憎しみを偲ぶ

 母が消えたあの日、兄に尋ねた。

「お母さんは?」

「殺した」

 ディニタは短く答えた。それ以来、ディニタのことを兄と思ったことはない。


   *


 物語が終わった。そして、ルーチェはスクードとしての職務に戻ることを決めた。

 それはアリシヤを守るためでもあったし、リベルタの傍にいるためでもあった。

 その意をフィアに伝えると、彼女は喜んだ。だが、その側近、アウトリタの顔には苦渋の表情が浮かんでいた。


 次の日の正午。ルーチェは政務室に呼ばれた。

 部屋に入る。いるのは、いつものながら眉間にしわの寄ったアウトリタのみ。彼は中央に据えられたデスク越しの椅子に座り、指を組んでいる。

 また、昔のように秘密裏の指示を出されるのだろうか。

 ルーチェの態度は自然と威圧的になる。

「要件は?」

 尖った声で短く尋ねる。アウトリタが俯いた。そして、椅子から立ち上がる。ルーチェの手は剣の鞘へと滑った。ルーチェの前に出たアウトリタ。そして、彼は頭を下げた。

「すまなかった」

 ルーチェは面食らう。まだ会って日は浅いが、この男が人に頭を下げるのは想像しがたい。

 そんなルーチェの戸惑いには気づいているのかいないのか。アウトリタは静かに告げた。

「お前の母を殺したのは私だ」

 思いがけない告白にルーチェの心臓が跳ねる。

 温かくて、優しくて、誰よりルーチェを愛してくれていた母。ルーチェと逃げたあの日、殺された。

 誰に? 決まっている。

「違う……。母を殺したのはあいつだ」

「ディニタじゃない。あいつはそう言ったかもしれないが――」

 アウトリタの苦し気な声。ルーチェはかっとなって叫ぶ。

「違う! あいつが殺したんだ! つまらない嘘をつくな!」

 ルーチェはアウトリタに背を向ける。彼の制止を聞かず、そのまま、場を後にした。

 唇を噛む。

 憎くて憎くてたまらない、ディニタの顔が浮かんだ。


   *


 それから半年が経った。

 あれからもアウトリタはルーチェに話しかけようとしたが、ことごとくかわしてやった。今日もうまい具合に撒けた。

 そして、酒場・オルキデアの扉を開く。

「あ、ルーチェ! お疲れ」

 ウェイター姿のアリシヤがルーチェを迎える。思わず表情がほころぶ。

 アリシヤは先日、無事、大英雄の地位を退き、今はオルキデアのウェイターとして働いている。仕事帰りにここに寄るのが、最近のルーチェの日課だ。

「こんばんは、ルーチェさん」

「ああ。今日はグラタンか?」

「大当たり!」

 店長のセレーノが嬉しそうに笑う。ルーチェは彼女を信頼していた。彼女はとても穏やかで優しい。アリシヤを大切に思ってくれている。アリシヤを任せてもいいと思える数少ない人間だ。

 ルーチェは辺りをぐるりと見渡す。

「客がいないな」

「ああ、今日は貸しきりなんです」

「貸し切り? なら出て行こう」

 セレーノの言葉に、ルーチェは下ろしかけた荷物を手に取り、立ち上がる。アリシヤは神妙に頷く。

「そうだね。ルーチェは帰った方がいい」

「ん? まあいい。分かった」

 チリンと小気味よい音を立てて、扉が開く。

「こんばんは、セレーノさん、腹減っ――」

 白髪褐色の男、勇者・リベルタ。彼の顔が輝いた。

「ルーチェ⁉ お前も来てたのか!」

「うっせぇ、黙れ、クズ野郎」

 ルーチェは親指を地面に向けた。リベルタの後ろから来たタリスが吹き出した。


 リベルタを迎える時、オルキデアは貸し切りとなる。彼は国民から恐ろしく人気がある。リベルタが店内にいると、彼見たさに、客が溢れかえってしまうのだ。

「でも、今はもう貸し切りの意味もないんじゃないか?」

 リベルタの言葉はもっともだ。

 実のところ、大英雄であるアリシヤもリベルタ並みに人気が高く、アリシヤを一目見ようとする客で、最近オルキデアは大変混みあっているのである。

「なんだか、ごめんなさい……」

 うなだれるアリシヤの背をセレーノが軽くはたく。

「なに言ってるの! お店が繁盛するのはとってもいいこと! アリシヤちゃんが人気なのもとってもいいこと!」

 セレーノはにっこりと笑う。

「そして、貸し切りの日は仲のいい皆で息抜きの日! さあ、アリシヤちゃん、食事の準備しよう」

 やはり己の目に狂いはない。彼女はいい人間だ。ルーチェは微笑んだ。

「俺にもそういう表情、見せてくれよ……」

 横でぽつりと呟いたリベルタを無視した。


 宴が進み、皆に酔いが回ってきたようだ。

 途中から顔をのぞかせたロセ。タリスと恋人になったアリシヤにロセは注意事項を連ねる。タリスがそれに反論する。セレーノもロセに加担し、タリスが焦る。

 アリシヤの周りに人がいる。それはとても新鮮で嬉しかった。

 アリシヤを守るため、彼女を一人家に置いていくことが多かった。友達が欲しいと泣いたアリシヤに何も言えなかった日もあった。

 楽しそうに笑うアリシヤ。喜びと一抹の寂しさ。

 アリシヤとふっと目が合う。少し酔って赤くなった顔で緩んだ笑みを見せる。

 彼女はこの一年でたくさんの大好きなものを手に入れた。そして、その大好きなものの中に自分も入っている。それだけで十分なのだ。寂しさだって受け入れることができる。

「ルーチェ、飲まねぇの?」

 横に座るリベルタ。ルーチェは眉間にしわを寄せる。

「飲まない」

「ぐだぐだに酔って甘えてくれるお前が見たいのに」

 リベルタの楽しそうな声に、ルーチェは盛大に舌打ちをした。 

 ルーチェは酒を飲むと直ぐに酔ってしまう。そして、とても人に甘えたくなってしまう。リベルタには絶対に知られたくなかったが、うっかり知られてしまった。不覚だ。

 しばらくルーチェの酒癖をけらけらと笑いながらからかってきたリベルタ。だが、ふっと手元のグラスに目を向けた。

「なあ、ルーチェ」

「あ?」

 思わず喧嘩腰になる。だが、リベルタの声はどこか硬い。リベルタは顔を上げ、ルーチェを見据えた。

「お前、母さんの墓は作りに行ったのか?」

 ルーチェは目を見開き、リベルタに顔を向けた。それは、遠い昔、リベルタに聞かせた願い。

「まだ覚えていたのか」

「ああ」

 リベルタの蒼い目がルーチェを見つめる。

「ルーチェ。お前はスクードとして城仕えをしてるが、その役割は物語と共に終わったはずだ」

 確かにそうだ。以前のように魔王を討伐するという目的もない。兵の訓練、それが今のルーチェの主な仕事だ。スクードでなくてはならない仕事ではない。

 リベルタが続ける。

「そろそろ、お前個人の願いを叶えてやってもいいんじゃないか?」

 ルーチェは息を呑んだ。

 ずっと心に引っかかっていた。だけど、踏み出せなかった。

 アリシヤを守るために、彼女の傍を離れるわけにはいかなかった。だけど、今は――。

 アリシヤの方に顔を向ける。彼女は強くなった。そして、守ってくれる仲間もいる。

「そうだな……」

 ルーチェは呟いた。

 アリシヤを言い訳にしていたことも否めない。母の死と向き合うのは苦痛だ。そして、ディニタの荷物から出てきた彼の手記、それから、最期の言葉にも。アウトリタを撒くのも、もう限界だろう。

「そろそろ過去と向き合うべきなのかもな……」

 ルーチェは小さくこぼした。

「なら」

 リベルタの言葉がそこで止まった。ルーチェは顔を上げる。何故かリベルタは緊張した面持ちをしている。

「リベルタ?」

「なら、俺と二人で旅に――」

「一昨日きやがれ」

 反射的に返していた。リベルタが一瞬ぽかんとする。そして、我に返ったようだ。

「全否定⁉」

 ルーチェもそんなつもりはなかった。最近、リベルタに対して罵倒しか返してなかったから、口をついて罵り言葉が出てしまった。

 だが、それでよかったとも思う。

 リベルタが項垂れる。

「そこまで嫌なのか……」

「ああ、最悪だな」

「ええ……」

 昔のようにいぬっころのような目をするリベルタ。少しでも可愛らしいと思った自分に腹が立つ。腹いせにリベルタの頭を思いっきりはたく。

「痛ぇ⁉ 何すんだよ!」

「忘れないからな」

「え」

「牢屋でのことは、一生忘れないからな」

 低い声で言ってやると、リベルタは目を逸らした。

 牢屋で鎖につながれたルーチェに手を出そうとしたリベルタ。未だに気持ち悪い夢を見て、飛び起きることがある。次の日にはしっかりとリベルタを殴る。

「お前みたいなクズと旅なんて絶対しない」

「賢明な判断だと思います……」

 リベルタがテーブルに突っ伏した。ルーチェはそんなリベルタを見ながら、彼に知られないように小さく笑う。

 正直、リベルタとの旅も悪くないと思う。牢屋のことは忘れないが、鎖にさえ繋がれていなければ、リベルタを返り討ちにすることなど造作ない。

 ただ、今回は一人で行かなければならないと思うのだ。ずっと、うやむやにしていたことに方を付けるために。

 ルーチェは旅に出ることを決意する。


   *


 十日間の休みをもらった。リベルタには何も言わず、アリシヤには仕事だと言った。

 ルーチェの故郷のノルドは王都からずいぶん離れている。だが、国の中央を流れているアンピオ川を渡れば四日ほどで着く。

 ルーチェは荷物をまとめる。王都の外れの店で買った石を鞄に入れる。それだけで、鞄の半分は埋まってしまった。だが、仕方ない。

 部屋の隅に置いてあった、緑の表紙の分厚いノートを手に取る。賢者・ディニタの手記。死んだ彼の鞄から出てきた。

 ルーチェは未だそれを捨てることができていなかった。その手記にはこの国の真実が記されてあったからだ。いや、それだけでないことをルーチェは知っている。

「チクショウ」

 ルーチェは悪態をつき、手記を鞄の中に放り込んだ。


   *


 ルーチェはフードにストールという、顔を隠すいでたちで旅に出た。

 今は一月、故郷のノルドは凍てつくほどに寒い。素肌をさらしたくはない。だが、それだけではなく、ルーチェはスクードと認知されるのが嫌だった。

 ルーチェは英雄として持ち上げられることが嫌いだ。そして、持ち上げてくる輩が大っ嫌いだ。たとえ悪意のない民衆だとしても眉間にしわが寄ることは少なくはない。

 人付き合いが苦手、面倒事とは関わりたくない、目立ちたくない。そういった性格が起因するのだろう。

 その点、民衆に優しいリベルタ、アリシヤには感心せざるを得ない。ルーチェはいつも二人の後ろに黙って立ち、事をやり過ごしている。


 船に乗り込む。ノルドへの物資供給を主とした船だ。貨物のついでに旅人も乗せる。そんな船のため、旅人用の部屋は小さく埃っぽい。だが、それでも居心地は悪くなかった。ルーチェ以外誰もいなかったからだ。

 わざわざ冬のこの時期に極寒地に行く輩などいないのだろう。悠々とした気持ちで伸びをする。

 鞄を開け、ディニタの手記に手を伸ばす。だが、そこで手は止まった。やはり、それを開く気にはなれなかった。

 ルーチェは甲板に出て、大河を眺める。

 ゆっくりと流れる川に目を向け、過去の出来事に思いをはせた。


   *


 幼い頃、最も楽しみにしていたのは己の誕生日であった。そして、次に楽しみにしていたのは、ディニタの誕生日だった。

 ノルドの城主だった父。ルーチェの家は裕福だった。誕生日になれば好きなものを買ってもらったし、豪華な食事も並んだ。

「いいにおいがする!」

 ルーチェは台所の母に抱き着く。メイドではなく母が作る料理。ルーチェはそれが大好きだった。

「今日はシチューよ」

「シチュー! お兄ちゃん、大好きだもんね!」

 配膳の手伝いをし、父はディニタへの誕生日プレゼントを用意する。まだ肌寒い春。ディニタを家の外で待たせる。準備ができると、ルーチェはディニタを迎えに行く。

「いいよ! お兄ちゃん!」

「ありがとう、ルーチェ」

 ディニタはルーチェの頭を優しく撫でた。

 楽しいパーティ。絵を描くことが好きだったルーチェは、毎年、兄の似顔絵を描いて贈っていた。

「ルーチェ、また絵が上手くなって……」

 目に涙を浮かべるディニタ。

 毎年、こうも喜んでくれるものだから、ルーチェは嬉しくってたまらなかった。


 ディニタは少しおかしな兄だった。一言で表すと、ありえないほど過保護。母ですらディニタの言動に呆れていた。

「もう。ルーチェは自分で判断して危ないと思ったらやめる。それができる子よ」

「で、でも、ルーチェは大胆なところがあるから……」

「心配しすぎ」

 母が苦笑した。ディニタがちらりとルーチェを見て、そして、項垂れる。

「だって、ルーチェが辛い思いをするところなんて見たくないよ……」

 とても優しい兄だった。ルーチェも兄の過保護すぎる言動に首をかしげることもあったが、そんな兄が大好きだった。


   * 


 数日が経った。夕焼けの中、船がセストを通り過ぎる。

 ここでリベルタに斬られ、アリシヤと別れることになったのだ。ルーチェは腹の傷を撫でながら顔をしかめる。

 アリシヤはリベルタに絡まれていないだろうか。

 ふと、残してきたアリシヤのことが心配になる。だが、それは杞憂だろう。分かっている。しかしながら、やはり、心配なものは心配だ。

 リベルタは天然のくせに巧妙な罠を張るし、アリシヤは結構喧嘩っ早いし……。

 過保護すぎるとは分かっているが――。

 そこまで来てルーチェは今更ながらに気づく。アリシヤを思う己は過去のディニタと同じだ。

 アリシヤが辛い思いをするところなんて見たくない。

 どうして変わってしまったんだろう。

 ルーチェの胸が詰まった。それが、虫唾が走るほど嫌だった。

 ディニタは母を殺した。そして、ルーチェをスクードという道具にした。憎むべき対象なのだ。

 だが、アウトリタは言った。

『お前の母は私が殺した』

 ルーチェは頭を掻きむしる。

 ディニタだ。母を殺したのはディニタだ。

 ルーチェは己に何度も言い聞かせた。


   *


 四日目の朝にはノルドに着いた。

 久々の故郷。ルーチェは深く息を吸う。

 肺をも冷やすような空気。腰の丈まで積もる雪。だが、雪は丁寧に道の端に固められており、歩くのには困らなかった。

 ルーチェは石畳の道を歩き出す。雪かきをしている男と目が合った。彼は目を見開く。

「ルーチェか?」

 ルーチェも目を見張った。彼は昔よく遊んでくれた近所の青年だった。名はフレッドと言う。

「お久しぶりです」

 ルーチェは頭を下げる。続けるべき言葉に迷う。彼には世話になったが、その縁はスクードになった際、ディニタに切られた。今更何を話したらいいか分からない。

 戸惑うルーチェをよそに、フレッドは優しく目を細めた。

「朝ごはん、何か食べたかい?」

「いえ」

「じゃあ、うちで食べて行きなよ。妻がおいしい料理を作って待ってるからさ」

 彼は笑った。


 遠慮がちにフレッドの家にお邪魔する。

「ルーチェ!」

 彼の妻はコニリオだった。彼女も過去、ルーチェと遊んでくれた女性だ。温かいレンガの家。小さな子供がベッドで寝ている。

「お二人は結婚されたのですね」

 可愛い赤ん坊の姿にルーチェの頬は自然と緩んだ。コニリオが口をとがらせる。

「そうなのよ。まさかこいつと結婚するとは」

「こいつとはひどい……」

 フレッドが肩を落とした。コニリオがくすくすと笑う。

「ふふ、冗談よ」

 少し気の弱いフレッドと勝気なコニリオ。とてもいい夫婦だと思う。

 ルーチェの緊張がほどけていった。

 温かいスープとパンを頂戴し、ルーチェの腹は満たされる。

 二人はルーチェに何も問うことはなかった。寒いだとか、今の時期はこれがおいしいとか、たわいない話をしてくれた。昔と変わらない優しい二人だった。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 コニリオが微笑む。ルーチェははっとする。

「危ない。ただ飯をいただくところだった」

 昔はよく二人にお菓子をもらったりしていた。その癖が未だに残っていたようだ。わたわたと鞄から金を取り出そうとするルーチェを二人が笑いながら止める。

「いいよ、いいよ。顔を見せてくれた。それだけでとっても嬉しいんだから」

 途切れた縁。だけど、なくなったわけではなかったのだ。

 ルーチェの目頭が熱くなる。ルーチェは二人に礼をした。

「ありがとうございます。そろそろ、行きます」

「どこに行くんだい?」

 フレッドの声はどこか苦し気に聞こえた。それを不思議に思いながら、ルーチェは答える。

「家を見て行こうと思って」

「そうか……」

 フレッドが席から立ち上がる。

「案内するよ」

「道くらい覚えてますよ」

 ルーチェの言葉にフレッドは俯く。

「案内、させてくれ」

 フレッドの強張った顔。ルーチェはその申し出を断れなかった。


   * 


 粉雪が舞う道を行く。

 フレッドの申し出の意味をルーチェは思い知った。かつての己の家までの道は酷く荒れ果てていた。

 息を呑んだ。

「……。今の城主様はあの家を使ってないんだ」

 言葉数少なく、フレッドが教えてくれた。

 崩れた家を前にし、ルーチェは呆然とした。

 もしかすると、まだ生きているのではないだろうか。そうとさえ思っていた。

 思わず尋ねる。

「父は?」

「君達が旅立った後、病で……」

 そんなことは知らなかった。体だけは丈夫な父だった。

 だが、フレッドは首を横に振った。

「いや、本当は分からないんだ」

 フレッドの手は震えている。目をきゅっと閉じ、何かを告げようとしている。その様子からルーチェはうっすらと何かを悟った。

「フレッドさん。道案内ありがとうございました」

「ルーチェ、その家には入らない方が――」

「いいえ。見て行かなければならない。そんな気がします」

 ルーチェは告げた。共に行くと言ったフレッドをコニリオの元に返す。きっと彼はこの家に入ったことがあるのだ。

 ルーチェは扉を開ける。建付けの悪い扉は、あの頃と同じく大きな音を立てた。

 瓦礫を押しのけ、玄関に上がり、廊下を過ぎる。そしてリビングへ。

「ああ……」

 ルーチェは声を漏らした。

 床には赤黒いができていた。飛び散り固まった血。病で死んだわけではなさそうだ。おそらく誰かに殺されたのだろう。

 死体はなかった。フレッドが弔ってくれたのかもしれない。

 ディニタが賢者になってから、元々多くなかった父の口数は更に少なくなった。こうなることを分かっていたのだろう。

 そう、真実を知った者は殺される。

 リベルタを育てた祖父も殺されたと聞いた。口止めだ。父も母も死んだ。それは、ディニタが賢者になったから。

 こんな大きくもない街の城主の息子なんか普通、賢者になれるはずがない。フィアと知り合いだったようだ。手を回したのだろう。

 どうしてそんなことをしたのだ。それさえなければ―。

 ルーチェは唇を噛む。

 ありもしない幸せの情景が頭をよぎった。

 真実を知らず、ただ、穏やかに日々を営めていただろうに。

 

 ルーチェは奥に、奥に足を進める。

 母が使っていた部屋はひしゃげて入ることはできなかった。母がどうやって殺されたかは知らない。だけど、こんな風に――。

 ルーチェは拳を握り締めた。

 傷だらけの部屋を横目に見る。

 ルーチェがずっと閉じ込められていた部屋。壁には爪を立てた痕。そして、黒ずんだ赤い染み。何度も体当たりをし、爪をぼろぼろにし、血まみれになって壁を殴った。

 吐き気がして、その部屋には入る気になれなかった。

 そして、最も奥のディニタの部屋にたどり着く。

 崩れてはいるものの整頓された部屋。ディニタらしい。反吐が出る。

 ルーチェは足を踏みいれる。

 母を殺したのはディニタだ。だが、アウトリタが利益にもならない嘘をつくはずがない。心のどこかでは分かっている。だけど、ルーチェにとって、憎むべき対象はディニタでなければならなかった。

 己を痛めつけ、家族を殺したディニタ。彼が全て悪いのだ。

 部屋をあさる。私物はないに等しかった。捨てたのか捨てられたのか。

 机の引き出しの奥に手を突っ込むと何かにあたった。引き出しを力づくでこじ開ける。朽ちかけたそれは簡単に壊れた。中から出てきた箱。

 鼓動が早くなる。ここには何かが隠されている。予感めいたものがあった。箱を開ける。

「え」

 出てきたものにルーチェは目を見開いた。

 そこにあったのは拙い落書きだった。ルーチェがディニタの誕生日に贈った彼の似顔絵。

『ルーチェ・四歳』

 絵の端には几帳面にルーチェの年齢が記されている。意味が分からなかった。何故こんなものがまだ残っているのだ。

 きっと、捨てることさえ忘れていただけだ。

 ルーチェは己に言い聞かす。

 紙を捲っていく。ディニタの誕生日を祝った年の数だけ、それは大切に保管されていた。そして、その下にはくしゃくしゃの紙。

「なんだ?」

 ルーチェはその汚い紙を引っ張り出す。並ぶ文字。

『あなたの苦しみを、そして為すべきことを理解できない母でごめんなさい』

 その文字は滲んでいる。涙の痕。握り締められた紙。

 母の字。これはディニタに向けられた言葉。そして、彼はこの手紙を捨てることができなかった。

 手記のことが頭をよぎった。そこに記された彼の心。

 訳が分からなかった。いや、分かりたくなかった。


   *


 家を出た。あの日、母と逃げた道を行く。

 スクードという立場の苦痛。それを母は知っていた。だから、ルーチェを連れて逃げた。

 あの家の窓は、はめ込み式だった。出入口は玄関の扉のみ。作りが悪く、扉が開く度に大きな音を立てた。あの夜も音はしていたはずだ。

 ディニタは気づかなかったのか? いや、気付かなかっただけだ。気づいていたらすぐに追ってきたはずだ。

 追手が来たのは二人が逃げてずいぶん経ってからの事だった。

 ルーチェは白い息を吐く。 

 昼の道はあの日と随分違って見えた。だから、母の腕で眠ったあの場所の正確な位置は分からなかった。

 ルーチェは雪深い木の根元に、王都で買ってきた石を立てた。死者を弔うための石。光を集めて夜にも輝く特殊な石だ。この国の神は光。夜でも死者が寂しくないように。

「お母さん。聞いてくれる?」

 ルーチェは語った。スクードとして苦しんだこと。リベルタという光に出会ったこと。アリシヤという希望を見つけたこと。

 喜びも怒りも哀しみも楽しさも全て話した。

「ねえ、お母さん。分からないよ」

 泣きそうな声でルーチェは言った。

 優しい兄の姿。変わってしまった。なのに、ルーチェの絵を、母の手紙を捨てられずにいた。

 そして、ずっと忘れようとしていた事実。ディニタはルーチェをかばって死んだ。

『ルーチェ。愛してる。だから、生きて――』

 最期にそう言って、彼は息絶えた。

「分からない」

 もう一度呟く。

「行くね」

 母の墓に背を向け、ルーチェは歩き出した。


   *


 町へ戻る。

 最後にコニリオとフレッドに挨拶をする。

「また来てね」

 ルーチェは頷いた。母の墓もある。何年後になるか分からない。それでもまた来る。

 二人は村の端までルーチェを見送りに来てくれた。

「ありがとうございました」

 ルーチェは頭を下げる。

「ルーチェ」

 フレッドが深く息をする。そして、悲しみを含んだ笑みを見せる。

「ディニタからずっと口止めされてた。だけど、伝えるね」

 ルーチェの体は強張った。フレッドが告げる。

「彼は僕の元へ来て、いつも泣いていたんだ。ルーチェを救いたいだけなのに、ルーチェを救いたいだけなのにって」


   *

 

 帰りの船に乗り込んだ。

 行きと同じく人のいない客室。

 故郷に帰った。母の墓を作った。だが、それだけでは過去を清算できたとは言えない。分かっている。

 ルーチェは真実を知ったあの日から、ずっと開くことができなかった、ディニタの手記に手を伸ばす。

 ルーチェはその中で真実を知った。だが、そこに記されていたのはそれだけではなかったはずだ。

 表紙を開いた。

『旅を始めた。ルーチェはどんなお土産だったら喜んでくれるかな』

 そんなたわいもないことから手記は始まっている。

 旅の中で見た様々な景色、出会った人、そして彼らの考え方。この国の風土。そして、違和感。ディニタは旅でこの国のおかしさを悟ってしまった。

 王都に着く。そこでディニタは一人の少女に出会う。

 それは金の髪に碧い目をした、そう、フィアだった。

 お忍びで街に繰り出していたフィアをゴロツキから救ったディニタ。後から駆けてきたアウトリタ。フィアとディニタはすぐに意気投合し、アウトリタはため息をつきながらも二人に付き合った。

 礼は何がいいか尋ねられたディニタ。彼は己の覚えた違和感の正体を知るため、書物による情報を求める。

 彼は読んだ。この国の史記を。各地の郷土史を。そして、この国に伝わる伝説を。

 ディニタはそこから立てた推測を、手記の中に事細かに記した。それはこの国の真実そのものだった。彼は自力でそれにたどり着いてしまったのだ。

 そして、彼は気づく。

 過去、国に抗う町や村は全て魔王によって滅ぼされている。ノルドの城主であった父は国の方針に反対していた。次の魔王が現れた時、故郷のノルドは滅ぼされるのでは?

 彼はフィアとアウトリタに震えた声で問うた。

「なあ、この国はおかしくないか?」


 ルーチェは文を追う。


 その後、フィアとアウトリタに真実を告げられたディニタ。自身の推測とほぼ合致していたそれ。底知れない恐怖を覚えた。そして、やはり故郷のノルドが滅びる運命にあることを知る。

「そんな運命は受け入れられない」

 ディニタは言った。

「なら、どうする?」

 試すようなアウトリタの問いに、ディニタは応えた。

「世界を変える」


 フィアとアウトリタ。二人は物語を終わらせようとしていた。

 二人が立てた計画の穴を見つけ出し、ディニタはそれを埋めていく。旅で得た経験、本で得た知識を総動員させて、計画を練った。

 そのうち、魔王となるエレフセリアも加わり、計画は現実味を帯びてきた。

 そう、物語を終わらせ、何にも定められない真っ白な未来を描くのだ。

 そのためにディニタは賢者となった。


『それが間違いだったのかもしれない』


 過去のルーチェはここで手記を閉じた。そこまでに、この国の物語、そして、賢者、スクードの役割、全てまとめられていたからだ。

 そして、ディニタの後悔が受け入れられなかった。残酷な仕打ちをした彼に懺悔をする権利はないと。

 ルーチェは歯を食いしばり、次の文に目を滑らせた。


 物語を終わらせるためには、ディニタが賢者となるしかなかった。そして、ノルドを救うためにもそうするしかなかった。

 賢者になる。それは国の物語に加担することだ。国に下ったも同然。そうすれば、ノルドが滅ぼされる謂れはない。

 ただ、一つ大きな問題があった。

「お前の家族の命が危ない」

 アウトリタに告げられた。

 ノルドは街と言えど、他に比べれば小さい。そんな街の城主の息子が賢者になった。アウトリタとフィアの手回しでディニタが選ばれたが、賢者という地位を得たい人間は数多くいる。

 賢者の親族は発言力を持つことになる。だから、命を狙われる。

 ディニタの葛藤は大きかった。

 家族は大好きだ。だけど、もう真実を知らなかった頃には戻れない。これからも物語の名のもとに殺される多くの犠牲を見過ごすことなどディニタに出来るはずもなかった。

 ディニタは様々な策を考えた。だが、国の手を逃れることはできそうにもなかった。父、母、妹。たった三人の命のために、この計画を中止する。それはできない。だけど、その、たった三人が己にとってどれほど大切か、ディニタは知っていた。

 国と家族、両者を救う方法はない。出たのは、そんな絶望的な結論だった。だから、彼は決めた。全てを諦める、それを除いた中で最も苦しい選択をすることを。

『ルーチェをスクードにする』

 スクードの役割。それは、勇者を守り、勇者を殺すこと。それだけ。その後は自由だ。そう、死ぬ運命を逃れることができる。ディニタは父と母の命を諦め、妹だけを守ることを決めた。


「手駒が欲しかっただけだろう?」

 ルーチェは口の中で呟く。手記に記される「守る」という言葉。どうしたって納得がいかない。ひどい仕打ちを受けた。心も体も痛めつけられた。

 守るなんて、どの口が言う?


 そこから、手記の字はどんどん荒れていった。

『僕はルーチェに人殺しをさせる。でも、そうできなくてはルーチェが死ぬ』

『ルーチェが強くなるために、厳しくしなければ』

『間違ってる、間違ってる、間違ってる!!!!』

『賢者なんてやめて、家族と逃げたい』

 そして、あの日が訪れる。

『母さんとルーチェが家を出た。これでいい。逃げて。もう、何でもいいんだ。逃げてくれ』

 

 ルーチェは息を呑んだ。

 あの日、やはりディニタはルーチェと母の逃走を知っていた。なら、己達を追ってきたのは、母を殺したのは――。

 次に現れたのは真っ黒く塗りつぶされたページ。文字を何度も重ねて、書き殴って。紙はボロボロで。

 目を凝らす。何とか読み取った数行。


『アウトリタが許せない』

『違う。僕が迷ったから母さんが死んだんだ』

『僕が殺した。僕が殺した』

『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい』

 

 あの日、ルーチェは問いかけた。

『お母さんは?』

『殺した』

 己の迷いが母を殺した。

 

 ルーチェは壁に背を付け、天井を仰ぐ。そして、再び手記に目を戻す。


 その日から、ディニタの心は更に不安定になっていった。冷静な箇条書きの日もあれば、謝罪の言葉が並ぶだけの日もあった。

『リベルタと出会ってから、ルーチェが笑うようになった。嬉しくてたまらない』

 次の文。

『でも苦しくてたまらない』

 次の日。

『ルーチェが生きるためには、リベルタをルーチェの手で殺す必要がある』

 勇者に感情移入をするなと殴られた日のことを思い出した。ディニタの顔は苦痛に歪んでいた。

『僕が変わりに死ねたらいいのに』

 筆圧の強さに紙が破れかけている。文字がにじんでいる。

『ルーチェに生きていて欲しかった。そのために、僕はルーチェの心を殺した。不幸にしてしまった。なんてことをしたんだ』

 ディニタは賢者として、どこまでも冷酷だった。ルーチェに向ける表情が揺らぐことはなかった。リベルタには笑顔を見せていたが、それも嘘くさかった。

 なのに、手記に綴られた文章はどこまでも切実で、彼の悲鳴が聞こえてくるようだった。

『アウトリタから手紙が来た。ヴィータの勢力が動き始めた。ルーチェや僕を殺しにかかるようだ』

 箇条書き。

『物語反対派、多数殺害。ヴィータによるもの』

 荒れた文字。

『ルーチェとリベルタが、何にも定められない真っ白な未来に踏み出す夢を見た。夢だった』

 手記が途切れるまで、あともう少し。

『フィアとアウトリタ、エレフセリアと約束した計画の九割は果たした。いつ死んでもおかしくないし、もう死んでもかまわない』

 そこから中々書き出せなかったのだろう。インクがにじみ黒いシミを作っている。

『でも、死ぬ前に――』

 絞り出したかのように、小さく書かれた願い。

『もう一度、ルーチェを抱きしめたい』


 ルーチェは歯を食いしばる。

 あれほど自分にむごい仕打ちをした、お前が?

「ふざけるな……」

 ルーチェは口に出していた。


『僕が不幸にした最愛の妹。ごめんね』

 壊れたように綴られる。

『ごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんねごめんね』

 ノートいっぱいに並べられた言葉。涙の痕が。震える文字が、ディニタの心がどれだけ蝕まれていたかを伝えてくる。そして、次のページに書きなぐられた言葉。

『誰かルーチェを救ってよ』

 紙いっぱいに書かれた願い。そこで手記は途切れた。

 

 ルーチェは甲板に出る。

 朝焼けに照らされた水面がキラキラと光る。川臭い空気をルーチェは目いっぱい吸い込んだ。


    *


 王都の船着き場に戻る。甲板からぼんやり街を見ていると、見知った影が二つ。ルーチェが船から降りると、二人が駆けてくる。

 アリシヤとリベルタが口々に何かを叫んだものだから、二人が何を言ったかさっぱり分からない。

 心配そうにルーチェを見る赤い目と蒼い目。ルーチェは二人を抱きしめた。

「る、ルーチェ……⁉」

 リベルタを抱きしめたことなんてない。かなり戸惑っている。

「何で勇者様も⁉」

 アリシヤはかなり不服そうだ。

 ルーチェは二人の間で笑った。


 ディニタは優しかった。優しすぎたのだ。家族も、世界も、何もかも捨てられなかった。賢者という冷酷な役割を背負うべきではなかったのだ。

 きっと彼はルーチェを傷つける度に、自身も傷ついていたのだろう。

 許そうとは思えない。だけど、どこかで知っていた。

 ディニタを憎んできた。全てディニタが悪いのだと。だけど、彼だけが悪いわけではない。いや、何が悪いとは一概には言えないのだ。

 行先のない憎悪は己の身を蝕む。

 だからだ。だからなのだ。己の負の感情を向ける先。ディニタはそういう存在でなくてはならなかった。憎むべきは彼だと信じ続ける。ルーチェはそうやって己の心を守ってきた。

 でも今なら、憎むものがなくても生きていけそうだ。

 だから、受け入れよう。幼い日の思い出も、この手記も、最期の言葉も。

 

『ルーチェ、愛してる。だから、生きて――』


 また故郷へ帰ろう。王都でもう一つ墓石を買って。

 そうして話をするのだ。

 

 ねえ、聞いて。私を救ってくれた人がいるんだ。リベルタと、それから、アリシヤ。

 二人といるのは楽しくて、今はとっても幸せなんだ。

 私は生きるよ。守ってくれたこの命で、目いっぱい生きるから。

 だから、安心してね。お兄ちゃん。 


***


ルーチェ(luce)…イタリア語の『光』。どこまでも憎く、どこまでも愛しい存在。

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