

 軍が控えている。抵抗はできないし、する気もなかった。アウトリタの計らいで、一族の皆は船に乗り、ミラの国へ向かっていた。この国から逃れたのだ。ただ、デイリアだけは残った。

 エレフセリアはそれが不思議でたまらなかった。

「デイリア、どうしてついてきたんだい? 怖くて堪らないんだろう?」

「そうさ、怖くて堪らないんだ」

 デイリアは言った。

「私は臆病だからな」

 それならば、あの時みたいに真っ先に逃げたらいい。この国に残る。それは死ぬことだ。デイリアは誰より、死を恐れているはずだが――。

 エレフセリアは首をかしげる。

「よく分からないや」

「そうだろうな」

 デイリアは寂し気に微笑んだ。


   *


 エレフセリアは魔王として各地に姿を現し、その赤い髪と赤い目をもって人々の恐怖を煽った。見せしめに罪のない人を殺すこともあった。

 小さな村で、エレフセリアは魔王を演じる。

「この村から労働力をいただこう」

 村長だろう人物が断った。きっと彼は誰かの大切な人。

 エレフセリアの躊躇いを読み取ったのか、後ろに控えた兵が彼の首を刎ねた。


 ある程度の見せしめが終わると、エレフセリアは城に入った。そこで、ただ勇者を待てというのだ。

 一日の大半は、見張りの兵と訓練をする。だが、皆弱く相手にもならなかった。

時折、アウトリタからの手紙がこっそり届けられた。

 ある時は、賢者となったディニタの悲痛な叫びが記されていた。ある時は、ディニタの覚悟が鈍ったことが、それを見受けたアウトリタが彼の母を殺したことが、そして、その懺悔が、生々しく綴られていた。

 胸が痛んだ。物語を終わらせるための代償はあまりに大きい。

 だが、彼らは揺るがないだろう。

 だったら、自身も魔王と言う役割を全うするだけだ。ただ、それだけ。


 ある日のことだ。城に女が連れてこられる。この国の姫であり、フィアの姉・レジーナだ。

 アウトリタの手紙に書いてあった。彼女は真実を知らされていない。レジーナより先に真実を知ったフィアがそう立ち回ったらしい。

 レジーナの役割。それは、魔王に攫われ、勇者に救出されること。よって、彼女はこの魔王城という、ただ、勇者を待つだけの檻に閉じ込められることになる。それでも、真実を知り、外で生きるより安全だ。

 フィアはそう判断し、彼女がその役割になるように奔走したようだ。

『お姉様にひどいことをしたら許さないから』

 手紙に書かれていた。もちろん、そんなつもりはない。

 魔王城の中核、玉座の間。数段高いところにある玉座に座りながら、エレフセリアは連れてこられた女、いや、少女を見た。

 彼女はエレフセリアを目に映し、何を思ったか驚いた顔を見せた。恐怖ではなかったことにこちらも驚いてしまった。

 だが、彼女は歯を食いしばり、強い目でこちらを睨んだ。まっすぐな碧い瞳がエレフセリアを射貫く。それは強い目だった。

 彼女は芯の通った声で言った。

「私はレシの国の姫・レジーナと申します。はじめまして、この国を潰す魔王」

 彼女の声は刺々しい。

「無理矢理連れてきて何の用かしら」

 とても強い子だ。彼女はシナリオにのっとって、連れてこられたはずだ。狭い荷台に詰め込まれたと思ったら、魔王の元に引き出される。怖くてたまらないだろうに。すごい。素直に感心した。

 だが、自分は魔王。役割を果たす。エレフセリアは口角を上げる。

「魔王が姫を攫うのはよくあることだろう?」

 声を低く落とす。玉座から立ち上がり、彼女に近づく。彼女は逃げない。

 困った。逃げると思って近づいたのに。

 この後、魔王だったらどうする?必死に頭を巡らす。そして、彼女の顎を掴んだ。

「せいぜい私に尽くすがいい。余計な真似をしてみろ。国民が死ぬぞ?」

 彼女の顔から血の気が引いた。

 さすがに悪い気がした。


「おはようございます。魔王様」 

 次の日から彼女は打って変わってエレフセリアに尽くすようになった。

 攫ってきたというシナリオ上、放置するわけにも行かず、とりあえず彼女を呼び、この国の話をさせた。彼女は引きつった笑顔をエレフセリアに向ける。無理をしているのが一目で分かった。

 このままでは、彼女は心労で病になってしまうのではないか。それは困る。

 何ができるだろう。

 エレフセリアは考えた。

 

   *


 ある晩、エレフセリアは寝室を抜け出し、城の中をさまよっていた。

 お飾りの城なのに広い。そして、寒い。天井が高く、窓から冬の隙間風が吹き込んでくる。エレフセリアは体を震わせながら、暗い廊下を歩いていた。

 ありがたいことに、この城には見張りの兵は少ない。アウトリタとフィアが取り計らってくれたのか、エレフセリアが逆らわないと国が踏んだのか、どちらかは分からない。

 足が止まった。どこからか聞こえるすすり泣き。右手の扉からだ。

 やっと見つけた。

 その喜びとともに、やはり心配は現実になるかもしれないという焦りが生じた。

 エレフセリアはその部屋に近づく。そこはきっとレジーナの部屋だ。

 足音に気づいたのか、すすり泣きは止まった。

「誰?」

 ドア越しに彼女の声が聞こえる。警戒の滲んだ声。

 魔王だと悟られないようにしなければ。

 エレフエリアはわずかながら緊張する。そして、魔王を演じる時とは違う、素の声で嘘をつく。

「僕はレシの国の者だ。魔王に使われているが君の味方だ。安心してくれ」

「レシの国民?」

 彼女の声は張り詰めている。

「どうしたんだい?」

「……。レシの国の者は私に敬語で話すはずだわ」

 確かにそうだ。痛恨のミス。エレフセリアは慌てて謝る。

「申し訳ありません」

「全く、無礼者ね」

 彼女がふんっと鼻を鳴らしたのが、目に浮かんだ。それがきっと彼女らしい言動なのだろう。

「でも、そのままの口調でいいわ」

「え」

 エレフセリアは驚いて声を上げる。

「どうして?」

「……気まぐれよ」

 彼女は言った。

 そして、エレフセリアは本来の目的を果たすために問いかける。

「君はどうして泣いていたんだい?」

 彼女は少し黙ったが、扉越しに答える。

「魔王に尽くさなければならない。それは、やっぱり辛いことだもの」

「そうだね」

 エレフセリアは扉の前に腰を下ろす。

 よし、魔王だとばれていない。そして、会話を交わしてくれそうだ。

 ほっと息をつく。そして、尋ねる。

「何か望みはあるかい?」

「望みなんていくつもあるわ」

 エレフセリアは答えを待つ。

 これで、自分に何かできることがあればいい。

 彼女は口に出す。

「まず何より、家族に会いたい。大切な友人に会いたい。可愛い妹にも。私を愛してくれる国の人にも……。皆に会いたい」

 それは難しい。

 エレフセリアは眉間にしわを寄せる。

 会わせてあげたいのはやまやまだが、流石にどう手を回しても不可能だろう。 

「でも」

 彼女は先ほどとは違う凛々しい声で続ける。エレフセリアは首をかしげる。

「でも?」

「でも、私は魔王に尽くすわ」

「どうして? 嫌ならやめたっていいと思うよ」

 部屋に引きこもるだとか、初対面の時のように睨むだとか、いくらでも方法はあるだろうに。だが、彼女は言う。

「そんなわけにはいかない」

「そうかなぁ」

「そうよ。だって、私は皆を守りたいもの」

 どこまでも澄んだ声だった。

「大好きな妹も、お父様も、お母様も、友達も、従者も、この国の人もこの国も全て、守りたいの」

「全て? ずいぶん大きな話だね」

「そうよ」

 エレフセリアの驚きに、彼女はぶれない声で言い放つ。

「だって、私は世界を愛しているもの」

 彼女の強さ。その正体にエレフセリアは気づいた。

 彼女は今まで見た誰よりも、たくさんの大切なものを持っている。家族、友人、国民、世界でさえも。

 エレフセリアは微笑む。

 自分と違って、生きる運命にある彼女は大切なものを持つ権利がある。持てるだけ持てばいい。彼女は死をもって彼らを悲しませることはないのだから。

 そんな思いにはきっと気づいていないだろう。彼女が意気込んだ声を上げる。

「だから。だから、私は何だってやるわ!」

 ずいぶんとやる気満々だ。何をする気だろう。少し面白くってエレフセリアはくすりと笑う。彼女は続ける。

「皆を守るためなら、たとえ死んでも、この身が穢されようとも――」

 エレフセリアは笑いから一転、ぎょっとし、思わず声を張る。

「だ、駄目だよ!」

「どうしたの?」

 エレフセリアは慌てふためく。

 魔王として振舞うものの、もちろん穢すつもりなんてない。でも、彼女は美しい少女だし、そんなことを言われると意識してしまいそうだ。大変よくない。

「女の子なんだから、簡単にそんなことを言っちゃ駄目だって……!」

 エレフセリアの叫びに一瞬訪れた沈黙。エレフセリアは恐る恐る声をかける。何か気に障っただろうか?

「えっと……あの」

扉越しに震えた声が聞こえた。

「だめ……、おかしいわ」

「え?」

「なんだかお父さんみたいで」

 どうやら笑っているらしい。エレフセリアは小さく抗議する。

「僕、まだそんな年じゃない……」

「あはは、そうかもしれないわね」

 彼女は声を上げて笑った。そして、ぽつりと言った。

「そんな風に心配してくれるなんて、嬉しいわ」

 今度は涙を含んだ声だった。

 エレフセリアは首をひねる。強いんだか、弱いんだか。

 でも、この調子なら何かいい方法が見つかるかもしれない。

「明日からも来ていいかい?」

「許すわ」

 エレフセリアの問いに、彼女は笑った声で答えた。


   *


 来る日も来る日も、エレフセリアは魔王を演じ、彼女もまた、従順な魔王の女を演じた。

 そして、晩になれば二人は扉越しに話をした。

「君の侍女は大変優秀なんだね……」

 エレフセリアはうなだれた。

 彼女のためにできること。それは生活を整えることではないか。そのことに気づいたエレフセリアは、この城で暮らす上で不便はないかを尋ねたのだが、ことごとく、彼女の侍女・カリーナが仕事を果たしていた。

「ふふ。カリーナはとっても気が利いて、優しいの。私の自慢の侍女よ」

「うーん。僕は役立たずだなぁ」

「そんなことないわ。こうして話し相手になってくれているじゃない」

「うむむ……」

 本当にそれだけだ。実質何もしていない。望みはいくつか聞いたが、どれも実現が難しく、エレフセリアはそれを一つも叶えることができていない。何かできることがないか頭を悩ませる。だが、彼女は笑う。

「今、私が対等にお話できるのは、貴方だけよ」

「え」

「私はカリーナの主人だもの。カリーナは私を敬わなければならないし、私は主人として振舞わなければならない。でも、貴方にはそんな必要ないでしょう?」

 エレフセリアは妙に納得した。

「だから、敬語じゃなくていいって言ってくれたんだね」

「そうね。私の話相手役よ。とっても光栄なお仕事だわ」

「ありがたき幸せ」

 芝居がかった口調で言うと、向こうで楽しそうな笑い声が聞こえた。

「今日も君の話を聞かせてくれるかい?」

「貴方の話は?」

「いつかするよ」

「またそれ?」

 ちょっぴり拗ねたような声。それでも、彼女は語り始める。

「今日はカリーナの話をしてもいいかしら?」

「もちろん」

「とっても大切な私の従者のお話」

 エレフセリアは毎日、彼女の大好きなものの話に耳を傾ける。

 彼女はたくさんの大切なもの持っているから話が尽きることはない。何も持たないエレフセリアにとって、それはなんだか遠い国のおとぎ話のようで、とても面白かった。そして、それらを楽しそうに、愛おしそうに語る彼女はとてもきらきらしていた。

 心地よい気分で耳を傾ける。

 友達も、従者も、父母も、妹も、街の人も、世界でさえも、彼女の目を通すと、全て美しいのだ。

 この国が呆れた物語で成り立っていることを、彼女が一生知らずに済みますように。

 エレフセリアは目を閉じて、祈るようになった。


   *


「お手紙です」

 魔王の勤めを終え、自室に戻ったエレフセリア。部屋で待っていたカリーナから、アウトリタの手紙を受け取る。

 カリーナはアウトリタと繋がっている。つまり、彼女は真実を知っている。

「彼女には真実を告げないでね」

 そう言うと、カリーナは目を見開いた。そして、エレフセリアを強く睨む。あまりに眼光が鋭いものだからエレフセリアは戸惑う。

「何だい……?」

「やはり、あなたでしたか」

「へ?」

「なんでもありません」

 つっけんどんにそう言うと、カリーナは部屋から出て行ってしまった。何の話だろう。

 気にはなったが、まずは手紙だ。アウトリタからの指令の可能性もある。

 エレフセリアは封を開き、手紙を取り出す。白い紙に並ぶアウトリタの几帳面な文字。

 デイリアのことだった。

 エルバの村を拠点としていたデイリアはシナリオ通り、勇者に敗れた。

 エレフセリアの心臓が大きな音を立てる。何故だか分からない。手が震える。

 次の文に目を滑らす。

 だが、デイリアは死なずに逃げた。勝手な行いだが、追跡する手立てはなく放置する。

 手紙にはそう書かれていた。エレフセリアは息をついた。

「よかった……」

 弱弱しい声。それが自分のものだと気づくのに時間がかかった。そして首をかしげる。

 何がよかったのだ?

 封筒にはさらにもう一枚紙が入っていた。それは、アウトリタの字ではない。癖の強い、コキノの文字。

「デイリア……?」

 エレフセリアは呟いた。その紙には、遺言状と書かれていた。

 手紙はいきなりこう始まる。

『一つ言っておこう。お前は女性から多大なる人気があった』

 エレフセリアは面食らう。遺言状に書くことではない。そして、そんなこと知らなかった。

『さらに言うと、男からも尊敬の念を集めていた』

 ますます、何が言いたいのか分からない。

『最後の晩、皆でお前を送る祭りをしたな。皆、笑顔だっただろう。だが、お前がすやすやと眠っている間に、皆がどれほど泣いたか。きっと、お前は知らないだろうな』

 エレフセリアは息を呑む。

 知らない。そんなことは知らない。

『お前が極力、人と関わらないようにしていたのは知っている。それはお前がいつか死ぬからか? 皆の記憶に留まらないようにするためか?』

 その通りだ。誰にも悲しんでほしくなかった。

 一度も口にしたことはない。なのに、デイリアは知っていたのだ。

『馬鹿め』

 デイリアの渋い顔が浮かぶ。

『そんなこと、まかり通るわけなかろう。お前は私達と共に生きていたのだから』

 次の文に目をやった。息が止まった。

『お前は皆から愛されていたのだから』

 頭が真っ白になった。それでも、目は次の文を追う。

『お前が言った通り、私は臆病だ。だから、怖かったんだ』

 そう、別れ際にそういう話をした。意味が分からなかった。

『お前を一人死なせることが』

「どうして……?」

 小さく声に出していた。

『お前はきっと否定するだろう。だけど、言わせてくれ』

 最後のデイリアの困ったような笑顔が浮かぶ。

『お前は私の親友だ』 

 手紙はこう続いた。

『これから死にゆくお前に言うのは酷だと分かっている。だけど、この世にお前が死にたくないと思える理由が一つでもできることを願う』

 エレフセリアは手紙から顔を上げる。空を見つめた。

 分からない。この感情は何なんだ。

 エレフセリアは手紙を持ち、部屋を出た。

 

 いつも通り、扉の前に座る。

「あら、今日も来てくれたのね」

 嬉しそうな彼女の声。エレフセリアはそれに返事をせず、言った。

「今日は僕の話を聞いてもらってもいいかな」

「……。ええ、もちろんよ」

 彼女は何かを察したのか、静かな声で答えた。

 エレフセリアは、自身が魔王であること、コキノの一族であることを隠しながら、本当のことを話した。

 死を覚悟していたこと。空気でいようとしたこと。

「僕はいつも皆の外にいた。死ぬのだから皆と関わらないようにしてた」

 だけど、皆、関わってきた。美味しいものを、美しいものを、たくさんのことを教えてくれた。多くの時間を共に過ごした。そして、笑顔を見せてくれていた。

 ふいに子供の頃の記憶が蘇る。遊びに誘われても断っていた。皆が遊ぶのを、ただ遠くで見ていた。その時、隣に誰かいなかったか?

「君は遊ばないのかい?」

「そういう気分じゃない」

 彼は、デイリアは、そう言って何度も何度も傍にいてくれた。一人でいようとするエレフセリアを一人にはしてくれなかった。

「あいつは、とっても臆病なやつだったんだ……。でも、それ以上に優しいやつだった」

 手紙を握り締めた。

 どうして気付けなかったのだろう。どうして知らないふりをしていたんだろう。ずっとずっと、彼は親友であろうとしてくれていたのに。

 彼女はエレフセリアの話を優しく受け止めてくれた。静かに相槌を打ち、黙って耳を傾けてくれた。

 わずかに訪れた沈黙。彼女が口を開く。

「大切だったのね」

「そうだ……。そうなんだ」

 エレフセリアは震えた声で答える。

 コキノの皆が大好きだった。大切な親友もいた。気づいてなかっただけだったんだ。

「僕も持っていたんだね」

 エレフセリアの瞳から涙がこぼれ落ちた。

 そうだ、自分も彼女に負けないくらい大切なものを持っていた。

 一族の皆やデイリアだけじゃない。

 自身が死ぬと分かった時、フィアとディニタ、そして、アウトリタが涙を浮かべていなかったか? 愛されていたんだ。そして、自身も彼らを愛していた。

 この国を旅して、たくさんの優しい人に出会った。彼らのことも大好きだ。たくさんの美しい景色にも出会った。あれも好き。全て大好きだ。

 ああ、そうだ。そうなんだ。

「君はいつか言ったね。世界を愛していると」

「ええ」

「僕もだ。僕もそうなんだ」

 その先の言葉は涙で出てこなかった。

 今更だ。今更なんだ。もう、大切な親友にも、一族の皆にも、同志、いやこの国で出来た友人達にも会えない。

「どうして、伝えなかったんだろう。どうして、今……。もっと早くに気付けていたら」

 皆に、デイリアに、大切な友人に、感謝を、別れを、愛を、伝えられたはずだ。なのに――。

 エレフセリアのとめどない後悔の念を彼女の言葉が遮る。

「確かに、言葉にできなかったことは悔やまれると思うわ。だけど――」

 次の言葉が出るまで少し時間がかかった。彼女が言った。

「だけど、貴方は愛されていた。それは、貴方が彼らを愛していたから」

「でも僕は――」

「綺麗事かもしれないわ。でも、貴方が愛されていたという事実を悲しい思い出に変えてしまわないで」

 彼女の必死な声。

「貴方は愛されていたの。そして、愛していたの。それは嘘じゃない、嘘じゃないの……」

 何故だか彼女が泣いてしまった。でも、彼女の言った通りだった。

 自身は愛されていた。そして、皆を愛していた。

「ああ……そうか。これを幸せって言うんだね」

 エレフセリアの目から涙がこぼれた。深い後悔の念が溶け、胸に温かな光が広がった。

 背中越しの小さな泣き声。

 たくさんのものを愛し、きらめき、強さも、弱さも持つ彼女。大切なことを教えてくれた人。そうだ――。

 自分は死ぬ。無責任すぎることだと分かっている。だけど、もう、何も伝えずに死ぬのは嫌だった。

「聞いてくれるかい?」

「どうしたの?」

 彼女はまだ涙声だ。エレフセリアは穏やかな気持ちで彼女に告げる。

「僕は君のことを愛してしまったみたいだ」

 わずかな間。彼女は答える。

「私も、私もよ。魔王様」

 特段驚きもしなかった。魔王であるエレフセリアを見る彼女の目が、日に日に好奇心いっぱいになっていたからだ。

 エレフセリアは苦笑した。

「やっぱり、分かってたのかい?」

「確信を持ったのは今よ」

 扉越しの彼女の声は笑っている。

「ねえ、貴方はいつも何か出来ることはないか、と尋ねてくれるわね」

「うん。何かないかい?」

「あるわ」

 ガタガタと向こう側で物音がする。

「貴方に触れたいの」

 突如、扉が引かれた。

「わ⁉」

 扉に背を付けて寄りかかっていたものだから、エレフセリアは背中から後ろに倒れた。レジーナはそんなエレフセリアを見て、一瞬キョトンとした後、声を上げて笑った。

「もう、笑わせないでよ」

「全く、君のせいだよ」

 いじけて言うと、レジーナはますます笑った。レジーナがエレフセリアに手を伸ばす。

「お手をどうぞ。魔王様」

「ありがとう、レジーナ。でも、僕は魔王じゃない」

 エレフセリアはその華奢な手を取る。温かく柔らかな手。なんだか、また涙が出てきた。エレフセリアはくしゃくしゃの顔で笑う。

「僕はエレフセリアだ」


   *


「くっ、やっぱりあなたでしたか。うちのお嬢様を誑かしたのは」

 カリーナが強くエレフセリアを睨んだ。

 カリーナは、夜になるとレジーナがご機嫌なことを怪しく思い、彼女を問いつめていたそうだ。そのため、レジーナと男、つまりエレフセリアが夜になると話をすることを知っていた。

「た、誑かしてなんかいないよ!」

 エレフセリアが必死に抗議していると、レジーナが腕を絡めてくる。

「いいえ、そんなことはないわ。だって私、貴方の事が好きになってしまったもの」

 嬉しいやら、恥ずかしいやら。

 カリーナは苦々しい顔を浮かべる。

「こんな、ふわっふわの男、何がいいんですか」

「何⁉ 髪の毛のこと⁉」

 エレフセリアはくせ毛の長髪である。

「ふわっふわですよ。頭が」

「髪の毛だよね⁉ 髪の毛のことだよね⁉」

 その様子を、レジーナはころころと笑って見ている。カリーナはわざとらしくため息をつく。そして、頬を緩めた。

「まあ、でも。お嬢様の笑顔を取り戻してくれたのはあなたです」

「え」

「ありがとうございます」

 カリーナは笑顔で頭を下げた。


 彼女は大変優秀だった。

「夜になったら会うことを可能にするので、昼はいちゃつかず、ちゃんと職務を全うしてください」

「はい」

 レジーナとエレフセリアは真面目な顔で答える。

 二人はカリーナの言う通り、昼は魔王と攫われた姫を演じた。そして夜になると、カリーナの手腕により、ありのままの自分で共に過ごすことができた。

「今日もお勤めご苦労様でした。勝手に仲良くしててください。時間になったら迎えに来ます」

 エレフセリアの部屋までレジーナを送ってきたカリーナは、そう言って部屋を出て行く。エレフセリアは目を丸くして呟く。

「本当に優秀だなぁ。彼女は」

「ふふ、そうなの。でも、怒るととっても怖いのよ」

「彼女が君に対して怒ることなんかあるのかい?」

 エレフセリアは目の敵にされているが、レジーナにはとても甘いカリーナ。レジーナが柔らかな笑みを浮かべ、頷く。

「ええ。でもね、それは私が間違ったことをした時。彼女が怒るのはその時だけだわ」

「何をしたの?」

 興味本位で聞いてみた。レジーナがさらりと答える。

「代々伝わる王族の秘宝を付けて妹と遊んだり」

「ご、豪胆だね」

「とっても、怒られたわ」

 レジーナはその時のことを思い出してか、ぶるりと肩を震わせる。

「でも、彼女がいてくれるから、私は迷わず前へ進める。道を間違ったらきっと叱ってくれるもの」


 それからも、日々は変わらない。兵に見張られながら、魔王城という檻に囚われる。それでも、二人は夜を思い、心を弾ませた。

 レジーナの碧い瞳を見ながら、彼女の金の髪に触れながら、そして、様々な表情を見せる彼女の顔を見ながら、言葉を交わすのは、とても幸せだった。

 レジーナがエレフセリアの瞳を覗く。

「はじめて貴方の瞳を見た時のことを思い出すわ」

「怖かった?」

「いいえ」

 レジーナは首を横に振る。

「とっても優しい瞳に見えたの」

「え」

「私、びっくりしてしまって」

 そういえば、エレフセリアとて驚いた。はじめて彼女が自身を目に映した時、その時、彼女は驚きの表情を見せていた。

 レジーナは続ける。

「だから、余計警戒しちゃったのよ? 魔王がこんな優しい瞳をしているはずがないって」

 彼女はエレフセリアの頬に手を添えた。

「でも、間違いじゃなかったのね」

 碧い瞳がエレフセリアを映す。一族が憎む王族の碧。エレフセリアに死の運命を与えた者の碧。それでも、彼女の瞳が愛おしくてたまらなかった。

 エレフセリアは彼女を抱きしめた。二人は体を重ねた。


  *


 エレフセリアは言わなかった。彼女だけには知ってほしくなかった。だが、レジーナは知らないふりをしてはくれなかった。

「貴方が魔王なんておかしいわ」

「レジーナ……」

「この国を壊す。貴方がそんな愚かなことをするはずがない」

 この国を愛しているレジーナ。彼女に真実を告げたくなかった。だけど、それでも、もう彼女に嘘はつけなかった。

 エレフセリアは真実を話す。この国の物語を。呆れた茶番を。

 レジーナは絶句した。

 そんなレジーナにエレフセリアは必死に伝える。

「おかしな世界だ。それでも、僕はこの世界を愛している。それを教えてくれたのは、君だ。君なんだ、レジーナ」

 エレフセリアはレジーナを強く抱きしめた。

「だから、世界を憎まないでくれ」 

 レジーナの手を握りながら、エレフセリアは自身の過去と未来を語った。

 幼い頃から自分は魔王になることが定められていたこと。フェア、アウトリタ、ディニタに出会い物語を終わらせると誓ったこと。魔王になる代わりに一族の皆を逃がしたこと。そして自分は死ぬこと。

「貴方はそれでいいの?」

「ああ、いいんだ」

 零れたレジーナの涙をエレフセリアは拭う。

「僕は死を受け入れている」

 レジーナはエレフセリアの胸に顔を埋めた。その晩はずっと泣いていた。だが、次の日になると彼女は目を赤く腫らしながらも笑って見せた。

「貴方が世界を愛しているのを私は知っている」

 彼女はエレフセリアの運命を受け入れてくれた。それがどれほど嬉しかったか。だって、彼女に迫られたら、きっと揺らいでしまうから。

「妹達が動いているなら大丈夫だわ」

 レジーナは笑った。

「あの子、おとなしそうに見えて私より行動力があるの。きっと、物語なんて全て暴いて新しい世界を作ってくれる。きっと、そうよ」


   *


 そのうち、レジーナの中に小さな命が宿った。

 カリーナは相変わらず優秀だった。国の兵に悟られないように、手を回し尽くし、レジーナの出産の手助けをした。

 出産に立ち会ったエレフセリアだったが、ただおろおろとするしかなかった。挙句、カリーナに邪魔だと言われ、隅っこで膝を抱えて座っていた。レジーナは出産に苦しみながらも、それを見て笑ってくれた。

 生まれた命。元気な女の子だった。

 エレフセリアはレジーナに抱かれた赤ん坊にそっと触れた。温かくて涙が出てきた。

 だが、胸は苦しかった。その子は赤い目と赤い髪を持って生まれてしまったからだ。この子もまた運命に翻弄されるだろう。そう思うと辛くてたまらなかった。

 レジーナは赤ん坊の頬に手を添えた。愛しさを込めたその目で彼女は呟く。

「とっても、綺麗な赤。嬉しいわ」

 エレフセリアは何も言えなかった。金の髪に碧い目。レジーナと同じ色ならどれだけよかったか。 

 悲痛な顔をしていたのだろう。レジーナはエレフセリアの瞳を見つめ、強く言った。

「大丈夫。この子は何があっても私が守るわ」

 彼女の覚悟に、エレフセリアは息を呑み、情けなく笑った。

「君には敵わないよ」

 悲観し、怯えるだけの自分と違って、彼女は先を見つめている。この子の未来を。

 エレフセリアはレジーナの手から赤ん坊を受け取る。 

 この子のために自分が出来ることは何か。エレフセリアは深く思考を巡らせた。


 赤ん坊というのは中々に大変な生き物だ。

 泣く、食べる、生きる。

 全てに全力で、こちらも生半可な覚悟ではいられなかった。

 エレフセリアは泣きじゃくる赤ん坊を抱き上げ、あやす。

 彼女の名前はまだ決まっていない。レジーナとエレフセリアはずっと悩んでいた。

「この子にふさわしい素晴らしい名前は何だろう?」

「可愛らしすぎて浮かばないわ」

 こんな会話を繰り返していると、カリーナがため息をつく。

「親バカとは、まさにこのことですね」

 そう言いながらも、彼女は笑っていた。

 赤ん坊をベッドに寝かすと、手を伸ばしてくる。エレフセリアは興味半分に指を出してみた。赤ん坊はその指をきゅっと掴んで笑った。

 愛しさに胸が詰まった。

 そして気づく。

「ああ……。この子はアリシヤだ」

「ありしや?」

 レジーナの声に頷く。

「アリシヤ。コキノの一族では『真実』を表すんだ」

 自分の人生は物語に定められている。生き方も、死に方さえも。

「でも、君と出会い、この子が生まれた。それは物語じゃない。確かな真実」

「真実」

「そう、真実なんだ」

 レジーナは潤んだ目で微笑んだ。

「アリシヤ……。とても、いい名前だわ」

 エレフセリアは、赤ん坊、いや、アリシヤに向かい合う。

「君の名前はアリシヤだ。嘘偽りのない存在。僕とレジーナの揺らがない真実」

 意味はちっとも分かっていないだろう。だけど、アリシヤはキャッキャと笑った。

 エレフセリアはアリシヤを抱き上げる。

「生まれてきてくれてありがとう」

 アリシヤはエレフセリアに手を伸ばす。そして――。

「痛いっ⁉」

 エレフセリアの髪の毛を掴み、引っ張った。

 レジーナとカリーナが声を上げて笑った。何にも代えがたい、幸せな時間だった。


   *


 アウトリタからの手紙は徐々に事務的になっていった。

 計算より多くの死人が出たこと。

 多くの町が滅んだこと。

 ディニタが死んだこと。

 そして、勇者が目前に迫っていること。

 エレフセリアはその知らせを受け、アリシヤをあやすレジーナの元へ向かう。

「レジーナ、話がある」

 エレフセリアの表情で察したのだろう。レジーナはアリシヤをベッドに寝かせ、エレフセリアと向かい合う。

 エレフセリアは事を告げた。もうじき勇者が現れる。

「レジーナ。僕は役目を果たす」

「分かっているわ」

 レジーナは強く揺らがない瞳で言った。彼女はエレフセリアの覚悟を理解していた。

 エレフセリアは唇を噛み、そして、告げたくないことを告げた。

「レジーナ。この子は僕が預かる」

 きっと、アリシヤは国の者に見つかれば殺されてしまう。それは目に見えていた。レジーナもそれを分かっていたのだろう。彼女の開いた口からは言葉が出てこなかった。

 エレフセリアは碧い瞳を見つめる。

「アリシヤは僕がどんな手を使ってでも生かす。だから、君は君が生きることだけを考えろ」

 レジーナが言葉を紡ぐ前に、エレフセリアは言った。

「全てを忘れ、幸せになってくれ」

 あまりにも残酷な言葉だ。理解している。

 だけど、レジーナにもアリシヤにも生きて欲しかった。そのためにはこうする他なかった。

「分かったわ」

 レジーナは静かな声で言った。エレフセリアは彼女を抱きしめた。


   *


 ついにその時がやってきた。

 アリシヤを助ける算段。それはついていた。アウトリタに根回しをした。あとは、彼女が動いてくれるかだ。

「魔王様、勇者が門をくぐりました」

「よかろう」

 兵の言葉に魔王・エレフセリアは立ち上がった。

 アウトリタの兵に、勇者とその盾・スクードを分離させた。そして、スクードを裏口近くの狭い部屋に誘導する。

 薄暗い部屋。エレフセリアが邂逅したスクード。黒い髪に金の瞳を持つ、ディニタによく似た少女だった。

 彼女はエレフセリアと向かい合うと目を見開いた。それもそうだろう。エレフセリアはその手にアリシヤを抱いていたのだから。

「はじめまして。ルーチェ」

「どうして、その名を?」

 彼女は剣を構えてエレフセリアに問う。

 スクードは役名。ルーチェが彼女の本当の名前。

「ディニタから聞いたんだ。最愛の妹の名だって」

「ふざけるな!」

 彼女が声を荒げた。

「あいつが! 母さんを殺したあいつが! 最愛の妹だと⁉ 侮辱も大概にしろ!」

 胸が痛んだ。

 どうして、こうもすれ違ってしまうのだろう。

 ディニタは彼女を愛していた。この国のため多くの物を捨てた彼が、捨てきれなかった大切な妹。いや、違うんだ。彼がこの国を守りたかったのは彼女の為なんだ。それなのに死んでも尚、彼は許されない。

 だが、それを伝えている時間はない。

「ルーチェ、一つ交渉をしよう」

「は?」

「私は勇者を生かすことができる」

 エレフセリアの言葉に彼女は息を止めた。エレフセリアは続ける。

「ただし、君がこの子、アリシヤを連れて逃げてくれたらの話だ」

「どういうことだ……?」

「そのままの意味だ。私と……いや、僕とレジーナの最愛の娘だ。どうか、君の手でこの子を救ってはくれないだろうか」

 エレフセリアは頭を下げた。彼女は呆然とした。顔を上げ、エレフセリアは問う。

「君は真実を知っているんだろう?」

「あんたも……?」

「そうだ」

 エレフセリアはルーチェの方に足を進める。もう彼女に戦意はないようだ。剣を下ろした。

 エレフセリアは、彼女の金の瞳を見据える。

「この子の名前はアリシヤだ」

「アリシヤ」

「そう。アリシヤが一五歳になるまで育ててあげてくれ。そして、十五歳の誕生日。一二月二日。その日に真実を告げる。それが、僕からの頼みだ」

「そうすれば、リベルタは死なないのか……?」

 ルーチェは震える声で言った。

 そう、勇者であるリベルタは、魔王を殺した後、殺される運命にある。彼女もそれを知っているようだった。

 エレフセリアは頷く。

「手は回してある。あとは君の判断次第だ」

 兵の者から声がかかる。もうじき勇者は玉座の間に着く。

 ルーチェはエレフセリアの手からアリシヤを受け取った。

 もう二度とアリシヤには会えない。名残惜しくてたまらなかった。だが、別れを惜しんでいる暇はない。

「裏口から逃げてくれ。国の者には見つからないように、逃げて、逃げて、逃げてくれ!」

 彼女は頷くと、走っていった。その背を見送る。

 大切な友人・ディニタよ。君は妹の心を殺してしまったと泣いたそうだね。だけど、大丈夫だったよ。彼女も大切なものを持っていた。守りたい、勇者、いや、リベルタという存在を。

 そして、天を仰いだ。

 さようなら、アリシヤ。どうか、幸せに。

 エレフセリアは踵を返し、玉座に向かう。

 死が訪れる。

「受け入れていたのにな」

 エレフセリアはぽつりと呟いた。


   *


 物々しい玉座で勇者・リベルタを待つ。玉座を囲む明かり。大量のロウソクが並んでいる。この日のためにアウトリタに用意させた。

 現れた白髪褐色の少年。蒼い瞳がこちらを睨む。

 彼は真実を知らない。アウトリタから、そう知らされていた。

「来い」

 エレフセリアは魔王を演じ、立ち上がって剣を構えた。リベルタが踏み込んだ。

 軽い剣だった。この国の兵よりかは幾分か強いようだったが、エレフセリアの方が数段上手だ。リベルタもそれを分かっているようだった。それでも、なお諦めず、逃げもせず、戦意は衰えない。それは、きっと大切な何かを守るため。

「リベルタ。君も大切なものをたくさん持っているんだね」

 彼は荒い息を上げながら、怪訝そうにエレフセリアを見た。エレフセリアは微笑む。

「それはとてもいいことだよ」

「は?」

「君は生きるんだから」

 エレフセリアは玉座の前で空を薙いだ。その斬撃で、数多のロウソクが倒れ、床に落ちた。引かれた絨毯に火がつく。

「さようなら、リベルタ」

 炎は見る間に広がった。玉座の周りが火の海となる。

「どういうことだ⁉」

 リベルタの叫びが聞こえる。

 この子は勇者として魔王を殺めるためにここまで来たのだ。なのに魔王が自害するなんて――。

 辛いだろうが許してくれ。手を抜くのは苦手なんだ。

 叫び続ける少年。

 君もいつかこの国の真実を知るだろう。君は真実を知って打ちひしがれるだろうか。この世界を恨むだろうか。

 いや――。

 エレフセリアの脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。

 君は大丈夫だ。アリシヤを託した少女、あの子がいればきっと――。

「君も世界を愛せるさ」

 リベルタが目を見開いたのが見えた。聞こえたのだろう。

 エレフセリアは微笑んだ。黒煙に包まれ、彼の姿は見えなくなった。

 

 死がこれほどまでに恐ろしいなんて。

 業火の中、エレフセリアは独り思う。

 子供の時から死を受け入れていた。なのに――。

「死にたくないなぁ」

 エレフセリアは呟いた。


 熱い。もう、死が目前に迫っている。

 デイリアの手紙を思い出す。

『この世にお前が死にたくないと思える理由が一つでもできることを願う』

 一つじゃすまなかった。死にたくない理由が、たくさん、たくさんある。

 デイリア、もう一度、君に会いたい。コキノの皆にも会いたい。アウトリタ、フィア、死んでしまったディニタにも。皆に愛していると伝えたいんだ。

 そして、未来を生きたかった。レジーナと、アリシヤと共に。

 でも、それは叶わない。分かっている。

 目を閉じる。

 何も持っていないと思ってた。だけど、こんなにもたくさんの大切なものを持っていた。死への恐怖がそれを教えてくれる。どれだけ、それらが愛しかったかを。

 エレフセリアは呟いた。

「ありがとう。愛してるよ」

 その言葉は誰にも聞かれることなく、炎の中に消えた。 


***

 エレフセリア(Ελευθερία)…ギリシャ語で『自由』。リベルタと対になっている。

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