後悔、懺悔、そして
魔が差した、としか言いようがなかった。
リベルタは上体を起こし、ベッドの上でため息をついた。
隣で眠るルーチェ。美しい横顔にかかった長い髪を払おうと手を伸ばした。だが、やめた。
自分にそんな権利はない。望んだ。だから行動した。自分の卑劣さに嫌気がさす。
ルーチェがうっすらと目を開ける。
「おはよう」
リベルタは声をかけた。ルーチェが目を見開き、素早く上体を起こす。そして、無言のまま、リベルタの頬をぶった。
こうなることは分かっていた。リベルタは甘んじてそれを受け入れた。
*
それから三か月がたった。
王都の中央、城の中庭で、兵達は今日も己の技に磨きをかけていた。
「甘い!」
ルーチェの突きが、ラーゴに入る。ラーゴはそのまま体勢を崩した。一対一の訓練。ルーチェの勝ちだ。
外野で自分の出番を待つリベルタ。いつもはルーチェに声援を飛ばす。だが、あれ以来リベルタはルーチェに声をかけることができなくなっていた。代わりに漏れるのは深いため息。
自分の卑劣さに言葉も出ない。
ルーチェの方をちらりと見る。彼女はいつも通りの涼しい顔だ。こちらが話しかけなければ、ルーチェは話しかけてはこない。もう、しばらく業務以外での会話はしていない。
さみしい。
ふっとそんな言葉が頭に浮かび、リベルタはそれを打ち払うように首を横に振った。そんな感情、どこか昔に置いてきたはずだ。
「ルーチェさん⁉」
タリスの叫び声に、リベルタは顔を上げる。リベルタは目を見開く。ルーチェが地面に倒れている。
「ルーチェ!」
リベルタは人々を押しのけ、ルーチェの元に走る。気を失っている。顔色が悪い。妙な汗をかいている。リベルタはぞっとしたものを覚え、ルーチェを抱える。
「医務室に連れて行ってくる。タリス、あとは任せていいな?」
「大丈夫です」
タリスの頼もしい返事を聞き、リベルタはルーチェを抱え走り出した。まさか、そんなことがあるはずがない。リベルタは緊張しながら医務室へ急いだ。
*
医務室での治療中、リベルタは部屋の外へ追い出された。診察するなら仕方ない。
リベルタは城の廊下で手持無沙汰にルーチェが目覚めるのを待つ。リベルタは壁に
背をあて、目の前の大きな窓を見やる。
空は澄み渡っていていい天気だ。ぼんやりとそれを眺める。だが、心は落ち着かない。焦燥がこみあげる。
「あ」
幼い声に顔を上げると、そこには最近歩き始めたルナーリアがいた。彼女はリベルタを見つけると、満面の笑みを浮かべる。
「りべるたおじちゃ」
「ルナーリア。一人でどうした?」
ルナーリアはその質問には答えず、こちらに手を伸ばしてくる。
「仕方ないな」
リベルタは笑いながら、ルナーリアを抱き上げた。その温かさと重みが伝わってくる。自然と頬がほころぶ。
子供は嫌いじゃない。むしろ好きだ。もし、ルーチェとの子供ができたらどれほど嬉しいか。何度も何度も思った。素直に伝えられなかった結果があれだ。
リベルタはまた、ため息をついた。リベルタの浮かない顔に気づいたのかルナーリアがリベルタの頬にぺちっと触れる。
「りべるたおじちゃ?」
「なあ、ルナーリア。俺はな、大好きな人に最低なことをしてしまったんだ」
「さいてい?」
「そう。それも何度も何度も。でも今回ばかりは許されないかもな」
リベルタは、ルナーリアを高く持ち上げた。ルナーリアはきゃっきゃと声を上げてはしゃぐ。
「ルナーリア」
「ママ!」
自身を呼ぶ声にルナーリアの笑顔が華やぐ。地面に下すと、ルナーリアは一目散に母であるフィアのもとへかけていく。フィアはルナーリアを抱えると、こちらに向かって微笑んだ。
「ルナーリアの相手をしてくれてありがとう」
「いえ、それよりだっこ代わりましょうか? お身体が」
リベルタは二人目の子をその身に宿したフィアの身体を案ずる。
「大丈夫よ。ありがとう」
ルナーリアを連れてフィアが行く。その背をリベルタは見つめる。途中、焦ったように駆けてきたアウトリタ。フィアが抱えていたルナーリアをアウトリタが抱く。
フィアと結婚し、今は王となったアウトリタ。だが、見える背はただの優しい父親だった。
フィアは今でもディニタを思い続けている。だが、フィアは国の安定のために身を固めた。アウトリタもそれを分かっていた。それでも二人は、正しく愛し合ったのだ。
二人の背中を見送る。
それに比べて自分はなんだ。歪んだ愛情。愛おしさに含まれる妬ましさ。制御できずに欲望のままに吐き出した。いや、自制するつもりなんかなかった。ルーチェの優しさに甘えていつも自分の歪みをさらけ出してきた。
自己嫌悪に、リベルタは壁に背を付けそのままずるずると座り込んだ。
「あーあ……。本当に最低……」
「何やってんだ?」
頭上からの声に顔を上げるとルーチェがこちらを怪訝な目で見下していた。その顔色はまだよくない。リベルタはのろのろと立ち上がる。
「その、大丈夫か?」
「黙ってついて来い」
ルーチェがリベルタの手首を掴んだ。そして、そのまま歩き出す。
「ルーチェ?」
「黙って、ついて来い」
分かった。そう答えるのもはばかられそうな静かな声だった。ルーチェが手を離した。リベルタはルーチェに従い、黙って彼女についていった。
*
城から十分ほど歩いたところにある、小さな家。アリシヤとルーチェが住む家だ。
アリシヤはオルキデアで働いているため、今はいない。木製の机に四脚の椅子。ルーチェがその一つに腰を下ろす。
「座れ」
リベルタは、ルーチェに促されるまま、その正面に座った。気まずい沈黙が訪れる。ルーチェが口を開いた。
「妊娠した」
ルーチェの静かな声。リベルタは彼女の目を見ることができなかった。ルーチェは続ける。
「お前の子だ」
「そう、か」
リベルタは笑おうと顔を上げた。だが、表情が引きつっているのが自分でも分かる。
望んだはずだ。これがあるべき結果のはずだ。
ルーチェはそんなこちらの様子に気付かないのか続ける。
「結婚しないとな」
「そう、だな」
「このままじゃアリシヤに示しがつかない」
そこでルーチェが言葉を止めた。黄金の目がまっすぐにこちらを見据える。
「これで満足か? リベルタ」
喉が締め付けられるのを感じた。
満足だ。自分はこの結果を待ち望んでいた。いつかいつかと先延ばしになんかしたくなかった。
だから、あの夜――。
「あの夜、俺は、お前のグラスに、酒を混ぜた」
気付けば震えた声でリベルタは口に出していた。
「お前が、酒に酔ったら、どうなるか、分かって、それで」
ルーチェは酒に酔うと、ひどく甘えたがりになる。普段は隙の一つも見せない彼女だが、酒だけは弱い。リベルタはそれを分かってルーチェのグラスに酒を注いだ。
「それで」
言葉が続かなかった。ほろ酔いで気分が高揚したルーチェを誘った。半ば無理矢理だったと言っても間違いではない。そして、腹に子を孕ませた。
卑劣極まりないやり口だ。どうしようもない。分かっているのに。
「悪い……、ルーチェ。俺、嬉しくてたまらない」
「は?」
「俺、お前を孕ませたことが、気が狂いそうなくらい嬉しくてどうしようもないんだ」
その時、ルーチェが立ち上がり、リベルタの頬をぱんっと挟む。
「⁉」
「嬉しいんだったら嬉しそうな顔しやがれ、馬鹿が」
手を離したルーチェ。見上げると、呆れたような表情の彼女と目が合う。ルーチェが小さくため息をつくと言った。
「私も嬉しいよ」
「え?」
「いや、そう言うと語弊があるな。嫌じゃないんだ。本当に。チクショウが」
そういってルーチェはわしゃわしゃと頭を掻きむしる。
「お前との子ができて、嫌じゃない。嫌じゃないどころかむしろ……。あーあ、そんな自分が嫌だ。なんか悔しい……」
顔を逸らすルーチェ。照れているかのような挙動に、リベルタは机に手をつき、思わず立ち上がる。
「ま、待て……⁉ 俺はお前に酒を飲ませて無理矢理――」
「リベルタお前バカだろ」
「へ?」
ルーチェも立ち上がり、こつんとリベルタの額に額をぶつける。
「お前が私のグラスに酒を入れたことくらい分かってたんだよ」
「え?」
「分かってて飲んだ。私としても一歩踏み出したかったから」
リベルタは戸惑う。
ルーチェはあのグラスの飲み物が酒と分かって飲んだ? 一歩踏み出すために? 一歩ってなんの?
リベルタの混乱をよそにルーチェはふっと額を外す。
「なあ、リベルタ。お前何か勘違いしてないか?」
「何かって……?」
「私が怒ってるのはお前が酒を飲ませたことじゃない」
ルーチェは自分の意志で酒を飲んだ。だとしたら――。
リベルタは小さな声で尋ねる。
「襲ったこと?」
「そうだ。そして!」
ルーチェがふっとリベルタの胸倉をつかんだ。
あ、頭突きされる。
覚悟し目を閉じた。だが、感じたのは唇に落ちた柔らかな感覚。ルーチェが唇を離す。黄金の目が間近でリベルタを見つめる。
「そうでもしないと私と共にいられない。そう思ってるだろうお前の腐れ根性だよ」
ルーチェがリベルタを離す。力の抜けたリベルタはそのまま倒れこむように椅子に腰を掛けた。
「……待て。どういうことだ」
「察しろ、馬鹿が」
そういってルーチェはぷいと横を向いた。
「本当はあの夜、お前に好意を伝え、正当な手続きを持って恋人という関係になって、結婚するという手筈を踏みたいとお前に話したかったんだよ、馬鹿が」
一息にルーチェはそう言った。訳が分からない。
「好意……? 恋人? 誰と?」
「お前だよ。言わせるな。クズめが」
ルーチェは深いため息をつき、椅子に座った。
「お前さぁ、なんで自分の好意は押し付けてくるくせに、私の気持ちは受け取ってくれないのかなぁ」
「だって……」
リベルタは言葉に詰まった。
確かにそうだ。無意識だった。ルーチェは自分に好意を持つはずがない。どこかでそう思っていた。それがどうしてか。リベルタは分かっている。
「俺はお前に最低なことをした」
ルーチェの大切な人であるアリシヤを奪おうとした。ルーチェのことを斬り、牢につなぎ、そんな状態の彼女に手を出そうとした。
「許されるはずがない」
口にして気付いた。そして続ける。
「そう思っている。分かってるのに、俺はお前と共にありたい。それで」
今回のことだ。自分の暗い欲望に負けた。リベルタはもう一度、口にした。
「許されるはずがないんだ」
「あれだけのことをやったくせに、なんでそんなところは真面目なんだ。お前は」
ルーチェがふっと笑う。
「お前は変わってしまった。けど、変わらないな。やっぱり」
黄金の目がリベルタを映す。昔と変わらない真摯で美しい瞳。
「リベルタ。私はお前のことを愛している。私の気持ち、受け取ってくれ」
ルーチェが満面の笑みで言った。
ルーチェが初めて笑った日のことを思い出した。美しくて儚い笑顔だった。笑ってくれて嬉しかった。ずっと、その笑顔を見たいと思った。その思いは、歪んで、狂った。
「いいんだろうか」
リベルタは目元を覆い、呟いた。
「なぁ、ルーチェ。俺はこんな幸せになっていいんだろうか?」
歪んだ自分を認めていた。それが今の自分だ。変えられるはずもない。分かっている。だからこそ、どこかで受け入れられなかった。自分が幸せになることが。
「愛する人から、愛される。そんな幸せを、こんな俺が享受していいんだろうか」
「いいよ」
あの日と同じようにルーチェは言った。
「いいんだよ。リベルタ」
リベルタは強く奥歯を噛みしめた。そうでもしないと嗚咽をこぼしそうだったからだ。
「ああ……っ、くそっ」
笑いながら悪態をついた。その瞳からは涙が落ちていた。ルーチェは何も言わなかった。リベルタの横に席を移し、ただただ、静かに寄り添ってくれた。
*
実は本当に大変だったのはここからと言えよう。
ルーチェの妊娠と結婚をアリシヤに伝えたところ、アリシヤが激怒。アリシヤに激しい怒りを向けられたルーチェがショックのあまり放心。リベルタの話をアリシヤが聞くはずもなく、タリスとロセが説得。その間、リベルタは、何故かイリオスになじられる。アウトリタには、強姦疑いをかけられ、フィアに尋問された。
「結構いろいろありましたね」
「本当にな」
タリスの言葉に、リベルタは苦笑した。想像を絶する苦難だったといってもよかろう。
そこに、とある人物が顔を出す。数年前の少女の面影はなく、今は、美しい女性となったアリシヤがいた。
「ルーチェの方は準備、整いました」
「分かった」
リベルタは襟を正す。そして深呼吸をした。
「勇者様」
アリシヤの鋭い声にリベルタは顔を向ける。眉間にしわを寄せ、さぞ不服そうにこちらを睨んでいる。
「私はまだ納得してませんよ」
「だろうな」
リベルタはため息交じりに答えた。それは仕方のないことで、アリシヤを責めるつもりはない。むしろ責められるとしたら己の方だろう。
レジーナに似たアリシヤのその瞳。怒りを含んだ目はなかなかの迫力がある。
「だから訊きます。ルーチェのことをどう思ってるんですか?」
リベルタは言った。
「愛してる」
さらりと出た言葉。アリシヤは目を見開く。驚いたのはアリシヤだけじゃない。リベルタは口元を押さえる。そんな言葉を言うつもりはなかった。無意識に出てしまったのだ。
「ちょっと待って、今のは――」
「ルーチェがもし結婚するのなら」
アリシヤがリベルタの言葉を遮るように言った。
「かっこよくて、優しくて、頭が良くて、強くて、なにより、ルーチェのことを愛して大切にしてくれる人がよかった」
アリシヤがくるりと回り、リベルタと向き合う。
「残念ながら、あなたはそれに当てはまるんですよ」
「……え」
普段散々、外道だなんだ罵られている。リベルタは怪訝な目でアリシヤを見た。
「何を企んでる?」
「何ですか。勇者様じゃあるまいし」
アリシヤは頬を膨らませる。
「確かにあなたは酷いことをしました。ルーチェにも私にも。その他、いろんな人に。そんなあなただったら、私は絶対ルーチェを渡しません」
アリシヤの話が見えない。リベルタは眉間にしわを寄せる。だが、アリシヤはそんなリベルタに笑いかける。
「過去のあなたにだったら、絶対ルーチェは渡さない。でも、今のあなたにだったら託せる」
まあ、とアリシヤは続ける。
「腹は立ちますけどね!」
「……俺は何も変わってないぞ」
リベルタは暗く呟いた。本心だった。
「ルーチェに対する歪んだ気持ちは変わらない、俺はあの頃からなにも」
「それでもあなたは変わりました」
アリシヤが静かに告げた。リベルタは俯く。
何も変わっていない。自分の根底にあるもあるものは何も変わらない。それでも、見つけたものがある。無くしたと思っていた感情。幸福。それの存在を認められる自分。
アリシヤに言われなくとも知っている。
人間は生きている限り変化を避けられない。リベルタだって例外ではない。ただ、それを受け入れたくないと思っている。狂気も歪みも、失うことを恐れている。なかったことにしたくはないのだ。
それでも変わる。だって、リベルタは生きているのだから。
アリシヤが微笑えんだ。
「変わりましたよ。だって」
「言うな」
リベルタはアリシヤの声を制した。そして顔を上げ、鼻で笑う。
「そこから先、出てくるのはいつもの綺麗事だろう?大っ嫌いなんだよなぁ、あんたの綺麗事」
そんなリベルタの反応にアリシヤは一瞬固まった後、引きつった笑顔を浮かべる。
「そうですね。私もあなたのそういうところ、大っ嫌いです」
「おーい、お二方。喧嘩は式、終わってからにしてくださいねー」
いつも通りタリスの仲裁によって事態は収まる。
「準備はいいですか?」
タリスの言葉にリベルタは頷いた。
白と青のステンドグラスに彩られた教会。その中央に純白のドレスに身を包んだ彼女が待っている。美しい花嫁姿のルーチェにリベルタは息を呑んだ。
「遅い、待ちくたびれたぞ」
「悪かった」
リベルタは小さく笑った。
勇者とその盾、英雄同士の結婚だ。参列者も多くにぎやかだ。
リベルタは思い返す。
歪んだ自分を認めている。だが、幸せになってはいけないと思っていた。死ぬべき存在だ。そんな言葉が常に頭を支配していた。ずっと殺したくて仕方なかった。自分自身を。
隣に並ぶルーチェを見やる。彼女がいつか叫んだ言葉。
『生きろ、生き延びろ!』
その言葉に呪われた。いや、ルーチェという存在に呪われたのだ。何度も自死を試みた。だけど、最後はいつもルーチェの顔が頭によぎった。そして、手が止まった。足が止まった。情けなくて、みっともなくて、更に死にたくなった。
きっと彼女はそんなことは知らない。
死ねたらよっぽど楽なのに。今でも思う。
まだ、求めている答えにはたどり着かない。真実を知り、歪んだ自分が何なのか。どうするべきなのか。幸福をもってしても己の中に沈殿する暗い泥は拭えない。
それでも――。
リベルタはルーチェと手を重ねた。ルーチェがふっと視線をこちらに向ける。
「ありがとう」
リベルタは言った。ルーチェが笑った。
生きていてよかったと思うのだ。
祝福の声が教会を満たした。
***
リベルタ(libertà)…イタリア語の『自由』。最大の皮肉。
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